ホームゲオルク・カントール


カントール年表


年月
(年齢)
出来事
1845年
(0才)
3月3日、ロシアのペテルブルクに生まれる。父はデンマーク人で、富裕なルター派プロテスタント。母はカトリック。両親ともユダヤ系。
1856年
(11才)
父が肺結核を患ったため、ドイツのフランクフルトに移住。
1860年
(15才)
ダルムシュタットのギムナジウムに入学。この頃すでに数学に魅力を感じていたが、父親から物理や天文学も学ぶよう要求された。
1862年
(17才)
ギムナジウムを好成績で卒業、チューリッヒ工科大学で数学を勉強し始めた。
1872年
(27才)
休暇で訪れたスイスでデデキントに出会い、意気投合する。
1877年
(32才)
投稿論文を編集に関与していたクロネッカーに拒否される。
6月29日、無限に関しては次元には意味がないことを証明し、デデキント宛てに有名な「私は見た。しかし信じられない」という手紙を書く。これに対しデデキントは「簡単には世間に受け入れられない結果なので、慎重に考えなければならない」と返信する。
1884年
(39才)
最初の精神病の発作に襲われる。発作は1ヶ月あまり続いた。回復すると、シェイクスピアとフランシス・ベーコンは同一人物であることの証明に熱中した。
8月26日、数学雑誌『アクタ・マテマティカ』の編集者イエスタ・ミターク=レフラーに「連続体仮説を証明した」という内容の手紙を書く。
10月20日、ミターク=レフラーに「証明できたと思ったのは勘違いだった」という手紙を書く。
11月14日、ミターク=レフラーに「連続体仮説は成り立たないことを証明した」という手紙を書く。
1896年
(51才)
シェイクスピアとフランシス・ベーコンは同一人物であることを「証明する」論文を自費出版する。
1897年
(52才)
チューリヒで開かれた第1回数学者国際会議に出席する。(ヒルベルトが「10の問題」を発表した第2回会議は欠席。)
1899年
(54才)
連続体仮説の証明に失敗した後、発作を起こす。精神病院への入院が長引き、休職願いを提出する。
1902年
(57才)
発作を起こし、約1年間入院する。
1904年
(59才)
ハイデルベルクで開かれた第3回国際数学者会議に出席する。
1911年
(66才)
9月、スコットランドのセントアンドルーズ大学の数学科に招かれたが、シェイクスピア=ベーコン説を講義して顰蹙を買う。その後、ロンドンに赴き、ラッセルに手紙を書くが、面会は果たされなかった。
1917年
(72才)
6月、精神病院に最後の入院をする。
1918年
(73才)
1月6日、死去。死因は心不全。


ミック
作成日:2006/01/20
最終更新日:2006/01/20
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