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 私たちの世代は多くがそうだと思うが、私もまた「怠け者のところにはサタンがやってきて悪事をさせるぞ」と言われて育った。私はとても道徳心の強い子供だったので、言われたことは全て信じた。そのおかげで、私の良心は昔から今にいたるまで、私を勤勉な人間に律している。しかし、良心は私の行動こそコントロールしているが、私の思考は反逆を企てている。世界になすべき仕事が多くあることは、私も認めよう。しかし同時に、労働は美徳であるという信念は甚大な被害をもたらしており、現代の産業国において説くべきことは、これまでずっと説かれてきたこととは異なると思うのだ。ナポリの旅人の話はみんな知っているだろう。彼は日向ぼっこしている12人の乞食を見て(この話はムッソリーニが政権をとる前の話だ)、「この中で一番の怠け者に1リラやろう」と言った。乞食のうち11人は先を争うように彼に飛びついてきたので、彼は残る一人に金を渡した。この旅人の振る舞いは全く正しい。しかし、地中海の日差しを享受できない国では、怠惰を貫徹することはずっと困難で、これを実現するためには大規模な公的プロパガンダが必要となる。YMCAの指導者たちには、このエッセイを読んだ後ただちに、善良なる若者たちを無為へと導くキャンペーンを展開していただきたい。そうすれば、私も人生で一つは善いことをしたことになろう。

 さて、これから怠惰を擁護する議論に取り掛かろうと思うが、その前に、絶対に受け入れることのできない一つの見解を、あらかじめ叩き潰しておかねばならない。既に生活するに十分な資産を持っている人間が、教師とかタイピストなどのありふれた職に就こうとすると、決まって「そういう行為そのものが、他の誰かから日々の糧を奪うものであり、倫理的に容認できない悪行である」という批判を受ける。もしこの議論が正しいとすれば、怠惰が必要とされるのは、私たちの全員が十分な糧を得るためだけである、ということになろう。こういうトンチンカンなこと言う連中は、人間というのは稼いだ金は必ず使うものであり、それによって新たな雇用を創出しているという事実を見落としている。得た金を使う限り、働くことによって他の人から奪ったのと同じだけ与えてもいるのだ。この観点から言えば、本当の悪人は貯蓄する人間である。もし所得をフランスの田舎の農民よろしく単純に現金をストッキングに溜め込んだ場合、それによって雇用が創出されないことは自明である。もし貯蓄を投機に回せば、問題はもう少し複雑で、異なる事態が出来する。

 貯蓄の形態として最も一般的なものの一つは、国債を買うことである。大抵の文明国の政府の歳出の多くが、過去の戦費の穴埋めか、未来の戦争のための準備に費やされるという事実を踏まえると、政府に金を貸す人間は、殺し屋を雇うシェークスピアの劇中人物と同じ悪行をしでかしていることになる。こういう経済習慣は、ひとえに金を貸してやった国の軍備増強へと結実する。それなら同じ使うにしても飲むか打つかした方がよほどマシであろう。

 だが、貯蓄を民間企業に投資すれば、話は別なのではないか、という人もいるだろう。確かに、もし投資先の企業が成功して、何か有用な製品を世に送り出せば、投資は報われることになる。もっとも最近では、大概の企業が失敗していることを否定する人はいまい。要するに、人々を楽しませる製品を生み出せたかもしれない大量の労働が、何の役にも立たないガラクタを生み出すために浪費されているのだ。従って、破産する意図で投資する人間は、自分自身だけでなく他人をも損なうことになる。もし例えば、友達とパーティを開くことに金を使えば、(たぶん)大いに楽しみ、当人たちだけでなく、パーティのおかげで仕事のできた肉屋やパン屋、酒の密造業者たちも幸福にすることになる。しかし他方、鉄道が必要とされていないところで鉄道のための線路を引くことに金を使えば、それは誰にも喜びをもたらさない事業のために労働を浪費したことになる。それなのに、投資ですって貧乏になった人間は不運の犠牲者としてみなされ、慈善に金を使った人間は馬鹿で間抜けな人間として蔑まれるのだ。

 さてここまでは序論に過ぎない。私が全力をもって主張したいことは、現代世界では仕事は美徳であるという信念によって計り知れぬ害悪がなされており、人間が幸福と繁栄へ至るためには、仕事を組織的に減らしていくことが必要だ、ということである。

 さてまず第一に、仕事とは何であろうか? 実際、仕事には二種類ある。一つは、この地球上における物事の位置を他の物事に対して相対的に変えることである。二つ目は、他人に向かってそうしろと言うことである。第一の種類の仕事はつまらなくて実入りも少ない。第二の種類の仕事は楽しくて儲かる。こちらは無制限に規模を拡大できる。例えば、命令を与える仕事だけでなく、どんな命令を与えるべきか助言する仕事も存在しうる。大抵は、異なる二つの組織から同時に異なる二つの助言が与えられる。これがいわゆる政治である。政治に必要なスキルは、助言が与えられる主題についての知識ではなく、演説と文章による説得技術、すなわち宣伝についての知識である。

 アメリカは別として、ヨーロッパ全土には、上記二種類の労働者以外に、もっと尊敬されている第三のカテゴリに属する人々もいる。これらの人々は、土地を所有して他人から地代を得ることで働かず無為に生きることを許されている。こういう地主は確かに怠惰なので、その点では賛美するべきかもしれない。しかし残念なのは、彼らの怠惰はただ他の人々が働くことによって可能となっている点である。実際、歴史的に見ても、地主たちが快適な怠惰を求めたことが労働賛美の源泉でもあるのだ。彼らは絶対に、他の人々も自分たちと同じように振舞うことを望まない。

 文明の開闢から産業革命までの期間、男が懸命に労働して、妻も同じぐらい頑張って、子供が働き手に十分なほど成長してすぐに働いたとしても、自分と家族をようやく養えるだけの物資しか生み出せなかった。最低限必要な物資以外のわずかな余剰は、生産者の手元には残らず、戦士と僧侶が徴収した。飢饉に備えるための余剰もなかったが、戦士と僧侶には飢饉のときにも平時と同じだけの蓄えがあった。その結果、労働者の多くが餓死することとなった。このシステムはロシアでは1917年のロシア革命まで続き1、東洋では現在でも存続している。イギリスでは、産業革命があったにもかかわらず、ナポレオン戦争の間もこのシステムは生き延びた。最終的に廃棄されたのは100年前、新しい生産者の階級が権力を掌握したときだった。アメリカでは独立時にこのシステムは一応の終焉を迎えたが、南部では南北戦争まで続いた。これほどまでの長きに渡って、しかもごく最近まで持続したシステムは、当然のことながら私たちの思想や考え方に深甚なる影響を及ぼしている。私たちが労働について望ましいこととして当然のごとく受け入れていることの大半は、このシステムから導かれた、産業革命以前の時代の遺物であり、現代に適用できる代物ではない。現代の科学技術は、制限つきではあれ、余暇を少数の特権階級から解放し、等しくコミュニティ全体に行き渡らせることを可能とした。労働の道徳は奴隷の道徳であり、そして現代世界は奴隷制を必要としていない。

 確かに、原始的な共同体においては、農民たちを好き勝手にさせておくと、戦士と僧侶が生きるために必要な僅かな余剰を手放そうとはしなかったことは明らかである。きっと生産を減らすかもっと消費したかがオチだ。そのため最初は、生産を強要し、余剰を手放すよう強制したのである。だが次第に、多くの農民にある倫理を受け入れさせることが可能であると分かってきた。その倫理とは、自分たちが働くことで、他の人々を働かなくてすむようにできるのだが、それでも勤勉に働くことが自分達の義務である、というものだ。この倫理によって、それまで必要だった多くの強制は不要となり、支配のための費用も減った。今日では、国王は労働者より多くの収入を得るべきでないという提案を耳にしたら、イギリスの賃金労働者の 99% は純粋に驚くだろう。義務という概念は、歴史的に見ればこのように権力者が民衆を自分自身のためではなく支配者のために生きるよう仕向けるための手段であった。もちろん、権力者はこの事実を自分たちでも気付かぬよう隠している。そのために彼らは、自分達の利害が人類全体のより大きな利害と一致すると信じ込もうと努力しているのだ。時として、これはその通りでもある。例えば、アテネの奴隷所有者たちは、余暇の一部を使って文明に対して不滅の貢献をなした。これは、正当な経済システムの下ではとうてい不可能だったろう。このように、余暇こそ文明に不可欠なものだ。昔は多数者の労働によってようやく少数者の余暇が可能になっていた。彼らの労働は貴いものであったが、その理由は労働そのものが良いものだからではなく、余暇が良いものだからだ。しかし、現代の科学技術をもってすれば、文明を損なうことなしに余暇を正当に配分することもできそうなものだが。

 現代の科学技術は、万人の生活必需品を確保するために必要な労働量を劇的に減少させることに成功した。このことは、戦争によって明らかとなった。戦時中、軍隊に所属する全ての男性と、軍需産業に従事する全ての男女、およびスパイ、戦争プロパガンダ、戦争に関わる政府部局で働く全ての男女は、生産部門から引き抜かれた。ところが、連合国側の非熟練賃金労働者の健康状態は総じて良好で、実のところ戦前や戦後より良かったぐらいだ。この事実の重要性は、財政によって隠蔽されてきた。つまり、戦費を借金で調達すると、あたかも未来で現在をまかなっているように錯覚するのだ。しかしもちろん、こんなことは不可能である。現時点でまだ存在していないパンを食べることはできない。戦争は図らずも結果として、生産を科学的に組織すれば、少ない労働によって現代の人口を快適に維持することが可能であることを実証したのだ。仮に、戦争が終わったときに、人々を戦闘や軍需品生産のために労働から解放せしめた科学的な組織をそのまま保存して、1日の労働時間を4時間に切り下げたなら、万事うまくいっていただろう[1]。現実には、戦前の混乱へ逆戻りして、労働者は再び長時間労働を命じられ、残りは失業者として飢えることになった。なぜこんなことになったのか? それは、労働が義務として考えられ、人は生産した物ではなく、その勤労によって証明される美徳に比例して賃金を受け取るべきだとされているからだ。

 これぞ奴隷国家の道徳だ。しかも、かつてそれが登場したのとは全く異なる歴史的文脈に適用されている。これでは結果が惨憺たるものになるのも怪しむに足りない。一つここで、具体的な例を見てみよう。あるとき、一群の人々がピンの製造に従事していると仮定する。彼らは世間で必要とされるだけの数のピンを生産している。現在の労働時間は、そうだな、1日8時間としよう。ここで、ある人が、同じ数の人間で以前と二倍の数のピンを作れる方法を発明する。しかし、世間の方は二倍のピンを必要としているわけではない。ピンはもう十分安いので、これ以上安くして売ることもできない。こんなとき、まともな世界であれば、ピンの製造に従事する人々は、8時間労働を4時間に短縮して、残りの状況はそのままにしておく。しかし現実の世界では、これが不道徳と見なされる。人々は相変わらず8時間働き、世の中にピンが溢れる。雇い主の中には破産するものが出て、ピン製造に従事していた労働者の半数は職を失う。結局のところ、作り出される余暇の総量は先の4時間労働のプランの場合と同じなのだが、違うのは、半数は全く何もせず、残りの半数はずっと超過労働のままだ、という点だ。このようにして、必然的に生み出される余暇は、幸福の普遍的な源泉とはならず、あちこちで惨めな不幸を引き起こすことになる。これほど狂ったことを他に思いつくだろうか?

 貧乏人も余暇を持つべきだという考えは、金持ちにはいつでもショッキングなものだった。19世紀前半のイギリスでは、成人労働者の一日の労働時間は15時間だった。子供でも時には同じぐらい働いていたが、大体は12時間労働であった。お節介な連中が「どうもこの労働時間は長すぎるのでは」と言い出したところ、「大人は労働によって飲酒から、子供はいたずらから遠ざけておける」という反論が返ってきた。私が子供の頃、都市で労働者に投票権が与えらた直後に公共の休日が法律で制定されたことがあったが、これもまた上流階級の反発を買った。私は、ある老公爵夫人が「貧乏人に休日を与えてどうしようというのかしら? 彼らは働くのが義務なのに」と言っていたのを記憶している。最近はここまであけすけに語る人は減ったが、同じような感情は残っており、それが経済を混乱させている。

 ここで少し、労働の倫理について、迷信に囚われることなく率直に考えてみよう。あらゆる人間は、必然的に人生の中で、人間の労働によって生産されたものを一定量、消費することになる。ところで、労働はまったくもって不快なものだと仮定すると(異論はあるまい)、人が、自分が生産する以上の物を消費することは不当である。もちろん、医者のように、製品ではなくサービスを提供することを生業とする人もいるだろうが、そういう場合でもやはり、食と住を得る見返りに何がしかを提供する義務がある。ここまでなら、仕事が義務であることは認められねばならない。しかし同時に、認められるのはここまでだ。

 ソビエト社会主義共和国連邦を除く全ての現代社会において、金銭を相続したり、金持ちと結婚したりして、この最低限の労働すら免除されている多くの人々が存在するという事実については、ここでくどくど述べるつもりはない。私は、賃金労働者が過酷な労働を課せられていたり飢えている事実に比べれば、こういう人々が暇を持て余すことを放置しておいても、大して害はないと思う。

 普通の賃金労働者が1日4時間働けば、誰にとっても十分だし、失業も生じないだろう ―― ただしこれは、まともな組織が一定数あると仮定しての話だが。こういうことを言うと、富裕層はショックを受ける。なぜなら彼らは、貧乏人はそんなに沢山の余暇の使い方など知らないと深く確信しているからだ。アメリカでは、既に十分な財産を有している人々でさえ長時間働く。当然、こういう人々は、失業という厳罰として以外に賃金労働者に余暇を与えるという考えに対して怒る。いや実際のところ、こういう人は自分の息子に暇な時間ができることさえ嫌う。奇妙なことに、彼らは息子に対しては、彼が教養を身につける暇もないほど働くことを望む一方、妻と娘が一切仕事をしないことについては気にしない。役に立たないことを俗っぽく賞賛することは、貴族社会では両性に対して適用されるが、金権政治下においては女性に限られているというわけだ。もっとも、このせいで無用賛美はもはや常識と合わなくなっているが。

 余暇を賢く使うためには、文明化と教育が必須であることは認めなければならない。人生の全ての時間を働いて過ごしてきた人間は、突然暇になると退屈してしまう。だが相当な時間的余裕がないと、本当に素晴らしい物事とは無縁になってしまう。大勢の人がこんな展開に苦しまねばならない理由など、もはやどこにもない。馬鹿げた禁欲主義は、多くの場合は犠牲を強いるものだが これだけがもう需要のなくなった過剰な物資を生産するために働きつづけることを要求する。

 ロシアで政府を支配している新しい信念は、西洋で伝統的に教えられてきたこととは多くの点で異なっているが、しかし全く変化していない点もいくつかある。支配階級、特に労働の尊さについて教育的プロパガンダを指導する階級の考え方は、いわゆる「正直な貧乏人」に向かって説かれてきた世界の支配階級による宣伝ととほとんど同じである。勤勉、真面目、将来の利益のために長時間働こうとする意志、そして権威への服従性まで、そっくりそのまま繰り返されている。おまけに当局は、宇宙の支配者の意志をも代表しているという。今ではその新しい名前は、弁証法的唯物論という。

 ロシアにおけるプロレタリアートの勝利は、他のいくつかの国におけるフェミニズムの勝利と似ている。長年にわたって、男性は女性の優れた徳性を認め、徳は権力よりも望ましいものだと主張することで、女性が男性より権力的に低い立場におかれていることを慰めてきた。だが最終的には、フェミニストは徳と権力の両方を手に入れることを決意した。その理由は、フェミニズムの先駆者たちは、男性が徳の素晴らしさについて語ったことについては信じたが、政治的権力なんて無価値だと語ったことについては信じなかったからだ。ロシアでは肉体労働について類似のことが起こった。長年にわたって、金持ちとその取り巻きたちは、「正直な労苦」を称揚する文章を書き、質素な生活を礼賛し、貧乏人は金持ちよりも天国に入りやすいと説く宗教を信仰すると公言し、空間における物体の位置を変えることには何か特別な高貴さが備わっていると、肉体労働者たちに信じ込ませようと努力してきた。ちょうど、男性が女性に、性的な隷属状態から何か特別な高貴さを導き出せると信じ込ませようと努力してきたように。ロシアでは、肉体労働が優れているという教えは真剣に受け取られていたので、肉体労働者は誰よりも高い尊敬を受けることとなった。本質的には昔のリヴァイヴァリストの説くところと何ら変わらない教えだったわけだが、その目的が異なっていた。これらの教えは、特別な任務に挑む労働者を確保するために唱えられたのだ。肉体労働は若者の前に掲げられた理想であり、全ての倫理的な教えの基礎でもある。

 現在のところ、ロシアの試みはうまくいきそうだ。豊かな天然資源を蔵した広い国土が、開発されるのを待っている。しかも、借金に頼ることなく開発せねばならない。こういう状況下では、勤勉が必要であり、かつ大きな報酬を得られる見込みが高い。しかし、国民全員が長時間労働しなくても快適に暮らせるレベルまで国力が成長したときは、どうなるだろう?

 西欧には、この問題を解決するために多様な策がある。まず私たちは、経済的公正さを求めない。従って、総生産物の大部分が全く働かないごく少数の人々の手に渡る結果となる。また、生産に対する中央集権的な制御が一切欠落しているため、需要のない物まで大量に作られたりする。私たちは、労働人口のかなりの部分を働かないままにしているが、これは他の人々を過剰に働かせることでその人々の労働を免除できるからである。これらの全ての方法が不適切であると判明した場合には、戦争が起きる。多くの人々が高性能爆弾の製造に従事し、そしてまた別の多くの人々がその爆弾を炸裂させる。その様子はまるで、花火で初めて遊ぶ子供のごとくである。こういうあらゆる手段を駆使することによって、厳しい肉体労働に従事することこそ、平均的人間にとっての宿命に違いないという思想を維持している。

 ロシアでは、西欧よりずっと経済的公正がゆきわたり生産に対する中央集権的な制御がはたらいているため、同じ問題でも解決方法はずいぶん異なったものになる。合理的な解決策は、必需品と基礎的な嗜好品が全国民に行き渡るようになった段階で、徐々に労働時間を短縮することであろう。その各段階で、暇を増やすか生産品を増やすか、民衆の投票によって決めるよう許可するのである。しかし、これまで勤労こそが絶対の美徳であると教え込まれてきたせいで、政府は、どうやったら多くの余暇に恵まれてほとんど働かなくていい天国を目指すことができるのか、理解に苦しむのだ。大概の場合むしろ、政府は、未来の増産のために現在の余暇を犠牲するような新しい計画を常に発表することの方が多いように見える。私は最近、ロシアのエンジニアたちによって提出された才気溢れるプランを読む機会があった。それはカラ海をダムで区切ることで、白海とシベリアの北岸の温度を上げるというもので、それは見事なものだった。しかし、実現すればプロレタリアートを楽にするのを一世代遅らせるだろう。その間、高貴な労苦のドラマが北極洋の氷原と吹雪の只中で展開されることになる。この種の計画が実現されたら、それは働く必要のない状況を作るための手段としての労働というよりは、勤勉の美徳そのものが自己目的化する結果となるだろう。

 物体を動かしてまわることのある程度は、確かに私たちが生きていくうえで必要なことだが、しかし人生の目的の一つには数えられない、という点は強調しておきたい。というのも、もしそうならどんな作業員でもシェークスピアより偉大であると認めなければならないからだ。この問題について、私たちを惑わせてきた原因は二つある。一つは、貧乏人を納得させるために、金持たちは数千年の間、労働の尊厳について説きながら、一方で自らはこの点に関して不名誉の烙印を得ることになってきたからである。もう一つの理由は、地上において私たちが生み出すことのできる驚くほど賢明な変化において、私たちを楽しくするようなメカニズムにおける新しい喜びである。そのどちらも、実際に働いている人間には何らの感慨も引き起こさない。もし労働者に向かって、「あなたの人生で最良の時間はなんであるか」とたずねたら、間違っても「それはもちろん、肉体労働をしているときが楽しいですね。だってそのとき、私は人間の高貴な氏名を果たしていると実感できますし、人間がこの世界をどれほど変えることができるのかを考えるとわくわくするからです。私の肉体は確かに、出来る限り多くの休息の時間を必要としますが、何と言っても私に満足を与えてくれるのは労働なのですから、毎日朝が来るのが楽しいのです」などという答えは返ってこない。勤勉に働く人間がこのたぐいのことを言うのを、私は一度も聞いたことがない。彼らは、労働は生活のために必要な手段であり、全ての幸福なことを得られるのは、余暇からであると考えている。それは全くもって正しい考えである。

 あるいは、「確かに多少の余暇は楽しかろうが、24時間のうち4時間しか働かないとしたら、残りの時間で何をしていいか分からないだろう」という意見もあるかもしれない。現代の世界においてこの言葉が正しいということが、私たちの文明の悪いところだ。というのも、昔はこんなことはなかったからだ。昔は、ある程度は気楽さと遊びを許容する余裕が習慣化されていたが、効率性を尊重するために抑制されてきた。現代人は、あらゆることは他の何かのために為されるべきだと考えて、決してそれ自身のために行うことをしない。例えば、真面目な人間は映画鑑賞の習慣を常に批判して、それは若者を犯罪に走らせると言う。しかし映画製作に関わる全ての仕事は立派なものである。なぜかといえば、それが仕事であり、金銭的利益を生み出すものだからだ。賞賛すべき活動とは、利益を生み出す活動だという思想は、全ての順逆を狂わせる。あなたに肉を提供する肉屋やパンを提供するパン屋は賞賛に値する、なぜなら彼らは金を稼いでいるから。しかしあなたが、彼らの与えた食べ物を楽しむとき、あなたはただ無価値だ ―― もし食べることによって、仕事のためのエネルギーを補給しているのでない限り。金を稼ぐことはよいことで、金を使うことは悪いことだという主張、広く一般的になされている。しかしこれらは一つの経済活動の両面であることを理解すれば、この意見が馬鹿げていることが分かる。これではまるで、鍵はよいけど鍵穴は悪いと言っているようなものだ。何であれ生産にメリットがあるとすれば、それはひとえに生産物を消費することの利益から生まれるものであるはずだ。私たちの社会では、個人は利益のために働く。しかしその個人の労働の社会的目的は、生産物を消費することにある。利益創出が産業のインセンティブであるような世界で、明晰に考えることを難しくしているのは、まさにこの個人と生産の社会的目的の乖離にある。私たちは生産についてあまりに多く考え、消費について省みることがあまりに少ない。その結果の一つとして、享楽と単純な幸せについての評価が下落し、生産をそれが消費者にもたらす快楽によって判断することをやめてしまうのだ。

 私が労働時間は4時間に切り下げるべきだと提案したのは、別に残りの全ての時間をダラダラすごせと言いたいからではない。そうではなく、一人の人間に必需品と基礎的な嗜好品を与えるのには、1日4時間働けば十分であるべきで、残りの時間は労働者が好きに使えるよう、その人のものであるべきだ、と言いたいのだ。もしそういう社会体制が実現されたら、そこでは今の社会よりも高度な教育が行われるべきだ。そして教育の一部は、せっかくの余暇を賢く使うことができるよう、きちんとした趣味を与えることを目的とするべきだ。私はここで、いわゆる「知識人」のことを考えているのではない。農民のダンスは辺鄙な田舎を除いては死に絶えてしまったが、しかし彼らを文化へと突き動かした衝動は、今でも人間の本性の中に存在している。都会での楽しみのほとんどは、受動的なものになっている。例えば映画を見たり、サッカーを観戦したり、ラジオを聴いたり、等々。これは、人々の活動的なエネルギーが労働に吸い取られてしまった結果である。もし労働者がもっと多くの余暇を持てば、彼らは再び自らの楽しみにおいて積極的な役割を演じるようになるだろう。

 昔は、少数の有閑階級と多数の労働者階級が存在した。有閑階級は、何ら社会正義上の基礎を持たない幾つもの恩恵を享受した。この状況は必然的に彼らを抑圧し、共感を制限し、そして自らの特権を正当化するための理論を発明させた。こうした事実は、彼らの優位性を大きく削ぐものだが、その欠点にもかかわらず、彼らは、私たちが文明と呼ぶほとんど全てに貢献をなした。有閑階級は芸術を開拓し、科学を発見した。例えば彼らは本を書き、哲学を創始し、社会関係を洗練した。抑圧階級の反乱でさえ、大抵は上層の人々によって口火を切られた。有閑階級なくしては、人類は決して野蛮な状態から浮上することはなかったであろう。

 何らの義務を負わない先祖代代の有閑階級の方法は、しかし、非常に無駄の多いものだった。この階級の誰一人として、勤勉であることを教えられず、階級全体としてみてもそれほど知的とは言いがたかった。確かに有閑階級は一人のダーウィンを生むかもしれな。しかしその対極には、数万人からの狐狩りと従者を罰することしか考えない田舎紳士が控えているのだ。現在では、かつて有閑階級がたまたま副産物として提供していたものを、もっと体系的な方法で提供するものとして、大学が存在している。これによってかなりの改善が行われたが、大学には大学の欠点がある。まず、キャンパスライフは外の世界の生活とは大きく異なるため、アカデミックな村社会に住む人間は、市井の男女の職業と問題に無自覚になりがちだ。さらに問題だったのは、彼らの思想の表現方法である。それが、彼らの見解から、一般大衆への影響力を奪っている。もう一つの問題点は、大学の研究は組織的に行われるため、独創的な研究を考えている個人は抑圧されてしまう。そのため、アカデミックな機関は、有用ではあるものの、無益な興味を追求するには忙しすぎる人々ばかりが住む外の世界の文明の利益の守護者としては、適切とは言えない。

 1日4時間以上働くことを強制されない世界では、誰もが持っている科学的好奇心のおもむくままに追求できるし、絵描きはみな、どんな優れた絵でも、飢える心配なしに描くことができる。若い作家は、画期的な作品を書くために必要な経済的独立を得ようと、商業主義に阿ったセンセーショナルな作品(最終的に経済的独立を果たしたときには、こういう駄作を書きすぎて情熱も才能も失っている )を書いて目立つ必要はなくなる。専門職に就いている人々は、経済や政府の何らかの側面に関心を寄せるようになり、アカデミックな浮世離れ ―― このせいで大学の経済学者はよく現実感覚を欠いていると見なされる ―― に陥ることなく、自分たちの考えを実現することができるようになるだろう。医者は医学の進歩を学ぶゆとりを得て、教師は、自分たちが若い頃に教えられたが時間が経って正しくないと分かったことを、ルーチン的な方法で苛立ちながら教える必要もなくなる。

 そして何より、人々の生活には、精神的・肉体的な疲労と消化不良の代わりに、幸福がもたらされるだろう。必要なだけの労働は、余暇を輝かしいものにするには十分だが、人を疲労困憊にするほどではない。もはや人々は余暇の間も疲れてはいないので、受動的なだけの娯楽は必要としなくなる。多分、少なくとも 1% の人は仕事とは別に何らかの公共的な重要性を持つことを追求するために時間を使うようになるだろう。そしてそういう活動に生活がかかっているわけではないから、彼らのオリジナリティが制約を受けることはなくなる。年寄りの専門家が作った基準に従う必要もないのだ。しかし、余暇の効用が現れるのはこうした例外的事例においてのみではない。普通の男女だって、幸福な生活を送る機会を手にすれば、今よりもっと親切になり、人を責めたり他人を疑いのまなざしで見ることはなくなるだろう。一つにはこの理由によって、そしてもう一つには、万人に対して過酷で長期にわたる労働を強いるため、戦争をしようなどという気は失せる。善なる本性こそ、あらゆる徳性の中でも最も世界が必要としているものであるが、それは快適さと安全を確保することによって得られるものであって、苦しい闘いの生活から生まれるものではない。現代の生産方式は私たち全てが快適で安全に暮らせる可能性を与えてくれた。なのに私たちは、ある者には過重労働を、他の者には飢餓を与える道を選んでしまった。今のところ、私たちは機械が登場する前と同じぐらいあくせく働いている。この点において、私たちは愚かである。しかし、これからもずっと愚かであり続ける理由はないのだ。


原註
1 その後は、共産党の党員が戦士と僧侶の特権を引き継いだ。

訳註
[1] この「1日4時間」という数字の根拠について、ラッセルは他のテキストで「本当は1時間でもいけると思うが、機械化が未整備のアジアまで考慮に入れると、平均して4時間ぐらいではないか」と述べています。そのため、あまり細かく詮索しても意味はありません。
 ちなみに同じイギリスで19世紀に活躍したウィリアム・モリスも「1日4時間労働でもいける」と述べています(「理想の工場 (2)」)。 他にも、民衆は受動的な娯楽にふけるだけでなく、自ら能動的に文化の担い手になる方がよいという主張なども両者で共通しており、イギリスの知識人の間に脈々と受け継がれているワークライフバランスの思想が感じられます。 単に心底働くのが嫌いな人たち、という見方もできるかもしれませんが。

 

著:B.ラッセル 1932
訳:ミック 2005/04/24
最終変更日:2017/06/27
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