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I. 多数の小規模の科学部門 ―― 論理的始点としての


 私たちは、これまで一般的に採用されたような、一つの整合的体系を成す諸科学の分類方法を持った経験がない。そのため、そのような諸科学の包括的体系を作ることは、統一科学の論理化を阻害することになりはしないか、という疑問が生じる1

 伝統的体系の主要な分類は、例えばこんな感じだ。(「生物科学」と対照する意味での)「非生物科学」、(「具体科学」と対照する意味での)「抽象科学」、(「自然科学」と対照する意味での)「精神科学」。こういう分類方法に対しては、当然、非常に多くの科学的判断 ―― 例えば、特定の科学的手続きを特定の分野に適用するか否か ―― の容認と拒否が予想される。この困難を避けるには、科学を知識体系化した構造にありがちな早まった諸前提を使うのではなく、もっと別のタイプのスタート地点から始めればよいということに納得すればよい。大多数の科学部門(その多くは非常に小さい)は、可能な限り体系的に、一歩一歩組み上げていけるだろう。この組み上げの増大は、科学的研究と体系的論理化の増大と密接に関係している。化学と光学は、ただ分類しただけでは本当に結合することはできまい。

 「論理学」、「数学」、「物理科学」、「生物科学」、「社会科学」といったよく見かける部門は、手引書や百科事典の巻本、図書館のセクションのような使い方ができるだろう。いわばこういう名前は、手引書や巻本やセクションが取り扱うテーマについての最初の情報を与えてくれる。図書館の司書は、一冊の本を見つけるために、書誌学的によく定義された唯一の場所を発見しなければならない。しかし、本を様々な書棚に配置するやり方を、そのまま諸科学を論理的枠組みに基づいて配置する方法に適用することはできない。書誌学における交差関係(cross-connection)は[1]、必ずしもそれが本来の目的とする論理的分類の代用とはなりえないからだ。問題はいたるところで生じる。例えば、「地理学」は「物理科学」の下位クラスなので、上の伝統的枠組みに従えば「非生物科学」ということになる。しかし、古生物地理学は地理学の一部であると同時に生物学的特徴も備えている。すると「混合科学」なる分類を導入するべきだろうか? そうすると、大抵の科学は「混合科学」ということになってしまいそうな気もするが。

 部門の「微小性」と「独立性」に反することなく、比較的はっきりした特徴を持つ科学部門をだけを厳選するという原則に従うと、次のような部門が得られよう ―― 紋章学、犯罪学、ビジネスサイクル理論、エンジニアリング、美術史、音声学、比較文法、歴史研究の各種方法、人類地理学、精神医学、達成行動理論、人体測定学、メンデル学説、植物学の研究方法、ヒストリオメトリー、環境学、地理学、天文学、宇宙論、物理学、確率論、ベクトル解析学[2]。比較的はっきりした特徴を持つ科学だけを厳選するという原則から出発すると、一見しただけでは明確な特徴によって分野の重複を回避できていないことが分かる。そうした研究分野の相関関係や異なる部門の共通テーマ、特定の科学単位の共通の論理的性質を示すためには、特別の努力が必要になる。これらの諸単位や新しく形成された諸単位を一つにまとめ上げるのは、それが終わった後の、第二段階の話である。



II. 主要な方法の中立性


 メンデル学説の本質部分は、「生物」の特殊性を抜きにして論じることができる。例えば、(豆などの)特定の要素集団が、いわば「分子運動」をすることや、それらの性質(赤いとか白いとか)がどのように分布しており、またどのように関係しているか、ということについて論じることができる。

 ブラウン運動が発見された当初、これは生物学的事実だと考えられた。その頃この現象について行なわれた幾つもの正当な記述は、この運動を統計的な微視的物理学の枠組みに位置付ける現代理論が登場した後でも、不適切なものにはならない。

 ケプラーの諸法則は、膨大な量の観察に合致している。もし仮に、惑星が微生物から構成されていることが判明したとしても、この諸法則は変化しない。ケプラーの考えでは、生物(天使)が惑星を誘導し、惑星は文字通り天体の調和に従って動くことになっていた。彼は、「天体のメロディー」が、楽譜とプラトンの単純な地理体系に基づく惑星体系から成るメロディーであることを証明しようとしていた。ケプラーの諸法則は、天文学者がこのアイデアを科学作品のリズムに使うのをやめた後でも変わらない。つまり彼の諸法則は、天文学的現象が生物学的か非生物学的かという問題から「中立」なのである。

 地理学において「地理学は地球の構造を扱う」という単純な言明から出発できるように、天文学においても「天文学は星や銀河などを扱う」という単純な言明から出発できる。こういう言明は、特定の理論をあらかじめ締め出すような仮定を一切含まないので、幾つかの困難を避けられることは明らかだ。やろうと思えば、「宇宙論」という言葉に、自分が論じたい物事の最大集合を割り当てることだってできなくはない。

 地理学者は、サンゴを前にしても、それが「生物」だからという理由で分析を止めたりしない。月についての記述を天文学に含めるのなら、結果的に、「サンゴ」や「森」などの観点から見た地球の記述も天文学に含めざるをえない。天文学者は、植物も動物も自分にとってはただのものの集まりに過ぎないと答えるかもしれない。だが、植物と動物は重力を持つもの以外の何物でもないと仮定するのは、早計ではないのか? 地球の運行に逸脱が生じるのは、地球上の生物と日光の量と関係している可能性があると仮定することだってできるかもしれない。天文学を非生物科学として定義することによって、こうした問題は別の科学分野で議論するべきであると結論するべきだろうか? 宇宙論で議論されている重要な価値の全てが宇宙生命体に依存していないかどうか、私たちは知っているのか? 上述の「天文学は星などを扱う」という、より中立的な定義を採用する方が、より賢明と言えないだろうか?

 全種類の「生物」が同じ特徴を持っているか、生物を石と同じやり方で分析できるかどうかを知らないまま、いわゆる「生物」の分析を行なったなら、諸科学の間には、今より中立的な区別が見出されるだろう。予防と中立は有用かもしれないのだ2。こうした始点の科学単位が小さければ小さいほど、科学的記述の変化は少なくてすむ。「魚類」の一般的記述が変わらねばならないとしても、鯨の一般的記述は変わらない。なぜなら、鯨は魚類のクラスから除外されているからである。この全体的態度を包括的規則の中に定式化することはできない。
 



III. 科学の統一


 もし非常に多くの、互いに重なり合う諸分野(その幾つかは比較的広い範囲を持ち、また幾つかは狭い範囲を持つ)から始めるなら、あらゆる種類の言明を公理化することができるかもしれない。ある種類の言明の構造が、別の種類の言明の構造と同一であるようなケースを全て選抜できるかもしれない3。見かけ上はかけ離れた分野同士が、共通の主題をその本質とする場合を発見することもあるだろう。統一の持つもう一つの重要なファクターは、天文学、生物学、地理学、メンデル学説、紋章学、美術史の諸言明が、日常言語の普通の用語(ただし危険な用語は省く)に科学用語を追加して構成される「普遍言語(universal slang)」4を用いて定式化可能であることを示す努力にある。天文学や美術史、メンデル学説、等々の用語が「普遍言語」の用語に還元可能であることは、部分的には「単純定義」と「条件的定義」に基礎づけられる5。もう一つの問題は、科学の言明と法則をいかにして特定のタイプの言明と法則に還元するか、というものである。「物理主義」のプログラムがこうした問題を扱う。

 統一によって、伝統的な主要部門においては結びついていた分野同士が分離したり、またはその逆のことも起こるかもしれない。いわゆる社会科学の下位分野が普遍的な社会科学的語彙集合に基礎づけられていると仮定するのは間違いであろう。社会科学の枠組みの中では、人々によって作られたものが論じられてきた。もしかしたら、そうした多くの下位分野においては、その意味内容を変えることなく「人間」という語を使用しないことになるかもしれない。例えば、歴史言語学者は、「特定の」社会学的・生物学的用語を使わなくとも「子音の変化」について分析することができる。子音は、人間の舌を使わなくても、蓄音機によって合成的に作り出すことができるだろう。年代別に並べた絵画や建築の間に相関関係を発見することも可能であろう。その際には、「子音の変化」を演繹するための生物学的・社会学的言明のような、民族や個人の行動を扱い、そこから相関関係を演繹できる言明を持つ包括的な理論について知っている必要はない。

 分析を行なう科学者は、小さな領域から大きな領域へ進み、重層的な相関関係と非常に豊かな論理的パターンを形成する組み合わせを発見するであろう。



IV. 百科全書主義 対 「ピラミッド主義」


 予想される諸科学の分類法に対する反論を以下に述べよう。この反論は「百科全書主義」の本質に関わるものである6。百科全書主義のプログラムは、一般的な「唯一の体系(THE SYSTEM)」を斥ける。それゆえまた、「諸科学の唯一の体系」や「諸科学の至高の体系」、「諸科学の自然な序列」など、しばしば形而上学的思惟と緊密に結びついてきた観念も斥ける。創始者が経験主義に関心を持っている場合でさえ、科学の分類や整理がこうした形而上学的知識体系の派生物として見なされる場合は、少なくない7。こうした整理の仕方は、「ピラミッド主義」に共通の特徴を示している。つまり、諸科学を主要部門、下位部門、そのまた下位部門に分けることで、対称的で完全な一大建築物を作ることを意図しているのである。このピラミッドは巨大な包括性の体現であり、その根はスコラ主義その他の包括的体系である8。百科全書主義は、主な方向性として、司書が作るような大雑把な書誌学的序列で満足する。もっとも、その司書の少なからぬ数もまた「ピラミッド主義」に毒されているのだけれど9

 百科全書主義は、一見すると、「ピラミッド主義」に基づく従来型の立場に比べて不調和のように見える10。百科全書主義は、非常に多くの言明の集合が、いわば一箇所に存在するという事実を受け入れる。一貫した形式を得るためには、公理化などの方法が必要であり、複雑なネットワークは徐々に形成されていくであろう。対称的なピラミッド型の建築物は存在しない。長い年月を経る中で、諸科学のモザイク・パターンは、より密接に結びつきあう幾つもの特徴を示していくだろう。しかし、科学的態度が仮にも妥当なものでありつづけるならば、そのパターンも不断に変化を続ける。

 これまでに明らかにしてきたような特徴を持つ統一科学の百科全書的統合は、現実的な道具を提供することで科学の共同研究の包括性を支えるものであり、従来の知識体系の幻想とは縁遠い。このような百科全書的統合の総合教育の効果の基礎は、包括的な科学的態度にあるのであって、唯一の体系という特殊な理想とは関係ない11

 科学主義のあらゆる傲慢さを免れた、この気取りのない統合プログラムは、一体何を達成することができるだろうか? それは言葉で説明しても始まらない。ただ、行動そのものによってのみ証明することができるのだ。

原註
1 オットー・ノイラート「百科全書的統合としての統一科学」『統一科学の国際百科全書 第1巻第1号 ―― 百科全書と統一科学』, シカゴ, 1938. p.25.

2 ルイージ・ガルバーニ生誕200年記念科学会議におけるニールス・ボーアの講演「生物学と原子物理学」を参照。 (物理学会議長講演, 1938年10月19日。ボローニャ, p.13. 「身体器官をよく定義されたシステムと見なすことの不可能性は …… 」

3 様々な科学から例を挙げることができる。この問題に関しては、ヘルマン・ワイルの「エミー・ネーターの思い出」『スクリプタ・マテマティカ』(第3巻第3号, 1935)における興味深いコメントを参照。彼はそこで、ゴルダンの「数学的化学」のアイデアと論理的同型性が持つ可能性のある科学的重要性に言及している。

4 オットー・ノイラート「プロトコル命題」『認識』(第3号, 1932/33)。

5 科学統一の進展は、「条件的定義」の体系的導入によって本質的に促進される。ルドルフ・カルナップ「科学統一の論理的基礎」『統一科学の国際百科全書 第1巻第1号 ―― 百科全書と統一科学』p.49 を参照。カルナップは、私が上で行なった押し付けがましい科学の序列に反対はしていない。しかしこの序列も、還元可能性と科学統一の他の諸問題についての彼の説明に影響はない。

6 オットー・ノイラート「モデルとしての百科全書」『レビュー・ド・ジンテーゼ』(1936年10月)。

7 ヴィルヘルム・オストワルト『科学のピラミッド」(シュトゥットガルト, ベルリン, 1929)。彼はコントらの影響を受けている。スペンサー、ヴントなども似たような体系を作った。

8 ロバート・フリント『科学の科学としての哲学および諸科学の分類の歴史』(エディンバラ, ロンドン, 1904)p.3, 4, 6 を見よ。「諸科学は巨大な全体の一部であり、壮大な体系の一員である …… (そしてその体系は)それ自身、知識の対象である。 …… 諸科学の科学がなくてはならない …… そしてその科学こそ哲学である ……。哲学は、科学同士がどのような関係を持ち、どのような点で接し、どのような仕方で結びついているかを示さなくてはならない。そうすることで、全ての科学は対称的で輝かしい、人間の知識の大建築を構成することができる。 …… この世には、一つの科学が存在するのみである。しかし、その科学は多様な部門を持ち、その各部門内において、自然の通訳不可能性は私たちの能力でも理解できるものになる。そして諸部門の間には、席次と従属関係、秩序と調和が存在する。」 統一科学を百科全書的に統合しようとする現代の努力は、こんな崇高な聖歌の中にも見出せる。しかしまた、人はここに全ての「ピラミッド主義」に共通の早まった思い込みの危険性をも見るであろう。「科学の科学」が、現代的な経験主義においてどのように復活しているかは、チャールズ・モリス「科学的経験主義」『統一科学の国際百科全書 第1巻第1号 ―― 百科全書と統一科学』, シカゴ, 1938. p.69. を参照。

9 ヘンリー・イヴリン・ブリス『知識の組織化と諸科学の体系』(ニューヨーク, 1929)p.73。「科学は他の科学と明確な関係を持っている。科学のグループ、または科学の集合というものが存在するのだ。これらの科学および関係が、科学体系を構成するのであり、その体系は一貫性もしくは統一性を持つ。」 また、彼の『図書館における知識の組織化』(ニューヨーク, 1934)および『書誌学的分類法の体系』(ニューヨーク, 1935)も参照。ブリスは幾つかの書誌学的体系を分析しており、その中には有名なメルヴィル・デューイの体系と、『書誌学の国際機構の10進分類法』(ポール・オトレ, ブリュッセル)で詳述された拡張版も含まれている。同書では、一部では科学体系の観念について分析され、一部では司書が直面している非常に具体的な技術上の問題が分析されている。デューイとブリスの第2版は、「唯一の体系」という観念を除けば有用である。ポール・オッペンハイムが『諸科学の自然な秩序』(イェーナ, 1926)で行なっている多くの価値ある提案に対しても、同じことが言える。他の論者同様、オッペンハイムもまた、伝統的な科学の境界線は科学の論理化が進む現代の要求を満足させられると信じている。ウィリアム・マリア・マリソフの興味深い科学の記述(「科学を整理する」『科学哲学』Vol.IV, 1937, p.261)も、幾何学的に完璧すぎるきらいがあるが、どの科学分野が将来有望な開拓地になるかを見出したいときは役に立つかもしれない。

10 ここでは他の有名な科学体系(例えばベーコンのものやアンペールの奇妙な分類体系)の構造やファサードについて分析する余裕はない。

11 なかには、共同作業としての科学的統合の教育的重要性を強調する研究者もいる。例えば、ジョン・デューイが書いたブリスの『知識の組織化』の「序文」 IX ではこう述べられている。「これまでは、専門化が非常に進展してきた。そのため、今や統合のための努力が急を要する課題になった …… 現在においては、特別な教育的任務が緊急かつ優先度の高いものになった。」 またデューイ「社会問題としての科学統一」『統一科学の国際百科全書 第1巻第1号 ―― 百科全書と統一科学』p.29 も参照。

訳註
[1] 「交差関係」とは、書誌学や図書館学における「交差分類」のことです。例えば絵画を分類するとき、分類の基準とする特性を明確にしないまま、「1:油絵」、「2:風景画」、「3:水彩画」 ・・・・・・ などという分類を設けると、「油絵で、かつ、風景画」という絵画は1番と2番の両方のクラスに含まれてしまいます。このように、分類特性が排他的でない場合に生じる重複特性を持つ分類を交差分類と呼びます。
 ノイラートも冗談半分に、「混合科学」という概念を導入すべきか、などと言うように(ちなみにディドロとダランベールの百科全書には「混合数学」という部門があります)、20世紀に入ると、「分子生物学」や「医療倫理学」のような複合主題の図書の刊行が増加します。このような状況を受けて、複合主題をどう処理するかが図書館学の主要な関心になり、S.R.ランガナタンのコロン分類法(1933年成立)や、ノイラートも原註9で触れている H.E.ブリスの書誌分類法(1940年成立)など分析合成型と呼ばれる分類法が考案されました。

[2] なにやら怪しげな「科学」の名前がいくつも出てきます。
 ビジネスサイクル理論は、別名、景気循環の理論とも呼ばれます。経済にはどうも周期的な波があるという経験的な観察をもとに、その変動を説明できそうな周期をあれこれ挙げてみるという、いかがわしい代物です。当時の代表的な理論家に、「太陽黒点説」のジェヴォンズやシュンペーターがいます。
 人体測定学は、人類学的な分類と比較のために人体の特徴を測定する研究です。20世紀初頭までは、主に犯罪学の方法論として使用されており、例えば「殺人者は顎が大きい」のような、今から見ると頭痛のするような一般化も平気で「定理」として認められていました。優生学と並んでナチスの人種政策に利用された悪名高い「科学」の一つです。
 ヒストリオメトリーは、優生学の創始者として知られる F.ゴールトンが「天才はほとんど完全に遺伝する」ことを証明するために書いた『遺伝と天才』(むかし岩波文庫から甘粕石介訳で出ていた)で用いた方法論です。その内容は、紳士禄、海軍将校のリスト、ケンブリッジ大学の数学試験成績優等者の名簿など、「中立」のデータを用いて、そこから天才たちの家系的な相関関係を調べるという、今でいう回顧データ分析です。無理やり訳すなら「系譜測定学」とでもなるでしょうか。
 しかしこうしてみると、犯罪学、人体測定学、ヒストリオメトリー、相関関係など、今では疑似科学の創始者として負のイメージの方が強いゴールトンに関係する単語が頻出することに驚かされます。ウィトゲンシュタインも「倫理学講話」『青色本』でしばしばゴールトンに言及していたことを考えても、当時の彼の影響力がうかがえます。

 

著:O.ノイラート 1938
訳:ミック
作成日:2006/05/20
最終更新日:2017/06/22 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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