ホームフランク・ラムゼイ

 哲学は何らかの有用性を持たねばならないし、私たちはそのことを真剣に考える必要がある。哲学は、私たちの思考と行為を明晰なものにしなければならない。さもなければ、哲学は私たちがやめねばならない性癖であり、かつ、哲学がそういうものであることを調べる行為ということである。 [その場合、] 「哲学はナンセンスである」が哲学の中心命題になってしまう。しかしたとえその場合であっても、その命題は真剣に考慮されるべきである。ウィトゲンシュタインのように、その命題は重要なナンセンスである、という振りをするべきではない!

 哲学は、科学的命題や日常的命題を取上げ、それらを原始的な用語(primitive term)と定義などを持った一つの論理体系の中で提示しようとする。本質的に、ある哲学はある定義の体系か、あるいは、非常によくあることだが、定義の与え方についての記述の体系である。

 私はムーアのように、定義は私たちがその命題によって今まで何を意味していたのかを説明するものだ、と言う必要はないと思う。むしろ定義とは、未来において私たちがその命題をどのように使おうと意図しているかを示すものだと思う。ムーアだったら、「どっちも同じことさ。誰かが『これはテーブルだ』という命題によって意味したことを、哲学が変えることなどない」と言うだろう。しかし私には、そういうことも起こりうると思われる。なぜなら、意味とは大抵は潜在的なものであり、従ってその変化が露になるのは、非常に稀で、境界線の引きづらい場合に限られるからである。また、時として言われることだが、哲学はそれまで曖昧で混乱していた概念を明確にし、区別をするだろうが、これは明らかに、未来の意味のみを確定するために行なわれることである1。いずれにせよ明らかなことは、定義は少なくとも将来の意味を与えるべきであり、単にある特定の構造を得るための美しい方法を与えられればよいわけではない、ということである。

 私はかつて、哲学の本性について、その過度のスコラ主義のために悩んだものである。私は、なぜ私たちが一つの語を理解できるのに、それについて提案されている定義が正しいのか否か判断できないのか、分からなかった。私は、理解という概念全体の曖昧性に気付かず、語を理解するということに、欠落しているため修復せねばならない多くの作業が含まれていることに気付かなかった。論理はトートロジーに、数学は恒等式に、哲学は定義に帰着する。これら全ては瑣末なことだが、しかし、どれもが私たちの思考を明晰にし、組織的にするために不可欠な作業の一部である。

 もし私たちが哲学を定義(および、言葉による定義ができない語の用法についての解明)の体系とみなすなら、その哲学に関する問題群は、以下の3つであると私には思われる。

  1. 1. 私たちは、どのような定義を与えることが哲学の使命であると感じるのか? そしてどのような定義は諸科学には任せるべきで、どのような定義は与える必要がないと考えるのか?
  2. 2. 私たちが、定義なしに、ただ、定義がいかにして与えられるかの記述が与えられただけで満足できるのは、どのような場合か? そしてそれはどの程度満足できるのか?
  3. 3. 終ることのない論点先取りの間違いに陥らずに哲学的探究を行なうことは、いかにして可能か?

 1. 哲学が関心を持つのは、定義についての特殊な問題ではなく、一般的問題のみである。哲学は、科学の専門用語を定義しようとするのではなく、例えば、そういう用語を定義する際に生じる問題や、物理世界における用語と経験における用語との関係から生じる問題を解決しようとする。

 もちろん、科学の用語は定義されなくてはならない。だが、それは必ずしも言葉で定義される必要はない。例えば、質量の定義は、その測定方法によって行なわれるが、これは言葉による定義ではない。この定義はただ「質量」という語を、一つの理論的構造において、特定の実験的事実と明確に関係づけるだけである。私たちが定義する必要のない用語は、「椅子」のように、必要があれば定義できることを私たちが知っている用語か、あるいは「クラブ」(トランプの札の種類)のように視覚言語や他の言語になら簡単に翻訳できるが、言葉には簡単に展開できない用語である。

 2. 私たちが 1. において「定義の一般的問題」と呼んだ問題に対する解答は、当然ながら、定義を記述することであり、その記述から私たちは、特定のケースにおける実際の定義の形成方法を学ぶことになる。私たちが、非常に頻繁に、本当の定義を得ていないと感じる理由は、問題の解答が、「言葉による定義は不適切で、求められているのはその記号の用法の説明である」という形をとる場合が多いからである。

 しかしこのことは、項目 2. における本当の困難と思われるものには触れていない。なぜなら、 [前段で] 上述したことは、次のような場合にのみ当てはまることだからである。つまり、定義される語は記述されるのみで(なぜならそれは一つのクラスの要素として扱われるから)、その定義や説明もまた当然、記述されるのみという場合である。ただし、その語が実際に与えられたら実際の定義も導き出せるような記述の仕方でなくてはならない。しかし、語の定義の与え方には別のケースもある。それは、語は与えられているのに定義の方は与えられておらず、「この語にはしかじかの種類の実体がしかじかの仕方で含まれている」という言明のみが与えられている場合である。例えば、仮に私たちがその実体の名前を持っているなら、その場合は定義を与えてくれるであろう言明が与えられた場合である。

 こうした言明の用途は、ある項を諸変項との関係に位置付けること、つまり項を正しい複合的変項の値として代入することである。このことは、私たちは、諸変項の全ての値となる名前を持っていなくても、変項を持つことができるという前提の上に成り立っている。 [この前提からは] 「私たちは全ての値の名前を常に名づけることができるに違いないのか? もしそうだとしたら、これはどういう種類の能力を意味するのか?」という難しい疑問が生じる。しかしこの [代入される値の名前を全て持たなくても、変項を持つことができるという] 現象は、明らかに、私たちの言語が非常に断片的にしか表現できない感覚との関係において何とか可能になる現象である。例えば、「ジェーンの声」は私たちが名前を持たない諸感覚の特徴を記述する句である。やろうと思えば、この特徴を名付けることもできよう。しかしこの特徴を構成する様々な [声の] 変化まで同定し名付けることができるだろうか?

 感覚的特徴の定義をこのように記述することに対してしばしば行なわれる反論は、そのような記述は私たちが分析することで見出すべきものを表現してはいるが、しかしこの種の分析は、単に複雑さを発見するだけの振りをして、実はその複雑さを助長している、というものだ。注意を向けることで私たちの経験が変化することもある、ということは疑いない。しかし私としては、注意を向けることによって、既存の複雑さを顕在化させる(つまり、適切な記号化を可能にする)ことも、時としてあると思う。というのも、 [記号化することで] 新たに複雑さを作り出してしまう場合を除けば、記号化はいかなる付随的な事実の変化とも両立可能だからである。

 定義の記述に関するもう一つの困難は、私たちがその記述に満足している場合、無意味な変項――例えば「個物」のような記述によって作られる変項とか「点」のような理論的観念とか――を導入することで無意味なものを受け入れてしまうことが、容易に起こりうる点である。例えば私たちは「広がり」と言うことで点の無限集合を意味する、と言うかもしれない。もしそうだとすれば、哲学を理論的心理学に受け渡していることになる。なぜなら、哲学において私たちは自らの思考を分析するが、その思考の中では、広がりが点の無限集合によって置き換えられることは不可能だからである。私たちは、ある特定の無限集合を外延的に決定することはできない。 [例えば] 「この広がりは赤い」は、a,b, ... を点とした場合の「aは赤い、かつ、bは赤い・・・」の短縮形ではない。(もしaだけが赤くなかったとしたらどうなるのだろう?)無限集合という考えが登場するのは、私たちが心を外側から眺め、それについて理論を構築する場合のみである。その理論においては、心の感覚領域は、精神が思考の対象とする有色の点の集合から構成される。

 さて、仮に私たちが自分の心についてこうした理論を作るなら、この理論をある諸事実、例えば「この広がりは赤い」のような事実についての説明とみなさねばならない。しかし他人の心について考える場合、私たちは一つの事実も持っておらず、完全に理論の圏内に留まっている。そしてこのような理論的構築物は領域全体を占有しているのだと納得することができる。その後に自分の心へと注意を戻して、「自分の心で実際に起きていることはただの理論的過程に過ぎない」と言う。この最も明瞭な例は、もちろん唯物論である。だがカルナップや他の多くの哲学者も全く同じ間違いを犯している[1]

 3. 私たちの3つ目の問題は、どうすれば論点先取りの間違いを回避できるか、というものだった。この危険は、大体次のようにして生じる。――私たちの思考を明確にするための適切な方法は、単純に、「私はそれによって何を意味しているのか?」とか「この用語にはどのような別々の考えが含まれているのか?」とか「本当にあれからこれが帰結するのか?」などといった問題を自分でよく考えてみて、提案されている定義とそれによって定義されたものの意味が同じかどうか、実例や仮説的な例を使って検証してみることだ、と思われる。私たちがこうしたことを行なうとき、意味それ自体の本性について考えないことも、しばしばありうる。私たちは、「馬」と「豚」という語によって同じものを意味しているか違うものを意味しているか、意味一般について全然考えなくとも判断できる。しかし、もっと複雑な種類の問いに決着をつけるためには、その問いを持ち込むべき論理構造、論理の体系が必要とされることは明らかだ。この論理構造にも、上記の例と同じ方法を比較的簡単にあらかじめ適用しておくことで、 [その意味を] 手に入れられると、私たちは期待するかもしれない。例えば、「not pまたはnot qが真である」と言うことは、「pとqの両方が真であることはない」と言うことと同義であることを理解するのは、難しくはあるまい。この場合、私たちは一つの論理を構築しているのだが、また同時に、完全に無自己意識的に哲学してもいるのだ。このとき、私たちは最初から最後まで事実について考え、事実について考えている私たちの思考について考えずに、意味の本性に全く言及することなく自分が何を意味しているかを決定している。〔もちろん、私たちはまた、無自己意識的に意味の本性について考えることもできよう。つまり、意味の一つの事例を、私たちが意味しているのはそれなのだということを意識せずに考えることはありうる。〕これは一つの方法であり、また正しい方法かもしれない。しかし私の考えでは、これは間違った方法であり、袋小路に突き当たってしまう。だから、私は次のような仕方でこの方法と訣別したいと思う。

 私たちの思考を明晰にする過程において、その意味を定義するという通常のやり方では解明することのできない用語や文に出くわすことがあるだろう。例えば、不定的仮定文(variable hypotheticals)や理論語を定義することは不可能である。しかし、それらの使われ方を説明することはできる。私たちは、その説明において、語っている対象のみでなく自分自身の心の状態も眺めなくてはならない。ジョンソンの言うとおり[2]、確かに論理のこの側面には、認識的あるいは主観的側面があることを無視できない。

 さて、このことが意味するのは、意味そのものについて明晰にしなければ、用語や文を明晰にすることはできない、ということである。すると私たちは、まず最初にその意味を理解していなければ、例えば、自分が時間や外的世界について言うことを理解できないし、また、まず最初に時間や、おそらく私たちを含んでいる外的世界について理解していなければ、その意味を理解できないという状況に追い込まれると思われる。それゆえ、一つの目的へ向う順序だった過程に哲学を組み入れることはできず、私たちは自分たちの問題をまとめて引き受けて、一つの同時的解決へと跳躍しなければならない。そして私たちが手に入れる解決の本性は、仮説的なものである。なぜなら、その解決は、直接的な論証の結果として得られるのではなく、それが私たちの幾つかの要求を満たすと考えうる、唯一の解決と思われるからだ。

 もちろん、ここでの論証という語を厳密に考えるべきではない。ただ、哲学においても、物事が段階的に明らかになっていく「線形推論」に似た過程があるということである。そして上記の理由から、この推論を最終的解決へ持っていくことはできないのだから、少しづつ [結論を] 改良していくことに満足するという立場に、普通の科学者たちと同様、私たちも立つことになる。私たちは幾つかの物事をより明晰にすることはできる。しかし、 [最終的に] 明晰にできる物事は一つもない。

 私は、この自己意識性は、少数の限られた分野を除いて、哲学では不可避的だと考える。私たちが哲学に駆られるのは、自分が意味することを明確に知らないからである。だから [哲学における] 疑問はいつも「私はxによって何を意味しているのだろう?」という形式をとる。そして、この問題に対して、意味について考察することなしに回答できる場合は滅多にない。しかし、意味について問題にしなくてはならない必要性は、問いに答える上での単なる障害ではない。逆に、これこそが真理へ到達するための本質的な手がかりである。意味の考察を無視すれば、私たちが陥る馬鹿げた立場は、ちょうど次のような会話をする子供と同じになるだろう。「朝御飯と言いなさい」「できない」「なぜ言えないの?」「朝御飯と言えないんだ」。

 しかし、自己意識性の必要性は、ナンセンスな仮説の正当化として使われてはならない。私たちが行なっているのは哲学であって、理論的心理学ではない。だから、意味についてであれ他のものについてであれ、私たちの言明に関する分析は、私たちが理解できるものではなくてはならない。

 私たちの哲学に対する最大の脅威は、怠け心と不明確さを別にすれば、スコラ主義である。その本質は、曖昧なものをあたかも精確なものかのように扱い、厳密な論理的カテゴリーに当てはめようと躍起になることである。スコラ主義の典型的な一例は、ウィトゲンシュタインの「日常言語の全ての命題は完全に秩序付けられており、私たちは非論理的に思考することはできない」という見解である[3]。(この後者の [私たちは非論理的に思考することはできないという] 考えはまるで「君はブリッジのルールを破ることはできない。なぜなら、もしルールを破れば、君がしていたのはブリッジではなく、C夫人が言うところの非-ブリッジということになるのだから」と言うようなものである。)スコラ主義のもう一つの例は、時間的な「以前」について知っていることから、私たちは過去を知覚しているという結論を導く論証である。電話のことを考えただけでも、この論証が実質的に不合理であることが分かる。なぜなら、私たちは過去を知覚することなしに、ABとBAに対して異なる対応をとることができるからだ。この論証は「知っていること」という、第一には記号化する能力を意味し、第二には感覚的知覚を意味する語の両義性に依存した論証である。ウィトゲンシュタインも、「与えられた」という概念を、全く同じように、両義的に用いていると思われる[4]

原註
1  しかし、過去における意味がどうしようもないほど混乱しているのでない場合は、哲学は当然、過去の意味も確定する。そのような哲学のパラダイムの一例が、ラッセルの記述理論である。

訳註
[1] ドイツの哲学者ルドルフ・カルナップ(Rudolf Carnap, 1891-1970)は、ウィーン学団の中心人物の一人。現代記号論理学の創始者であるフレーゲの講義、今世紀初頭のラッセル=ホワイトヘッドによる『プリンキピア・マテマティカ』、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』などから多大な影響を受けたカルナップは、論理実証主義の中心的メンバーとしてウィーンで活動を開始しします。後にナチズムの迫害を逃れてアメリカへ亡命、人工言語学派を展開し、また様相論理の発展に尽力するなどの活動を行いました。
 ここでラムゼイが批判の対象としているカルナップの考えは、『世界の論理的構築』(1928)における、物理学に基礎を置く構成主義のことでしょう。カルナップによれば、基本的な科学的命題(要素命題)から構成される命題以外は全て無意味と見なされます。必然的に、哲学の諸命題、特に形而上学の命題は全て無意味として排除され、残るのは科学的命題のみということになります。

[2] ジョンソン(William Ernest Johnson, 1858-1930)はイギリスの論理学者。ラムゼイと同じくケンブリッジに学びましたが、世代としてはラッセルより前になります。

[3] 『論考』の以下の箇所を参照。
 私たちの日常言語の全ての命題は、事実それがあるがままで、論理的に完全に秩序づけられている。(『論考』5.5563)


[4] たとえば、『論考』の以下の箇所を参照。
 全ての対象が与えられるならば、これと共に全ての可能な事態もまた与えられている。(『論考』2.0124)
 命題がいかに構成されるかという一般的形式が与えられるならば、これと共にある命題から他の命題がある操作によっていかに産出されうるかという一般的形式も、既に与えられている。(『論考』6.002)

 

著:F.P.ラムゼイ 1929
訳:ミック Copyright
作成日:2003/12/01
最終更新日:2017/06/22 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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