ホームバートランド・ラッセル


表示について




「表示句(denoting phrase)」という言葉で、私は以下のいずれかの句を意味する。  このように、句はもっぱらその形式によって表示を行っている。そこで私たちは以下の3つのケースを区別する。
  1. 表示は行うかもしれないが、しかし何物も表示しない句。例:「現在のフランス国王」
  2. 一つの確定的な対象を表示する句。例:「現在のイギリス国王」は一人の特定の人物を表示する
  3. 不特定な表示を行う句。例:「ある人」は複数の人物ではなく、不特定の一人を表示する。
こうした句の解釈はかなり難しい問題である。実際、形式的な論駁を受けない理論を構築することは非常に難しい。今から、私が発見した限りにおいては、この問題にまつわる全ての困難を解決する理論について説明しよう。

 表示というテーマは[1]、論理学や数学のみならず、知識の理論においても大変重要である。例えば、私たちは、特定の瞬間における太陽系の質量の中心がある特定の点であることを知っており、これについての多くの命題を挙げることができる。だが私たちはこの点を直接見知るのではなく、ただ記述によって知りうるのみである。見知り(acquaintance)と、についての知識(knowledge about)の間の違いは、私たちがその表象を持つ事物と、表示句によってのみ到達することのできる事物との間の違いである。私たちが、ある特定の句が表示するものを直接見知っていないのに、その句が明確な表示を行っていることは知っている、というのはよくあることである。上で挙げた質量の中心の例などまさにその一例である。私たちは、知覚においては知覚の対象についての見知りを持ち、思考においてはより抽象的な性格の対象についての見知りを持っている。しかし、私たちがその意味[2]を見知っている語から成る句が表示する対象については、私たちは必ずしも見知りを持つとは限らない。一つ、非常に重要な例を取り上げよう。他人の心というのは直接知覚されないものであるから、私たちが他人の心について見知りを持つと信じる理由はないと思われる。従って他人の心についての知識は、表示によって得られるものである。全ての思考は見知りから始まらなければならない。しかし私たちは [現実には] 、見知りを持たない多くの事物について思考することにも成功しているのである。
 私の議論の道筋は以下の通りである。まず最初に、私が擁護したい理論を述べる1。次にフレーゲとマイノングの理論を検討し、なぜ私がどちらにも満足しなかったか、その理由を示し、それから私の理論を擁護する理由を挙げよう。そして最後に、私の理論の哲学的帰結について簡潔に述べよう。
 手短に言えば、私の理論は次のとおりである。私は変項(variable)という概念を基礎的なものと考える。私は「C(x)」を、x を構成要素とする命題2を意味するものとして用いる。ただし変項 x は本質的に完全に未確定なものとする。すると、二つの概念「C(x)は常に真である」と「C(x)は時として真である」を考えることができる3[3]。そして、全てのもの(everything)、何でもないもの(nothing)、あるもの(something)――これらは表示句のうち最も単純な形をしたものである――は次のように解釈される[4] ここで「C(x)は常に真である」という概念を根本的で定義不可能なものとみなす。他の概念は全てこの概念を使って定義される。全てのもの何でもないものあるものは、単独では何の意味も持つとは考えられない。意味が与えられるのは、それらが現れる各々の命題に対してである。この点が、私が擁護しようとする表示の理論の原理である。すなわち、表示句はそれ自体は何の意味も持たず、言語表現の中に表示句が現れる各命題が意味を持つのである。表示に関する困難は全て、表示句を言語表現の中に含む命題を誤って分析した結果であると、私は信じている。私が間違っていなければ、正しい分析はさらに以下の通り行なわれる。
 今「私はある人に会った (I met a man)」という命題を解釈したいとしよう。もしこの命題が真なら、私はある特定の人に会ったということである。しかしそれは私が主張することではない。私の主張は、私が擁護する理論に従えば次のようになる。

「『私は x に会った、かつ、x は人間である』は常に偽であるとは限らない」[5]

 一般に、人間のクラスを人間であるという述語を適用できるクラスとして定義すると、次のように言うことができる。

「C(ある人)」 は 「『C(x)、かつ、x は人間である』は常に偽であるとは限らない」 を意味する[6]

 この分析では、「ある人」はそれ単独では全く意味を欠いた表現のまま残されるが、「ある人」がその言語表現に現れる各命題には意味を与えてくれる。
 次に「全ての人間は死すべき運命にある」という命題を考察しよう。これは本当は仮説的な命題で5もし何らかのものが人間であるなら、それは死すべき運命にある、ということを述べている。すなわちこの命題が述べるのは、もし x が人間なら、x が何であれ、x は死すべき運命にある、ということである。それゆえ、「 x はある人である」を「 x は人間である」で置き換えると次が得られる。

「全ての人間は死すべき運命にある」 は 「『もし x が人間なら、x は死すべき運命にある』は常に真である」 を意味する[7]

これは、記号論理学において「全ての人間は死すべき運命である」は「『 x は人間である』は、x の全ての値に対して『 x は死すべき運命にある』を含意する」という表現で述べられることである。より一般的には

「C(全ての人間)」 は 「『もし x が人間なら、C(x)は真である』は常に真である」 を意味する[8]

と書くことができる。同様にして、他の表示句についても以下のようになる。

「C(誰でもない人)」 は 「『もし x が人間なら、C(x)は偽である』は常に真である」 を意味する[9]
「C(何人かの人々)」 は 「C(ある人)」と同じことを意味するであろう。そして
「C(ある人6)」 は 「『C(x)、かつ、x は人間である』は常に偽である、というのは偽である」を意味する[10]
「C(あらゆる人)」 は 「C(全ての人)」 と同じことを意味するであろう。

これだけではまだ、定冠詞 the を含む句をどう解釈するかという問題が残される。この句は、表示句の中でも最高に興味深く、かつ極めて困難なものである。例として「チャールズ2世の父親# は処刑された ( the father of Charles II was executed )」という命題を取ろう[11]。これが主張するのは、チャールズ2世の父親であり、かつ処刑された一つの x が、かつて存在した、ということである。さて、the は、厳密に使われる場合、一意性を含意している。実際には私たちは、誰それに複数の息子がいる場合でも「だれそれの息子# ( the son of So-and-so )」という表現を使うが、これをより正確に言うなら「だれそれのある息子 (a son of So-and-so)」となろう。従って、私たちの目的のために、the は一意性を含意すると考えよう。従って、私たちが「 x はチャールズ2世の父親# だった」という場合、私たちが主張する内容には、x がチャールズ2世とある特定の関係を持っていた、ということに加えて、他の何ものもその関係を持っていなかった、ということも含まれる。当該の関係を、一意性を想定せず、表示句を使わずに表現するなら、「 x はチャールズ2世を子としてもうけた」となる。「 x はチャールズ2世の父親# だった」と同値な命題を得るためには、さらに「もし y が x と異なれば、y はチャールズ2世を子としてもうけなかった」や、あるいは同じことだが「 y がチャールズ2世を子としてもうけたなら、y は x と同一である」を加えねばならない。従って、「 x はチャールズ2世の父親# である」は、「 x はチャールズ2世を子としてもうけた、かつ、『もし y がチャールズ2世を子としてもうけたなら、y は x と同一である』は y について常に真である」となる[12]

それゆえ、「チャールズ2世の父親# は処刑された」 は次のようになる。「 x はチャールズ2世を子としてもうけた、かつ、『もし y がチャールズ2世を子としてもうけたなら、y は x と同一である』は y について常に真である、ということは x について常に偽であるとは限らない」[13]

これは、幾分信じがたい解釈に映るかもしれない。だが今はこの解釈を正当化する理由は挙げず、理論の内容を述べるにとどめる。
 「C(チャールズ2世の父親#)」を解釈するには、Cが彼についての任意の言明を表すとすれば、先の解釈の「 x は処刑された」をC(x)で置き換えるだけでよい。先の解釈に従えば、Cがどのような言明であれ、「C(チャールズ2世の父親#)」が含意するのは、

「『もし y がチャールズ2世を子としてもうけたなら、y は x と同一である』は y について常に真である」[14]

ということが見て取れる。これを普通の言語で表現すれば「チャールズ2世は一人の父親を持っていた、かつ、それ以上は持っていなかった」ということである。従って、もしこの条件が満たされないなら、「C(チャールズ2世の父親)」という形式を持つ全ての命題は偽である。だから例えば、「C(現在のフランス国王#)」という形式を持つ全ての命題は偽である。この結果は、今述べている理論の大きな利点である。一見するとこれは矛盾律に反すると思われるかもしれないが、後に示すように、決してそのようなことはない。上記の分析によって、表示句が現れる命題は全て表示句が現れない形式へと還元することができる。なぜそのような還元が必要になるのか、その理由を以下の議論によって示すことに努めよう。
 この理論が必要であることは、もし表示句を、それが言語表現の中に現れる命題の真正の構成要素を代理するものとみなすなら、不可避と思われる諸困難から明らかになる。そうした構成要素の存在を容認する可能な理論のうち、最も単純なものはマイノング7のものである。彼の理論によれば、文法的に正しい全ての表示句は、ある対象を表示する。それゆえ、「現在のフランス国王」や「丸い正方形」なども真正の対象と考えられる。そうした対象が存立(subsist)しないことは認められるが、それでもやはり対象ではあるとされる。これは本質的に困難を含む見解であるが、中でも主な反論は、そのような対象を認めることは矛盾律の侵犯に直結する、というものである。例えば、「現在のフランス国王は実在し、かつ、実在しない」とか「丸い正方形は丸い、かつ、丸くない」といった具合である。だがこれは耐えがたい帰結である。この帰結を回避できる他の理論が見出せるなら、確実にそちらの方が好ましい。
 上記のような矛盾律の侵犯を回避できるのが、フレーゲの理論である。彼は表示句において二つの要素を区別する。それらを意味(meaning)と表示対象(denotation)と呼ぶことができる9[15]。それゆえ、「20世紀最初の瞬間における太陽系の質量の中心#」は意味としては非常に複雑な複合物だが、その表示対象は特定の点であり、単純である。太陽系、20世紀などは意味の構成要素であるが、表示対象はいかなる構成要素も持たない9。この区別を行なう一つの利点は、これがなぜ同一性を主張することに価値があるのか、その理由を示してくれるからである。私たちが「スコットは『ウェイヴァレー』の著者である」と言うとき、私たちは異なる意味を持つ表示対象の同一性を主張している。しかしながら私は、フレーゲの理論に有利となる根拠はここでは繰り返さない。既に別の場所(前記引用書)でその主張を強調しており、今はその主張を論駁することに関心があるからである。
 表示句は意味表現し、かつ、表示対象を表示するという見解10を採用する際に私たちがすぐに直面する困難の一つは、表示対象が欠如している場合に関わるものである。「イギリス国王# は禿げである」と言うとき、この言明は「イギリス国王」という複合的意味についてのものではなく、意味によって表示される現実の人間についてのものだと思われよう。しかしここで「フランス国王# は禿げである」という命題について考えよう。形式が等しいことから、これもまた「フランス国王#」という句が表示する表示対象についての命題でなくてはならない。だが、「イギリス国王#」が意味を持つならば、この句も意味を持つが、にもかかわらず、少なくとも明白な意味においては、いかなる表示対象も持たないことは確実である。このことから、人は「現在のフランス国王# は禿げである」は無意味でなくてはならないと考えるであろう。だがこの命題は、端的に偽であるがゆえに、無意味ではない。あるいはまた、次のような命題を考えてみよう。「もし u がただ一つの要素だけを持つクラスであるなら、その一つの要素は u の要素である」、あるいは「もし u が単元クラスであるなら、その u はある u である( the u is a u )」。仮定が真である場合は常に結論も真であるから、この命題は常に真になるべきである。しかし「その u 」は表示句であり、ある u であると言われているのは意味ではなく表示対象の方である。今、仮に u が単元クラスでない場合、「その u 」は何ものも表示しないように思われる。従ってこの命題は、u が単元クラスでない場合には、即座に無意味になると思われるのである。
 こうした命題が無意味にならないことは、仮定が偽であることからだけでも明白である。 [シェイクスピアの] 『あらし』に登場する王は「もしフェルディナンドが溺れていなければ、フェルディナンドは私の唯一の息子である」と言うこともできたであろう。ここで「私の唯一の息子」は表示句であり、形の上では、王がちょうど一人の息子を持つとき、かつそのときに限り、表示対象を持つ。しかし上の言明は、たとえフェルディナンドが実際に溺れていたとしても、やはり真のままであったろう。従って私たちは、次のような二者択一を迫られることになる。一見すると表示対象が欠如している場合でも表示対象を用意するか、表示対象は表示句を含む命題において関連してくるものであるという見解を放棄するか、である。私が擁護するのは後者である。前者は、マイノングがそうしたように、存立しない対象を許容することによって、またそれらが矛盾律に従うことを拒否することによってなされる。しかし、できることならこの道は避けるべきである。これと同じ方向(いま問題にしている選択肢に関するかぎりであるが)へ向かうもう一つの選択肢は、フレーゲによって選ばれた。彼は、純粋に規約的な表示対象を、それ以外の仕方では表示対象が存在しない場合のために用意する。それによって、「フランス国王#」は空クラスを、「だれそれ(10人の素晴らしい家族を持っている)のただ一人の息子#」は彼の全ての息子を要素に持つクラスを表示することになる。他の場合も動揺である。しかしこのやり方は、現実に論理的誤りに陥ることはないかもしれないが、全く人工的であり、事態の正確な分析を与えるものではない。従って、もし一般的に表示句が意味と表示対象の二つの側面を持つことを認めるなら、表示対象が現実に存在すると仮定しても、現実に存在しないと仮定しても、表示対象がないように思われる場合において困難に突き当たることになる。
 論理学の理論は、諸問題を処理する能力によって評価することができよう。だから論理について考えるときは、できるだけ多くの問題を頭の中に用意しておくのが健全な方針である。そうした問題は、物理科学における実験と同じ役割を果たしてくれるからである。そこで私は、表示に関する理論が解決すべき3つの問題を挙げよう。そして後で、私の理論がこれらの問題を解決することを示そう。

  (1) もしaがbと同一なら、片方について真であることは、全てもう一方についても真である。そして任意の命題において片方をもう一方で置換してもそれで、命題の真理値が変わることはない。さて、ジョージ4世は『ウェイヴァレー』の著者がスコットであるか否か知りたがっていた。現実に、スコットは『ウェイヴァレー』の著者であった。それゆえ、『ウェイヴァレー』の著者スコットで置き換えてよい。従って、ジョージ4世は、実は、スコットがスコットであるか否かを知りたがっていたということが証明される。しかし、このヨーロッパ最初の紳士が同一律に興味を抱いていたとはとうてい考えられない。

  (2) 排中律により、「 A は B である」か「 A は B ではない」のどちらかが真でなくてはならない。従って、「現在のフランス国王# は禿げである」か「現在のフランス国王は禿ではない」のどちらかが真でなくてはならない。しかし、禿げであるものと禿げでないものを全て数え上げたとしても、現在のフランス国王はどちらのリストにも含まれない。総合を愛するヘーゲル主義者なら、国王はかつらをつけていると言うかもしれない。

  (3) 「 A は B と異なる」という命題を考えよ。もしこれが真なら、A と B の間には差異が存在することになり、その事実は「 A と B の間に差異が存立する」という形式で表せる。一方、もしこれが偽なら、A と B の間には差異が存在しないことになり、その事実は「 A と B の間に差異は存立しない」という形式で表せる。しかし、一体どうしたら非実体的なものが命題の主語になりうるだろうか? 「われ思う、ゆえにわれ在り」は、もし「われ在り」が [私の] 実在(existence)ではなく存立(subsistence)や存在(being)11を主張するものだとすれば、「われ命題の主語なり、ゆえにわれ在り」と同様、明証的ではない。従って、何かの存在を否定することは常に自己矛盾となるに違いないであろう。しかしまた、マイノングとの関連で既に見たよう、存在を容認することも時として矛盾を導くのである。従って、もし A と B が異ならなければ、「 A と B の間の差異」のような対象が存在すると考えることも存在しないと考えることも、等しく不可能なように思われる。

 意味の表示対象に対する関係は、かなり奇妙な幾つかの困難を含んでいる。これらは、そうした困難をもたらす理論は間違っているに違いないと証明するのに十分な困難であると思われる。
 私たちが表示句の表示対象と対照させてその意味について語りたいと思うとき、括弧で囲むのが自然な様式である。そうすると、

太陽系の質量の中心# はある点 [=表示対象] であって、表示的複合物 [=意味] ではない[16]
「太陽系の質量の中心#」は、表示的複合物であって、ある点ではない。

ということであり、また、

グレイの歌の一行目# はある命題 [=表示対象] を述べている。
「グレイの歌の一行目#」は命題を述べていない

ということである。そこで、任意の表示句をCとおいて、Cと「C」の関係を考えたい。もっとも、両者の差異は上の2つの具体例で示されている種類のものであるが。
 まず初めに、私たちの議論の中にCが現れる場合、それは表示対象であり、一方、「C」が現れる場合は意味である。ところで、意味と表示対象の関係は、句を介しての単なる言語的な関係ではない。そこには、「意味は表示対象を表示する」と言うことで表現される論理的関係が含まれなくてはならない[17]。しかしここで私たちが直面する困難は、意味と表示対象の関連を保存することと、両者が同一のものではないとすることは、両立不可能であること、また、意味は表示句を通してしか得ることができないことである。この困難は以下のようにして生じる。
 Cという句は、意味と表示対象の二つを持つはずであった。しかし、私たちが「Cの意味」について語る場合、これは表示対象の意味(それが存在すればの話だが)を与えるものである[18]。「グレイの歌の一行目# の意味は、「『晩鐘が夕暮のときを知らせる』の意味」と同じものである。だがこれは「『グレイの歌の一行目#』の意味と同じではない。従って、私たちが欲する意味を得るためには、「Cの意味」という言い方ではなく、「『C』の意味」という言い方――これはずばり「C」と言うのと同じであるが――をしなければならない。同様に、「Cの表示対象」は私たちが欲する表示対象を意味するのではなく、私たちが欲する表示対象によって表示される何か――その表示対象が表示を行う種類のものなら、だが――を意味するのである。例えば「C」を、先ほどの2番目の例に現れる、表示的複合物 [=意味] であるとしよう。すると、

C = 「グレイの歌の一行目#」であり、

Cの表示対象 = 晩鐘が夕暮のときを知らせる、である。しかし、私たちが表示対象としようと意図していたのは、「グレイの歌の一行目#」であった。それゆえ、私たちは望むものを手に入れることに失敗してしまったのである。
 表示的複合物の意味について語ることの難しさは、次のように言い表すことができよう。私たちが命題の中に複合物を位置付けるや否や、その命題は表示対象についての命題になってしまう。そして私たちが「Cの意味」を主語に持つ命題を作るとき、その主語は [表示句の意味ではなく、その表示句が表示する] 表示対象の意味(存在すればだが)という、意図していなかったものになってしまうのである。このことから、私たちは次のように言わざるをえない。私たちが意味と表示対象を区別するとき、私たちは意味を扱わなければならないのだが、この意味というのは表示対象を持つ複合物であり、そして複合物と呼ぶことができ、かつ、意味と表示対象の両方を持つものは、意味以外には存在しない、と。今問題としている見解 [=フレーゲの見解] によれば、意味には表示対象を持つものがある、ということは正しいのである。 [もちろん、表示対象を持たない意味もある。]
 しかしこれは意味について語ることの困難をより明白にしたに過ぎない。というのも、Cを複合物だとすると、私たちは当然、Cはその複合物の意味であると言うからである。ところが、Cが括弧なしで文中に現れるときは常に、語られる内容は表示対象のみについて真になるのであって、意味について真になるのではない。例えば、太陽系の質量の中心# はある点である、と言うときのように。それゆえ、C自身について語るためには、すなわち意味についての命題を作るためには、 [Cが主語の命題は、結局、表示対象についての命題になってしまうのだから] 主語がCであってはならない。Cを表示する何かが主語になる必要がある。それゆえ、私たちが意味について語りたいときに使う、括弧つきの「C」は、意味であってはならず、意味を表示する何かでなくてはならない。しかもCは複合物の構成要素(「Cの意味」がそうであるように)であってはならない。なぜなら、もしCが複合物の中に現れるなら、現れるのはその表示対象であって意味ではないからであり、また、どんな対象も、無限に多くの異なる表示句によって表示されるため[19]、表示対象から意味へと遡る方法はないからである。
 従って、「C」とCは異なる実体であり、「C」はCを表示するように思われる。しかしこれは説明になっていない。なぜなら、「C」のCに対する関係が全く謎のまま残されるからである。しかも、Cを表示する「C」という表示的複合物をどこに見出すことができるのだろう? 問題はそれだけではない。Cが命題の中に現れるとき、(次の段落で見るように)表示対象だけが現れるのではない。しかし今問題としている見解によれば、Cは表示対象に過ぎず、意味は完全に「C」に帰属されることになる。これは解決不可能なもつれであり、意味と表示対象の区別全体が誤って考えられたものであることを証明する困難であると思われる。
 表示句が命題の中に現れる場合は意味が関係してくるということは、『ウェイヴァレー』の著者にまつわる問題によって形式的に証明される[20]。「スコットは『ウェイヴァレー』の著者である」という命題は、「スコットはスコットである」という命題にはない一つの性質を有している。それこそジョージ4世が真か否か知りたがっていた性質である。従って、この2つの命題は同一の命題ではなく、ゆえに、もし私たちが意味と表示対象を区別する見解を採用するならば、表示対象だけでなく意味も関係してこなくてはならない。だがたった今見てきたように、たとえこの見解を採用しても、関係するのは表示対象だけであるとの結論を出さざるを得なかった。従って、この見解は放棄されなければならない。
 残る課題は、私がこの論文の冒頭で説明した理論が、私たちが考察してきた全ての諸問題をいかにして解決するかを示すことである。
 私が擁護する見解に従えば、表示句は本質的に文の一部であり、ほとんどの単一の語と違って、それ自体独立ではいかなる意味も持たない。私が「スコットはある人だった」と言うとき、これは「 x はある人だった」という形式の文であり、「スコット」を主語として持っている。しかし、もし私が「『ウェイヴァレー』の著者# はある人だった」と言うならば、これは「 x はある人だった」という形式の文ではあるが、「『ウェイヴァレー』の著者#」を主語として持つのではない。この論文の冒頭で述べたことを省略して言えば、「『ウェイヴァレー』の著者# はある人だった」は次のように変形できる。すなわち、「一つの、そしてただ一つの実体が『ウェイヴァレー』を書いた、かつ、その一つの実体はある人だった」。(厳密に言うと、これは先に述べたものとは異なることを意味する。しかし理解はこちらのが容易である。)これを一般的に言うと、『ウェイヴァレー』の著者が性質φを持っていたことを言おうとすることは、「一つの、そしてただ一つの実体が『ウェイヴァレー』を書いた、かつ、その一つは性質φを持っていた」と言うことと同値である。
 今や、表示対象の説明は次のようになる。「『ウェイヴァレー』の著者#」が現れる命題は全て上述のように説明される。「スコットは『ウェイヴァレー』の著者# であった」という命題(すなわち「スコットは『ウェイヴァレー』の著者# と同一であった」という命題)は、「一つ、そしてただ一つの実体が『ウェイヴァレー』を書いた、かつ、スコットはその一つの実体と同一であった」となる。あるいは完全に明白な形式に戻してみると、こうなる。「 x は『ウェイヴァレー』を書いた、かつ、もし y が『ウェイヴァレー』を書いたなら、y は x と同一であることは y について常に真である、かつ、スコットは x と同一であることは、x に関して常に偽であるとは限らない。」 従って、もし「C」が表示句なら、そしてこの命題が上のように解釈されるなら、命題「 x はCと同一である」が真となるような一つの(そして一つ以上は存在しない)実体 x が存在することがある。そのとき私たちは、実体 x は表示句「C」の表示対象であると言ってよい。従って、スコットは「『ウェイヴァレー』の著者#」の表示対象である。ここで、括弧で囲まれた「C」は単なるであり、意味と呼びうる何ものでもない。句自身は意味を持たない。なぜなら、句が現れるいかなる命題も、それが完全に表現されたならもはや句を含んでおらず、句は分解されてしまっているからである。
 ジョージ4世の好奇心にまつわる難問は、今や非常に単純な解決を与えられると思われる。「スコットは『ウェイヴァレー』の著者# である」という命題は、省略していない形に展開して書けば、前段落のように、「スコット」を代入可能な構成要素「『ウェイヴァレー』の著者#」を含まない命題へと変形できる。このことは、当該の命題において、「『ウェイヴァレー』の著者#」が一次的な現れと私たちが呼ぶ現れ方をしている限り、言語的に「『ウェイヴァレー』の著者#」を「スコット」で置換することから生じる推論の真偽とは対立しない。表示句の一次的現れと二次的現れの違いは、以下の通りである。
 私たちが「ジョージ4世はしかじかであるか否かを知りたがっていた」とか「しかじかは驚くべきことだ」とか「しかじかは真である」とか言うとき、この「しかじか」は命題でなくてはならない。今、「しかじか」が表示句を含むと仮定しよう。私たちは、「しかじか」という従属命題からこの表示句を除去することもできるし、「しかじか」を単なる構成要素として含む全体命題から除去することもできる。どちらを選ぶかによって異なる命題が生じる。私は気難しいヨットの持ち主の話を聞いたことがある。ある客がヨットを初めて見たとき「あなたのヨットは実際の大きさより大きいと思っていた」と言った。すると主人は「いや、私のヨットは実際の大きさより大きくはない」と答えた。客が意味していたのは、「私があなたのヨットについて考えていたサイズは、実際のあなたのヨットのサイズより大きい」ということである。しかし主人が受け取った意味は、「私は、あなたのヨットのサイズはあなたのヨットのサイズより大きいと考えていた」だったのである。ジョージ4世と『ウェイヴァレー』に話を戻すと、私たちが「ジョージ4世はスコットが『ウェイヴァレー』の著者# であるか否か知りたがっていた」と言うとき、私たちが普通意味するのは「ジョージ4世は、一人、かつただ一人の人間が『ウェイヴァレー』を書いた、かつ、スコットがその人間だったか否か知りたがっていた」ということである。しかしまた、私たちは次のように意味することもできるのだ。「一人、かつただ一人の人間が『ウェイヴァレー』を書いた、かつ、ジョージ4世はスコットがその人間だったか否かを知りたがっていた。」 後者において、「『ウェイヴァレー』の著者#」は一次的な現れをしている。前者においては二次的な現れをしている。後者は「ジョージ4世は、実際に『ウェイヴァレー』を書いた人間について、それがスコットであるか否か知りたがっていた」と表現することもできる。この文は、例えば、ジョージ4世がスコットを遠目に見て「あれはスコットか?」と聞いた場合に真となる。表示句の二次的な現れは、それが現れる命題pが、今問題になっている命題の単なる構成要素である場合の表示句の現れとして定義できる。そして表示句の置換が影響を及ぼすのはpにおいてであって、当該の全体命題においてではない。一次的な現れと二次的な現れの間に見られるような曖昧性は、言語において避け難いものである。しかしこれは、予防策を講じれば無害である。記号論理学ではもちろん、この曖昧性は簡単に回避できる。
 一次的な現れと二次的な現れの違いは、また、現在のフランス王が禿げであるか否かという問題についても、さらに一般的に、何ものも表示しない表示句の論理的身分についても、扱うことを可能にしてくれる。「C」が表示句、例えば「性質Fを持つ項」である場合、

「Cは性質φを持つ」 は 「一つ、そしてだた一つの項が性質Fを持つ、かつ、その項は性質φを持つ」 を意味する12

仮に今、性質Fがいかなる項にも属さないか、あるいは複数の項に属するならば「Cは性質φを持つ」はφの全ての値について偽になる。従って、「現在のフランス国王# は禿ではない」は、もしこれが

現在フランスの国王であり、かつ禿ではない、ある実体が存在する

を意味するなら偽である。しかし、

現在フランスの国王であり、かつ禿げである、ある実体が存在するというのは偽である

を意味するなら真である。つまり、「フランス国王#」が一次的な現れをする場合は、「現在のフランス国王# は禿ではない」は偽となり、二次的な現れをする場合は真となるのだ。従って、「フランス国王#」を一次的な現れとして含む命題は全て偽である。そのような命題の否定は真であるが、その場合「現在のフランス国王#」は二次的な現れをしているのである。かくして、フランス国王はかつらをかぶっているのだという結論を免れることができる。
 今や私たちは、A と B が異ならない場合に A と B の間の差異のような対象が存在するということをどのように否定するか、ということについても理解できる。A と B が異なるなら、「 x は A と B の間の差異# である」と真な命題とする実体 x がただ一つだけ存在する。一方、A と B が異ならないなら、そのような実体 x は存在しない。従って、先に説明した表示句の意味に従えば、「 A と B の間の差異#」は、A と B が異なれば表示対象を持つが、異ならない場合は表示対象を持たない。この違いは、一般に、真な命題と偽な命題に適用される。もし「aRb」が「aはbと関係Rにある」ということを代理するなら、aRbが真のとき、aとbの間に成り立つ関係Rという実体が存在するが、aRbが偽のときはそのような実体は存在しない。従って、任意の命題から表示句を作ることができるが、その表示句は、命題が真ならある実体を表示し、偽なら表示しない。例えば、地球が太陽の周りを回転することは真であり(と、少なくとも仮定しよう)、太陽が地球を回ることは偽である。それゆえ、「太陽を中心とする地球の回転#」はある実体を表示するが、「地球を中心とする太陽の回転#」はいかなる実体も表示しない13
 「丸い四角#」、「2以外の偶数の素数#」、「アポロ」、「ハムレット」などといった実体ではない存在者の全領域は、今や満足の行く扱いが可能である。つまり、これら全ては何ものも表示しない表示句なのである。アポロについての命題が意味するのは、古典の辞書がアポロという語によって教えてくれる意味、つまり「太陽神」を代入することで得られるものである。アポロが現れる全ての命題は、表示句についての上記の規則によって解釈されるべきである。もし「アポロ」が一次的な現れをするなら、その現れを含む命題は偽である。もし現れが二次的なものであれば、命題は真でありうる。再度「丸い四角#は丸い」の意味を考えるなら、「丸い四角であるような x が一つ、そしてただ一つ存在する、かつ、その実体は丸い」である。そしてこの命題は偽である。マイノングが主張するように真にはならない。「最も完全な存在者は全ての完全性を備えている。実在性は完全性の一つである。従って最も完全な存在者は実在する」は次のようになる。

最も完全である実体 x が一つ、そしてただ一つ存在する、かつ、その実体は全ての完全性を持つ、かつ、実在性は完全性の一つである。従ってその実体は実在する。

証明としては、「最も完全である実体 x が一つ、そしてただ一つ存在する」という前提の証明を欠いているため14、この証明は失敗している。
 マッコール氏は、個体を実在的個体と非実在的個体に分類している(『マインド』第54号, 55号 p.401)。それゆえ彼は、空クラスを全ての非実在的個体を含むクラスとして定義する。この定義は、「現在のフランス国王#」のような表示句は、実在的個体を表示しないが、非実在的個体は表示するということを仮定している。これは本質的にはマイノングの理論と同じであり、私たちは既に、矛盾律に抵触するという理由でこれを斥けた。私たちの表示理論に従えば、非実在的個体など存在せず、従って空クラスとは要素を一つも含まないクラスのことであって、全ての非実在的個体を含むクラスのことではない。
 表示句によって行われる諸定義の解釈に私たちの理論が及ぼす影響を観察することは重要である。大抵の数学の定義はこの種のものだからだ。例えば、「 m - n は、n に加えれば m になる数# を意味する。」 このように、m - n は特定の表示句と同じものを意味するものとして定義される。しかし私たちは、表示句が単独では意味を持たないことを了解済みである。それゆえ、この定義は本当はこうなるべきである。「 m - n を含む任意の命題は、『m - n』を『 n に加えれば m になる数#』で置換することで得られる命題を意味する。」 この置換によって得られた命題は、先述の、表示句をその言語表現に含む命題を解釈する規則に従って解釈される。n に加えれば m になる x が一つ、そしてただ一つ存在する場合なら、m - n を含む任意の命題において m - n を x で置換しても命題の真理値が変わらない数 x が存在する。しかし、そのような x が一つも存在しない場合、または複数存在する場合は、「m - n」が一次的な現われをする命題は全て偽になる。
 同一性の有用性は上記の理論によって説明される。論理学の本以外では、誰も「 x は x である」などと言おうとはしないが、同一性の主張はしばしば「スコットは『ウェイヴァレー』の著者# であった」とか「あなたは人間# である」のような形で行われる。こうした命題は、単にスコットが他の項、すなわち『ウェイヴァレー』の著者と同一であるとか、あなたが他の項、すなわち人間と同一であることを述べるものではないが、しかし、同一性の観念なしに述べることはできない。「スコットは『ウェイヴァレー』の著者# である」ということを述べる言明は、最短のものでも次のようになると思われる。「スコットは『ウェイヴァレー』を書いた、、かつ、もし y が『ウェイヴァレー』を書いたならば、y がスコットと同一であることは、y について常に真である。」 同一性はこのようにして「スコットは『ウェイヴァレー』の著者# である」という命題に入ってくる。そして同一性を確認する価値があるのは、このような用法のためである。
 上記の表示の理論がもたらす一つの興味深い帰結は[21]、私たちが直接の見知りを持たず、ただ表示句による定義だけを持っている物がある場合、表示句を通してこの物が導入されている命題は、実際にはこの物を一つの構成要素として持つのではなく、表示句に現れる幾つかの語によって表現される複数の構成要素を持つ、ということである。従って、私たちが理解できるあらゆる命題(すなわち、真偽を判断できる命題だけでなく、そもそも真偽について思考可能な全ての命題)においては、全ての構成要素は、実際は、私たちが直接の見知りを持つ実体なのである。今や、物質(物理学における意味での)や他人の心のようなものは、表示句によって私たちに知られる。すなわち、私たちはそれらを見知っているのではなく、しかじかの性質を持つものとして知るのである。このため私たちは、しかじかの性質を持つ物質的粒子、あるいは誰それの心を変項として取るべき命題関数C(x)を作ることができるのに、私たちの知っているこれらのものが真であるに違いないことを肯定する命題を見知ることはないのである。なぜなら、当該の現実的な実体を把握することができないからである。私たちが知っていることは、「誰それはしかじかの性質を持つ心を持つ」ということであって、「 A はしかじかの性質を持っている」(ここで、A は当該の心である)ということではない。このような場合、私たちは物自身に対する見知りなしに、それゆえ結果として、物それ自身を構成要素とするいかなる単一の命題も知ることなしに、物の性質を知るのである。
  私がこの論文で擁護してきた見解のもたらす数多くの帰結については、何も言うつもりはない。私はただ、読者にお願いしたいのだが、表示というテーマについて自ら理論を構築しようと試みるまでは――過度の複雑さのゆえに、反論したい誘惑に駆られるのも分かるのだが――どうか私の見解に反論しようとしないでほしい。実際に理論を構築してみれば、正しい理論がどんなものであれ、予想していたほど単純なものにはなりえないことを確認することになるであろうと、私は信じている。


原註
1 私はかつて『数学の原理』の第X章と第476節においてこのテーマについて論じた。そこで主張されている理論は、フレーゲのものと殆ど同じであり、以下に述べられれる理論とは全く異なる。

2 より正確には、C(x)は命題関数である

3 「C(x)は時として真である」は「C(x)は常に真である」を使って定義することができる。それには、前者が「『C(x)は偽である』が常に真であることは真ではない」を意味すると考えればよい。
 [これは、¬∀x ¬C(x) = ∃x C(x) というド・モルガンの法則と同じことです。――訳註] 

4 この複雑な句の代わりに、場合によって「C(x)は常に偽であるとは限らない」や「C(x)は時として真である」を、同じ意味として定義されている句として使うことにする。

5 このことは、ブラッドリー氏の『論理学』第1巻第2章において巧みに論じられている。

6 心理的には、「C(ある人)」は、ただ一人であることを示唆し、「C(何人かの人)」は少なくとも一人以上であることを示唆する。しかし予備的な概略を述べる場合は、この違いを無視してよいだろう。

7 『対象論と心理学のための探究』(ライプツィヒ, 1904)の最初の3編の論文を参照。(それぞれ、マイノング、アムセダー、マリーの3氏によるもの)

8 フレーゲの「意義と意味について」『哲学と哲学批評』第100号を参照。

9 フレーゲは意味と表示対象という二つの要素を、複雑な表示句だけに限らず、あらゆる語について区別する。それゆえ、表示句の表示対象ではなく意味に含まれるのは、表示的複合物の構成要素の意味である。彼によれば、「モンブランは1000メートル以上の高さである」という命題において命題の意味の構成要素は、現実のモンブランではなく「モンブラン」の意味なのである。

10 この理論よると、表示句は意味表現する(express)という言い方をすることになるだろう。また、句と意味の両者とも、表示対象を表示する(denote)と言うことになるだろう。私が主張する別の理論によれば、意味というものは存在せず、ただときどき表示対象が存在するのみである。

11 私は存立と存在を同義語として使う。

12 これは省略形であり、厳密な解釈ではない。

13 そのような実体を導くもととなる命題は、そうした実体とも、そうした実体が存在を持つと主張する命題とも同一ではない。

14 最も完全な存在者のクラスの全ての要素が実在することを妥当に証明することは可能である。また、そのクラスが一つ以上の要素を持ちえないことも形式的に証明可能である。しかし、完全性の定義を全ての肯定的な述語の所有だとすると、そのクラスの要素が一つではないこともまた、ほとんど同じぐらい形式的に証明可能なのである[22]。


訳註
[1] 「表示」という現象が何であるか、既に読者が知っているものとして議論が進みますが、知らない人のためにここで説明します。
 このテーマが最初に扱われるのは、『数学の原理』(1903)です。表示とは、この本で展開された意味論において、奇妙な例外を示す(とラッセルには思われた)現象です。従って『原理』の意味論を知らないと、この論文でいきなり「表示の問題」と言われても一体何が問題なのか分かりません。そこで、少し『原理』の意味論についての解説に付き合ってください。
 『原理』においてラッセルが採用した意味論は、極端に実在論的なものでした。すなわち、全ての語にはそれに対応する存在者が存在し、それが語の意味である、というものです。凄まじいことに、前置詞や冠詞にまで存在者が対応させられるという徹底ぶりです(一体皆さんは「nothing」に対応する存在者として何を想像しますか?)。語によって指示される存在者は、大きく二つのカテゴリに分類されます。一つが、固有名によって指示される「物」、もう一つが、固有名以外によって指示される「概念」です。従って、

     Socrates is human.

という文においては、Socratesが人間ソクラテス自身を指示し、is と human がそれぞれ概念を指示することになります。ここまでは、特に問題ありません。しかし、次の文はどうでしょう。

     Socrates met a man.

 Socrates が人間ソクラテス自身を指示し、met が概念を指示する。ここまでは最初の文と同じです。しかし「 a man 」という表示句は一体何を指示するのでしょう。固有名以外の語は概念を指示するという原則に従えば、これもまた概念を指示するはずです。しかしそれなら、この文は、ソクラテスと概念の出会いを報告するものなのでしょうか? 明らかにそうではありません。この文は、ソクラテスと現実の人間との出会いを報告しているのです。するとさっきの原則の方が間違っていたのでしょうか?
 いや、実在論の原則も捨てたくありません。この困難に直面したラッセルは、自らの意味論に一つの特例を導入します。すなわち、表示句の場合のみ、それが指示する(indicate)概念は、同時に物を表示する(denote)という「表示」の関係がそれです。図式として表すと以下のようになります。
 
     表示句 ――――――→指示(indicate) 表示的概念(=複合物、意味 ―――――→表示(denote) 表示対象
 
 ところが、奇妙なことにラッセルは、この論文で『数学の原理』の意味論を振り返る際には、上図のような関係ではなく、下図のような三角関係を想定しています。このような関係であると主張する根拠は原註10にあります。

           ――――――――→表現(express) 表示的概念(=複合物、意味)
          |           |
          |           |
     表示句――|           |表示(denote)
          |           |
          |           ↓
           ――――――――→ 表示対象
            表示(denote)
 
 なぜラッセルが以前の意味論をこのような異なる図式で再解釈したのか、その確定的な理由は分かりません。単なる記憶間違い(ありえないとは思いますが)かもしれませんし、飯田氏が『大全』で言うように、「表示句と表示対象の間の関係が論理的なものでなくてはならないと思い直したため」かもしれません。
 しかし、両者の間に大きな違いはありません。どちらにせよ、およそエレガントとは言いがたい言い逃れであることは、ラッセル自身が強く感じるところでした。表示の問題の根本的な原因が、極端な実在論的意味論を前提としていることにあるのは明白ですが、ラッセルはこの前提を放棄せずに問題を解決しようと図ります。その結果編み出された解決策が、本論文で提唱される記述理論です。

[2] ラッセルが「語の意味」として考えているのは、それが指示する対象です。例えば「ソクラテス」という語の意味はソクラテスその人です。「丸い四角」や「キマイラ」のような、実在はしないが存在はするかのように思われる存在者を指示する語の意味については、論文の後半で詳述されます。また訳註14も参照。

[3] 現在の量化理論から見れば、この二つの概念はそれぞれ全称量化子と存在量化子と同じです。ゆえに、それぞれ∀x C(x)、∃x C(x) と書き換えることが可能です。

[4] それぞれ、∀x C(x)、∀x ¬C(x)、¬∀x ¬C(x)

[5] ∃x [ ( I met x ) ∧ ( x is human ) ]

[6] ∃x [ C(x) ∧ ( x is human ) ]

[7] ∀x [ ( x is human ) → ( x is mortal ) ]

[8] ∀x [ ( x is human ) → C(x) ]

[9] ∀x [ ( x is human ) → ¬C(x) ]

[10] ¬∀x ¬ [ C(x) ∧ ( x is human ) ]

[11] 日本語で the を含む表示句と同等の表現を作ることは難しいので、以下、この表示句を「#」を末尾に付けることで示すと決めます。この表記法は『言語哲学大全』I 巻に倣いました。

[12] ( x begat CharlesII )∧ ∀y ( y begat CharlesII ) → ( y = x )

[13] ¬∀x¬ [ ( x begat CharlesII ) ∧ ( x was executed ) ∧ ∀y( ( y begat CharlesII ) → ( y = x ) ) ]

[14] ∀y [ ( y begat CharlesII ) → ( y = x ) ]
 これだけだと、x が束縛されていませんが、最終的にもう1レベル上の量化子で x が束縛されることになります。

[15] meaningが Sinn、denotation が Bedeutung に対応します。カルナップが Sinn と Bedeutung を内包と外延として一般化して用いたことから、Sinn と内包は同じものとして扱われることがあります。しかし、両者の間には根本的な相違があるため、meaning に「内包」という訳語を当てることは避けます。
 この訳文では、meaning を「意味」、denotation を「表示対象」と訳します。この論文の文脈から見る限り、ラッセルの meaning とフレーゲの Sinn は同じとみなしてよいと思います。

[16] 「表示的複合物」とは、表示句が指示する概念のことです。ラッセルはこれを意味と同一視しています。

[17] なぜラッセルが「表示の関係は論理的関係でなくてはならない」と断言するのかは、説明を要します。これについての手掛かりは、『数学の原理』第51節から得られます。そこでもやはりラッセルは、言語とその指示対象との間に成り立つ関係は「心理的」なものであり、表示的概念と表示対象との間に成り立つ関係は「論理的」なものであると述べています。その理由は、論理学の対象が「動詞や前置詞の意味である普遍者から成る世界」であるからです。普遍者にとって、それがどのような語で指示されるかということはどうでもよいことです。ある普遍者に「机」や「table」という語を割り当てることは、人間の恣意的な行為であり、従って普遍者と語の結びつきは「心理的」なものとされるわけです。
 一方、表示的概念と表示対象の関係は、そのどちら側にも(多くの場合)言語を含みません(例外的に表示対象が言語になる場合については訳註[18]を参照)。それゆえ、この関係こそが私たちの推論に論理的妥当性を与えるものであり、従って表示の関係こそ論理的関係である、とラッセルは考えました。

[18] 「存在すればの話だが」と但し書きが付けられているように、表示対象が意味を持たない場合もあります。というより、圧倒的大多数の表示対象は意味を持ちません。これは当たり前のことで、ラッセルが直後で挙げている例「グレイの歌の一行目」や、あるいは「この論文の終わりの文」のように、表示対象が言語表現でない限り、表示対象が意味を持つことはありえません。実際、「太陽系の中心の意味は何か?」とか「2004年5月最初の日曜日の意味は何か?」と問われても、答えようがありません。

[19] 例えば「2004年1月1日」を表示する表示句は、次のように無限に作ることができます。

     2004年1月2日の前日#
     2004年1月3日の前々日#
     2004年1月4日の前々々日#
          ・
          ・
          ・

[20] フレーゲが「意義と意味について」で行った証明です。フレーゲによれば、「宵の明星 = 明けの明星」は「宵の明星 = 宵の明星」にはない認識価値を有する、ということになります。

[21]  この帰結は確かに興味深いものです。というのも、これによってラッセルが認める存在領域は劇的に縮小されたからです。ラッセルはかつて「丸い四角」や「現在のフランス国王」が含まれる膨大な存在者の領域を想定していました。しかし今や、これらの存在者は市民権を剥奪されたのです。
 しかしそれなら、「キマイラ」や「ユニコーン」のような、固有名によって指示されるにも関わらず、およそ私たちが直接見知っているとは思われない存在者の立場はどうなるのでしょう。「私たちが理解できる命題の構成要素は全て、私たちが見知っている物である」と言う以上、これらもまた存在領域から追放されねばならないはずです。しかしそれなら一体、追放の大義名分は何なのでしょう。固有名は表示句を含まないのだから、記述理論によって訴追することはできません。
 この問題に対するラッセルの対処は、彼らしく明快で強引で、人を驚かすものです。すなわち、

   固有名にも本当の固有名と偽の固有名がある。そして偽の固有名は、実は省略された確定記述句である。

 「キマイラ」も「ユニコーン」も、あたかも固有名のように振舞ってはいるが、実は偽の固有名であり、全てひっとらえて国外追放せねばならない――。なるほどこれなら、無理矢理とはいえ、固有名に偽装した確定記述句を追うための罪状となるでしょう。しかしそれなら今度は、本当の固有名とは一体なんであるのか、本当の固有名と偽の固有名を区別する基準は何か、という問いに答えねばなりません。かくして、ラッセルの「本当の固有名の探求」が始まります。この探求の帰結は「論理的原子論の哲学」で明らかになります。そして、そこで彼が辿り着いた意味論もまた、『数学の原理』のそれに劣らず驚くべきものです。その内容は、是非自分で確かめてください。

[22] この註では、「最も完全な存在者のクラス」は、ただ一つだけ要素を持つ、ということが言われています。その理由は、「最も完全な存在者#」が確定記述句であるため、記述理論によって、それに対応する個体は高々一つに限られるからです。
 また、「完全性の定義を全ての肯定的な述語の所有」だと考えた場合にクラスの要素が一つもなくなるのはなぜでしょう? 「全ての肯定的な述語の所有」とは、要するに、「正の整数である ∧ 負の整数である ∧ 男である ∧ …… 」のような無限連言になります。しかし { x | 正の整数である ∧ 負の整数である } というクラスは、空クラスになり、空クラスは定義上、要素を一つも持たないからです。(この定義は本文でも述べられています。)


著:B.ラッセル 1905
訳:ミック
作成日:2004/01/01
最終更新日:2005/12/30
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