原註
1
私はかつて『数学の原理』の第X章と第476節においてこのテーマについて論じた。そこで主張されている理論は、フレーゲのものと殆ど同じであり、以下に述べられれる理論とは全く異なる。
2
より正確には、C(x)は命題関数である
3
「C(x)は時として真である」は「C(x)は常に真である」を使って定義することができる。それには、前者が「『C(x)は偽である』が常に真であることは真ではない」を意味すると考えればよい。
[これは、¬∀x ¬C(x) = ∃x C(x) というド・モルガンの法則と同じことです。――訳註]
4
この複雑な句の代わりに、場合によって「C(x)は常に偽であるとは限らない」や「C(x)は時として真である」を、同じ意味として
定義されている句として使うことにする。
5
このことは、ブラッドリー氏の『論理学』第1巻第2章において巧みに論じられている。
6
心理的には、「C(ある人)」は、ただ一人であることを示唆し、「C(何人かの人)」は
少なくとも一人以上であることを示唆する。しかし予備的な概略を述べる場合は、この違いを無視してよいだろう。
7
『対象論と心理学のための探究』(ライプツィヒ, 1904)の最初の3編の論文を参照。(それぞれ、マイノング、アムセダー、マリーの3氏によるもの)
8
フレーゲの「意義と意味について」『哲学と哲学批評』第100号を参照。
9
フレーゲは意味と表示対象という二つの要素を、複雑な表示句だけに限らず、あらゆる語について区別する。それゆえ、表示句の
表示対象ではなく
意味に含まれるのは、表示的複合物の構成要素の意味である。彼によれば、「モンブランは1000メートル以上の高さである」という命題において命題の
意味の構成要素は、現実のモンブランではなく「モンブラン」の
意味なのである。
10
この理論よると、表示句は意味を
表現する(express)という言い方をすることになるだろう。また、句と意味の両者とも、表示対象を
表示する(denote)と言うことになるだろう。私が主張する別の理論によれば、
意味というものは存在せず、ただときどき表示対象が存在するのみである。
11
私は存立と存在を同義語として使う。
12
これは省略形であり、厳密な解釈ではない。
13
そのような実体を導くもととなる命題は、そうした実体とも、そうした実体が存在を持つと主張する命題とも同一ではない。
14
最も完全な存在者のクラスの全ての要素が実在することを妥当に証明することは可能である。また、そのクラスが一つ
以上の要素を持ちえないことも形式的に証明可能である。しかし、完全性の定義を全ての肯定的な述語の所有だとすると、そのクラスの要素が一つではないこともまた、ほとんど同じぐらい形式的に証明可能なのである[
22]。
訳註
[1]
「表示」という現象が何であるか、既に読者が知っているものとして議論が進みますが、知らない人のためにここで説明します。
このテーマが最初に扱われるのは、
『数学の原理』(1903)です。表示とは、この本で展開された意味論において、奇妙な例外を示す(とラッセルには思われた)現象です。従って『原理』の意味論を知らないと、この論文でいきなり「表示の問題」と言われても一体何が問題なのか分かりません。そこで、少し『原理』の意味論についての解説に付き合ってください。
『原理』においてラッセルが採用した意味論は、極端に実在論的なものでした。すなわち、全ての語にはそれに対応する存在者が存在し、それが語の意味である、というものです。凄まじいことに、前置詞や冠詞にまで存在者が対応させられるという徹底ぶりです(一体皆さんは「nothing」に対応する存在者として何を想像しますか?)。語によって指示される存在者は、大きく二つのカテゴリに分類されます。一つが、固有名によって指示される「物」、もう一つが、固有名以外によって指示される「概念」です。従って、
Socrates is human.
という文においては、Socratesが人間ソクラテス自身を指示し、is と human がそれぞれ概念を指示することになります。ここまでは、特に問題ありません。しかし、次の文はどうでしょう。
Socrates met a man.
Socrates が人間ソクラテス自身を指示し、met が概念を指示する。ここまでは最初の文と同じです。しかし「 a man 」という表示句は一体何を指示するのでしょう。固有名以外の語は概念を指示するという原則に従えば、これもまた概念を指示するはずです。しかしそれなら、この文は、ソクラテスと概念の出会いを報告するものなのでしょうか? 明らかにそうではありません。この文は、ソクラテスと現実の人間との出会いを報告しているのです。するとさっきの原則の方が間違っていたのでしょうか?
いや、実在論の原則も捨てたくありません。この困難に直面したラッセルは、自らの意味論に一つの特例を導入します。すなわち、表示句の場合のみ、それが指示する(indicate)概念は、同時に物を表示する(denote)という「表示」の関係がそれです。図式として表すと以下のようになります。
表示句 ――――――→ 表示的概念(=複合物、意味) ―――――→ 表示対象
ところが、奇妙なことにラッセルは、この論文で『数学の原理』の意味論を振り返る際には、上図のような関係ではなく、下図のような三角関係を想定しています。このような関係であると主張する根拠は
原註10にあります。
――――――――→ 表示的概念(=複合物、意味)
| |
| |
表示句――| |表示(denote)
| |
| ↓
――――――――→ 表示対象
表示(denote)
なぜラッセルが以前の意味論をこのような異なる図式で再解釈したのか、その確定的な理由は分かりません。単なる記憶間違い(ありえないとは思いますが)かもしれませんし、飯田氏が『大全』で言うように、「表示句と表示対象の間の関係が論理的なものでなくてはならないと思い直したため」かもしれません。
しかし、両者の間に大きな違いはありません。どちらにせよ、およそエレガントとは言いがたい言い逃れであることは、ラッセル自身が強く感じるところでした。表示の問題の根本的な原因が、極端な実在論的意味論を前提としていることにあるのは明白ですが、ラッセルはこの前提を放棄せずに問題を解決しようと図ります。その結果編み出された解決策が、本論文で提唱される記述理論です。
[2]
ラッセルが「語の意味」として考えているのは、それが指示する対象です。例えば「ソクラテス」という語の意味はソクラテスその人です。「丸い四角」や「キマイラ」のような、実在はしないが存在はするかのように思われる存在者を指示する語の意味については、論文の後半で詳述されます。また
訳註14も参照。
[3]
現在の量化理論から見れば、この二つの概念はそれぞれ全称量化子と存在量化子と同じです。ゆえに、それぞれ∀x C(x)、∃x C(x) と書き換えることが可能です。
[4]
それぞれ、∀x C(x)、∀x ¬C(x)、¬∀x ¬C(x)
[5]
∃x [ ( I met x ) ∧ ( x is human ) ]
[6]
∃x [ C(x) ∧ ( x is human ) ]
[7]
∀x [ ( x is human ) → ( x is mortal ) ]
[8]
∀x [ ( x is human ) → C(x) ]
[9]
∀x [ ( x is human ) → ¬C(x) ]
[10]
¬∀x ¬ [ C(x) ∧ ( x is human ) ]
[11]
日本語で the を含む表示句と同等の表現を作ることは難しいので、以下、この表示句を「#」を末尾に付けることで示すと決めます。この表記法は『言語哲学大全』I 巻に倣いました。
[12]
( x begat CharlesII )∧ ∀y ( y begat CharlesII ) → ( y = x )
[13]
¬∀x¬ [ ( x begat CharlesII ) ∧ ( x was executed ) ∧ ∀y( ( y begat CharlesII ) → ( y = x ) ) ]
[14]
∀y [ ( y begat CharlesII ) → ( y = x ) ]
これだけだと、x が束縛されていませんが、最終的にもう1レベル上の量化子で x が束縛されることになります。
[15]
meaningが Sinn、denotation が Bedeutung に対応します。カルナップが Sinn と Bedeutung を内包と外延として一般化して用いたことから、Sinn と内包は同じものとして扱われることがあります。しかし、両者の間には根本的な相違があるため、meaning に「内包」という訳語を当てることは避けます。
この訳文では、meaning を「意味」、denotation を「表示対象」と訳します。この論文の文脈から見る限り、ラッセルの meaning とフレーゲの Sinn は同じとみなしてよいと思います。
[16]
「表示的複合物」とは、表示句が指示する概念のことです。ラッセルはこれを意味と同一視しています。
[17]
なぜラッセルが「表示の関係は論理的関係でなくてはならない」と断言するのかは、説明を要します。これについての手掛かりは、『数学の原理』第51節から得られます。そこでもやはりラッセルは、言語とその指示対象との間に成り立つ関係は「心理的」なものであり、表示的概念と表示対象との間に成り立つ関係は「論理的」なものであると述べています。その理由は、論理学の対象が「動詞や前置詞の意味である普遍者から成る世界」であるからです。普遍者にとって、それがどのような語で指示されるかということはどうでもよいことです。ある普遍者に「机」や「table」という語を割り当てることは、人間の恣意的な行為であり、従って普遍者と語の結びつきは「心理的」なものとされるわけです。
一方、表示的概念と表示対象の関係は、そのどちら側にも(多くの場合)言語を含みません(例外的に表示対象が言語になる場合については訳註[18]を参照)。それゆえ、この関係こそが私たちの推論に論理的妥当性を与えるものであり、従って表示の関係こそ論理的関係である、とラッセルは考えました。
[18]
「存在すればの話だが」と但し書きが付けられているように、表示対象が意味を持たない場合もあります。というより、圧倒的大多数の表示対象は意味を持ちません。これは当たり前のことで、ラッセルが直後で挙げている例「グレイの歌の一行目」や、あるいは「この論文の終わりの文」のように、表示対象が言語表現でない限り、表示対象が意味を持つことはありえません。実際、「太陽系の中心の意味は何か?」とか「2004年5月最初の日曜日の意味は何か?」と問われても、答えようがありません。
[19]
例えば「2004年1月1日」を表示する表示句は、次のように無限に作ることができます。
2004年1月2日の前日#
2004年1月3日の前々日#
2004年1月4日の前々々日#
・
・
・
[20]
フレーゲが「意義と意味について」で行った証明です。フレーゲによれば、「宵の明星 = 明けの明星」は「宵の明星 = 宵の明星」にはない認識価値を有する、ということになります。
[21]
この帰結は確かに興味深いものです。というのも、これによってラッセルが認める存在領域は劇的に縮小されたからです。ラッセルはかつて「丸い四角」や「現在のフランス国王」が含まれる膨大な存在者の領域を想定していました。しかし今や、これらの存在者は市民権を剥奪されたのです。
しかしそれなら、「キマイラ」や「ユニコーン」のような、固有名によって指示されるにも関わらず、およそ私たちが直接見知っているとは思われない存在者の立場はどうなるのでしょう。「私たちが理解できる命題の構成要素は全て、私たちが見知っている物である」と言う以上、これらもまた存在領域から追放されねばならないはずです。しかしそれなら一体、追放の大義名分は何なのでしょう。固有名は表示句を含まないのだから、記述理論によって訴追することはできません。
この問題に対するラッセルの対処は、彼らしく明快で強引で、人を驚かすものです。すなわち、
固有名にも本当の固有名と偽の固有名がある。そして偽の固有名は、実は省略された確定記述句である。
「キマイラ」も「ユニコーン」も、あたかも固有名のように振舞ってはいるが、実は偽の固有名であり、全てひっとらえて国外追放せねばならない――。なるほどこれなら、無理矢理とはいえ、固有名に偽装した確定記述句を追うための罪状となるでしょう。しかしそれなら今度は、本当の固有名とは一体なんであるのか、本当の固有名と偽の固有名を区別する基準は何か、という問いに答えねばなりません。かくして、ラッセルの「本当の固有名の探求」が始まります。この探求の帰結は
「論理的原子論の哲学」で明らかになります。そして、そこで彼が辿り着いた意味論もまた、『数学の原理』のそれに劣らず驚くべきものです。その内容は、是非自分で確かめてください。
[22]
この註では、「最も完全な存在者のクラス」は、ただ一つだけ要素を持つ、ということが言われています。その理由は、「最も完全な存在者#」が確定記述句であるため、記述理論によって、それに対応する個体は高々一つに限られるからです。
また、「完全性の定義を全ての肯定的な述語の所有」だと考えた場合にクラスの要素が一つもなくなるのはなぜでしょう? 「全ての肯定的な述語の所有」とは、要するに、「正の整数である ∧ 負の整数である ∧ 男である ∧ …… 」のような無限連言になります。しかし { x | 正の整数である ∧ 負の整数である } というクラスは、空クラスになり、空クラスは定義上、要素を一つも持たないからです。(この定義は本文でも述べられています。)