私が見るところ、一面では、いわゆる 《抽象的な》 線と魚との間に本質的な違いはない。
むしろ両者の間には本質的な類似性がある。
[他のものから] 隔離された線は、[他のものから] 隔離された魚と同じように、自身の力 ―― その力は潜在的なものだが ―― を備えた生命体である。その力は、線や魚にとっては表出の力であり、人間にとっては印象の力である。[線や魚がなぜそのような力を持つかと言えば、] あらゆる存在は自らを強く印象づける 《顔》 を持ち、その顔が表出の力を通して現前するからだ。しかし潜在力の声は微弱である。これらの潜在力が目を覚まし、表出が眩いばかりに発せられ、その結果、印象が深まる、という奇跡をもたらすのは、線や魚を取り巻く環境によるのである。その奇跡が起これば、人は弱い声ではなく合唱を聞くだろう。潜在力が躍動し始めたのだ。
環境とはコンポジションである。
コンポジションとは、作品の全ての部分が持つ内的機能(様々な表出)の有機的総体である。
だが、もう一面から見れば、線と魚との間には本質的な違いがある。魚は泳いだり食べたりできるし、人が食べることもできる。従って魚は、線が持つことのできない属性(Fähigkeit)を有している。
しかし、魚のこうした属性は、料理に使われる場合は重要な付加価値となるが、絵画にとっては価値を持たない。それゆえ、これらの属性は余計である。
私が魚よりも線を好む ―― 少なくとも私の絵画においては ―― 理由は、以上のようなものである。
著:W.カンディンスキー, 1935
訳:ミック
作成日:2003/04/15
最終更新日:2017/06/22
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