ホームウィリアム・モリス

 共有地保存協会[1]のある集会に出席したとき、私は、ある賢明なる講演者が話の中で、私たちの偉大なる諸都市、とりわけロンドンが際限なく膨張を続けるのは必至であると仮定しているのを聞いた。出席していた他の人々も、その仮定を呑気に受け入れていた。きっとそれは常識的なことなのであろう。現行の資本主義体制下では、この恐るべき煉瓦造りの野営地の成長を止められるものを見つけることは難しい。その成長の勢いが、巨大な商業的・工業的中心地の利潤のために、地方や小都市の人口減少を招いていることは疑いない。しかしこの悪は、巨悪ではあるが、土地の独占、個人の利潤のための工業、競争的分配の馬鹿げた浪費、これらを撤廃すればもはや必要悪ではなくなる。そして、私たちが良識を取り戻し、人間らしく生きる決断を固めたなら、資本主義の圧制が私たちに押し付けた諸悪を、動力としての電力の発展によって除去することはますます容易になるであろう。たとえ今後、私たちが依然として石炭と蒸気の力に頼らねばならないとしても、工業と分配における全体的な協力体制が現在の競争的無秩序に取って代わるならば、人生を楽しいものにするためにより多くのことができるようになる。だから、夢想家と見なされる危険を冒してでも、人生の喜びの理想を称揚し、それを実践することが重要なのである。なぜなら、社会革命の引き起こす危険の一つは、せっかく資本主義の崩壊を経験する世代が、現体制の無数の不幸をずっと耐え忍ぶよう教育されてきたため、文化的洗練と真の喜びの基準をあまりに低く見積もりすぎることだからである。雀の涙ほどの生活の糧すら失いかねないという恐怖に打ちのめされている人が、自分たちを抑圧している恐怖とひどい労苦からの解放以上のことを望み得ないというのは、当然のことである。しかし、共同体が機械、工場、鉱山、土地を所有し、共同体の利益のためにそれらを管理するようになれば、そしてその必然の結果として、人々が、ただの生活必需品の供給を重荷などではないと知り、そのような重荷は彼らの精力に正当な機会を与えないということを理解するようになれば、間違いなく状況は変わる。これらのことが実現すれば、言い換えれば、民衆が自由を手にし、余暇においても仕事時間においても醜悪さと無秩序に囲まれることを拒否するようになれば、話は全く別なのだ。

 そこで、社会主義者の望む人生の喜びの一部分を提示するために、工業の状況について若干の質問を提起し、これに答えてみたいと思う。

 なぜ人々は、大都市という名の灼熱地獄に押し込まれて、制御不能な群集と化しているのか?

 利潤のためである。そのため、労働者予備軍は、賃金鉄則[2]に従って常に賃金低下の影響をうける状態にあり、かつ、資本主義的な賭博者 ―― 一般に「労働の組織者」という間違った呼ばれ方をしている―― の突発的な要求に左右されている

 なぜ十分な賃金を求める競争者の群集は、フラットヘッド・インディアンにとってさえ不名誉なあばら家に住んでいるのか?

 利潤のためである。誰も自分が住むためにそんな犬小屋を建てようとはしない。民衆に上品な装飾の風通しの良い住居をあてがい、その住居に、オックスフォード大学やケンブリッジ大学が持っているような、共同の炊事場と洗濯室、共同の食事や他の目的のための美しいホール ―― ただ座っているだけで楽しくなるような ―― を設置することについて、克服できない困難などない。

 なぜどの家も集合住宅も、平屋であるなしに関わらず、美しくて十分な広さの庭園と運動場を持っていないのか?

 利潤と競争的地代がそれを禁じているためである。

 なぜイギリスの3分の1の国土が、(例えば)ヨークシャーの大部分から発生する煤煙によって毒され、窒息せねばならないのか? ヨークシャーの羊は当然黒いことが世間一般の理想なのか? そしてまた、なぜヨークシャーやランカシャーを流れる河川がただの汚物となり、黒く染まらねばならないのか?

 利潤がそうさせるのだ。気品ある生活に対するこのような犯罪を阻止することが簡単ではないなどと、今さら嘘をつく人間はいない。だが「労働の組織者たち」 ―― 「汚物の組織者たち」と呼ぶ方が相応しいが ―― は、この犯罪が引き合わないことを知っている。だから彼らは、一年の大半を安全な地方で過ごすのである。スコットランドで狩猟をし、地中海でクルージングを楽しむ。彼らが煙の立ち込める土地を訪れるのは、想像力を刺激するための気分転換に過ぎない ―― お分かりだろう、私たちは神学者であってはならないのだ。

 工場そのものについての問い:なぜ工場の中には円卓を回す空間もない有様なのか? なぜ特大の綿織物を作る小屋の中は、リューマチ治療用のサウナもかくやという蒸し暑さなのか? なぜ工場というのは、こんなにも悲惨な地獄であるのか? 利潤追求がそれを強要するからである。それだけである。工場の中に十分な空間も豊富な大気も可能な限りの静寂も存在しないことに、他の理由などない。そうでなければ、工場は自然の本性に従って美しくあり、樹木と庭園に囲まれていたであろう。工業の作り出す必要品を、工場の環境美化のために利用することもできたであろう。なぜなら、例えば織物に捺染する仕事には大きな貯水槽が必要なのだから。

 そうした工場における労働は、重荷であるどころか極めて魅力的でさえある。最も喜びを求める年頃の若い男女は、楽しいパーティに出かけるように仕事に出かけるだろう。労働がそのように調整されれば、希望に満ちた仕事における交流ほど愉快な社会的関係はないということに、全く疑いはない。その交流は、愛、友情、家族愛を促進する。歓びは増し、悲しみは減る。

 これを実現するための物質的手段はどこから来るのか? 労働者の同士諸君、それは「汚物の組織者たち」が諸君の労働から搾取した莫大な剰余価値からである[3]。その価値は、老若問わず集結した天才たちが発明した道具と機械を使用するために、つまり、共通の母たる大地から与えられた諸君の分け前を使用するために、諸君から騙し取られたものである

 同士諸君、これは考えてみる価値のあることだ! なぜなら、神学者は地獄がどこかに実在することに反論しているが、私たちは、地獄がここにあるということに気付きつつあるからだ。資本主義が生き延びるなら、死んだ後どこに行くかはさておき、生まれたときは地獄へ来ることになる。このことをよく考えてほしい。そして社会主義という宗教の布教に、諸君の身を捧げてほしい。


訳註
[1] 共有地保存協会(Commons Preservation Society)は、自然環境や文化財保護を目的として、主に裕福な知識人によって1865年に創設されました。史上初めて環境保護運動に取り組んだ団体の一つで、ナショナル・トラスト(1895年創設)にも影響を与えました。

[2] 賃金鉄則は、仕事を求める労働者間の競争が、労働の価値を労働者が飢えるすれすれまで低下させる、というリカードの説です。

[3] 剰余価値はマルクスが『資本論』で確立した概念です。労働者の労働力の価値(賃金)を超えて生み出される価値のことで、マルクス経済学では、これが資本家に搾取され、利潤・利子・地代などの源泉になるとされました。

 

著:W.モリス 1884.4.12
訳:ミック
作成日:2005/12/30
最終更新日:2017/06/22 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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