訳註
[1]
ジグヴァルト(Christoph Wilhelm von Sigwart, 1789-1844)はドイツの哲学者、論理学者。1865年から生涯チュービンゲン大学教授を務めました。主著『論理学』全2巻(1873, 1878)は19世紀ドイツの心理主義的論理学の傾向を代表するものですが、ヴントのように論理法則を単に現実の意識が従う自然法則と理解するのではなく、普遍妥当性を追求する思惟の要請からする規範法則と捉えます。この「規範学としての論理学」は、西南カント学派の認識論など19世紀ドイツ哲学に大きな影響力を持ちましたが、他方、フッサールの『論理学研究』(1900)で厳しく批判されました。
[2]
フィッシャー(Ernst Kuno Berthold Fischer, 1824-1907)はドイツの哲学史家。親カント的ヘーゲル主義者で、ランゲらと共に新カント運動に先駆的な活動をしました。主著は『近代哲学史』で、華麗な文体と体系的叙述から名著として知られ、日本でも広く読まれた教科書です。哲学的には一貫して認識論を重視する立場に立ちました。
[3]
リプシッツ(Rudolph Otto Sigismund Lipschitz, 1832-1903)はドイツの数学者。ディリクレの教えを受け、クラインを育てました。
リプシッツ連続は彼の名前に由来します。
[4]
アルノー(Antoine Arnauld, 1612-1694)はフランスの神学者、哲学者。ポール・ロワイヤルと深い関係を持つアルノー家の一員で「大アルノー」と呼ばれます。一線の神学者でありながらデカルト哲学に理解を示し、アウグスティヌスとデカルトの一致という際どい立場を主張してカトリック教会から異端の嫌疑をかけられましたが、教会内に留まり、厳格な信仰と信者の良心の自由の擁護のために生涯をかけました。ライプニッツとも『形而上学叙説』(1686)をめぐって書簡を交わす仲で、やはりデカルト的立場から批判を加えています。
[5]
「能産的自然/所産的自然」という言葉は、アヴェロエスやスピノザが用いたものです。私は神学的概念には全く疎いので、以下に岩波の『哲学・思想事典』から引用します。
スピノザはユダヤ・キリスト教の伝統的な神(創造主)と自然(被造物)の二項対立の考え方をとらず、神と自然とを同一視した。しかしこの場合の自然とは従来の被造物としての、あるいは単なる現象としての可視的、物質的自然ではない。むしろそれは唯一、永遠・無限の実体としての<能産的自然>である。それはそれ自身の本性によってあらゆるものを実体の様態あるいは変様として自己のうちに産出する内在因である。産出されたあらゆる様態、つまり<所産的自然>は実体のうちにあると考えられるため、因果的には能産的自然から区別されても、実在的には区別されない。両自然は対立しているのではなく、一つに統一されている。
(『哲学・思想事典』p.261)
[6]
ルヌーヴィエ(Charles Bernard Renouvier, 1815-1903)はフランスの哲学者。V.クーザンの折衷主義とサン=シモンの社会主義の影響を受け、1848年の2月革命の際、文部大臣カルノーのものとで共和主義の道徳を説く『人間と市民の共和主義の手引き』を書きました。ルイ=ナポレオンのクーデターの後は政治から身を引き、カント哲学に基づく哲学書を執筆しました。
[7]
ロッツェ(Rudolf Herman Lotze, 1817-1881)はドイツの哲学者。1834年ライプツィヒ大学に入学し、生理学者ウェーバー、物理学者フェヒナ―らの講義から影響を受け、43年より同大学哲学講師。44年からはヘルバルトの後任としてゲッティンゲン大学の哲学教授となり、81年にベルリン大学に転じましたが、その直後に肺炎で死去。形而上学と自然科学の一致を説く立場から機械論を支持しました。またライプニッツのモナド論の影響を受けて、機械論と目的論の調和を目指しました。
[8]
ボスコヴィチ(Rudjer Joseph Boscovich, 1711-1787)は東欧出身の哲学者、イエズス会士。パヴィア大学の数学教授を務めました。ニュートン物理学の影響を受けながら、その基礎であるデカルトの機械論の原子論の説明を逆転させ、力の概念から原子の固さや物質の凝固や化学反応を説明しようと試みました。ここに、「固い球体」という古来からの原子像が消滅し、延長を持たない幾何学的中心としての原子概念が生まれます。全自然現象を力に還元するこの思想は、通常19世紀のファラデーの場の理論を先取りしたものとして評価されています。
[9]
フェヒナ―(Gustav Theodor Fechner, 1801-1887)はドイツの心理学者、物理学者。精神物理学という学問を創始し、後の心理学の誕生の基礎を作りました。「感覚量ないし心理量は刺激量の「対数」に比例する」という「ウェーバー=フェヒナ―の法則」は彼の名前に由来します。
[10]
ヘルバルト(Johann Friedrich Herbart, 1776-1841)はドイツの哲学者、教育学者。早くからカントに傾倒し、イェーナ大学ではヘルダー、シラー、フィヒテらから影響を受けました。1809年からケーニヒスベルク大学のカントの講座継承者として哲学や教育学を論じました。
[11]
ヴント(Wilhelm Wundt, 1832-1920)はドイツの心理学者、哲学者。ミュラーやヘルムホルツら生理学の碩学の下で研究を積んだ後、ライプツィヒ大学で世界最初の心理学実験室を創設し、近代心理学の祖となりました。彼の視野は論理学や哲学まで及び、現在では心理主義の源泉の一人とみなされています。
[12]
カントのいたケーニヒスベルクを指していると思われます。