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心理主義批判――言葉の意味は心的イメージではない



心理主義とは?

   言葉の意味を何らかの心的イメージ(心像、mental image、Vorstellung)[1]であると説明する立場を、心理主義的言語観または意味の心像説または単に心理主義と呼びます。(正確には心理主義というのは、本当はもう少し広い立場ですが、ここでは心像説と同義に使います。) この立場に従えば、例えば、「ソクラテス」という語の意味は、人間ソクラテスの心的イメージ、「赤」という語の意味は、その語に出会ったときに心に浮かぶ心的イメージである、という説明をします。
 素朴な直観とも合致するこの言語観は、デカルトからフッサールに至るまで、哲学において長い間支配的でした。特に1870年代頃からドイツで実験心理学が学問として認められるようになって以来、哲学と数学において隆盛を見ました。W.ブント、G.E.ミュラー、シュトゥンプ、それにフッサールの師であるブレンターノが主な人々です。
 しかし現在では、意味の心像説を無批判に支持する哲学者はいません。この言語観――色々とヴァリエーションはあるものの――が根本的に間違っていることが示されたからです。その間違いを示したのがウィトゲンシュタインです。



心理主義は間違っている

 では、ウィトゲンシュタインによる心理主義批判を解説します。参照テキストは『哲学探究』第I部139-141節(73-74節85-86節も参照)。論証の方法は無限後退と背理法です。議論の流れは以下の通りです。


  1. 言葉の意味が心像であるとすれば、それは必ず公共的に観察できる見本や絵などの具体像に置き換えられる。
    なぜなら心像と具体像の違いは、その表現媒体が違うだけなのだから、心像⇔具体像の変換は常に行ってよいからです。心像でしか表現できないもの、具体像でしか表現できないもの、というものはありません。
  2. 絵や見本などの具体像が言葉の意味だとすれば、その適用方法(解釈方法)も含まれていなくてはならない。
    さもないと、絵を見てもそれが何の絵なのか理解できません。ちょうど抽象画を見てもそれが何の絵なのか分からないように。それでは絵が言葉の意味だとは言えません。絵が言葉の意味であるためには、「この絵は〜を表している」という解釈が必要です。
  3. だが絵や見本には、常に、多様な解釈が可能であり、唯一の解釈があるわけではない。
  4. だから絵や見本は、言葉の意味ではない。連鎖的に、心像も言葉の意味ではない。

 ステップ3の「絵や見本には多様な解釈が可能である」ことの例として、ウィトゲンシュタインは「立方体と三角柱の両方に見える絵」と「老人が山を登っているようにも下っているようにも見える絵」の二つを挙げています。下手な絵で恐縮ですが、「杖をつきながら山を登る老人」の絵を描きましょう。ないよりましでしょう。


        / ̄\     
       /〜〜〜⊂⊃   ○ 
      /      \ /+┐   
       ⊂⊃     \ ∧
                 \


 さて、この絵を見たウィトゲンシュタインは次のように言います。
  私はある像を見る。それは一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子を描いたものである。――それはどのようにしてその事実を表しているのか? 老人がその姿勢で山を降りているとしても、やはり像はそのように見えるのではないか? ひょっとして火星人なら、その像を老人が山を降りている像として記述するかもしれない。しかし私は、なぜ私たちがこの像を火星人のように記述しないかの理由を説明する必要がない。(『哲学探究』第139節

 火星人というのは「文化的背景が劇的に異なる人物」の喩えです。同じ絵でも、異なる二人が見れば、異なる解釈の仕方がありうる、というのが本質的なポイントです。この議論と類似の例として、有名な「うさぎアヒル」や「老婆と若い婦人」の絵などを、多くの人が見た経験があるでしょう。
 このことから、絵や見本には無数の解釈がありえることが分かります。だから、異なる二人の人間が同じ語に出会い、同じ心像を心に抱いたとしても、一人は「山に登る老人」として心像を解釈し、もう一人は「山を滑り落ちる老人」として解釈する、ということも十分ありえます。静止画に限らず、動画や立体像でも同様です。これでは、二人が同じ心像を持ったからといって、両者にとってその言葉の意味が同じであるとは言えません。もしこれを認めれば、同一の語の意味が個々人によって異なる、という破壊的な結果を受け入れなければなりません。それでは意思疎通など不可能です。



心理主義からの反論

 ここで、心理主義の側から反論が起こるかもしれません。それは、「語の意味は心像だけでなく、心像と投影法(解釈の仕方)の両者から成るのであって、語の意味を理解することは、心像とその投影法との二つが心に浮かぶことである、とすれば心像の解釈も唯一つに決まる。心理主義でも問題ないではないか」というものです。
 ですがこの反論者に対し、ウィトゲンシュタインは逆に聞き返します。「投影法が心に浮かぶとはどういうことか?」 実は、それは結局心像を理解するための対応表が心に浮かぶことでしかありません。そして、その対応表も結局は心像です。とすれば、その対応表の投影法も無数にあることになります。これでは無限後退です。対応表の解釈を決める対応表の解釈を決める対応表の・・・・・・とやっていてはいつまで待っても語の意味を理解できません。こんな馬鹿な話はありません。現実には、私たちはほんとんど瞬間的に語の意味を理解しているというのに!
[ある人が言う。] 例えば、投影法の図式を見ると考えるのだ。その図式は、例えば、二つの立方体が投影の線によって結ばれているという像である。――[ウィトゲンシュタインが言う。] だが、そのような図式を思い浮かべることによって本質へと近づけるのだろうか? その図式に対しても再度異なる適用を考えることができはしないか? (『哲学探究』第141節


心理主義は死んだのか

 結局、心理主義による語の意味の説明は、どうやっても整合性を保てず、破綻せざるをえません。飯田氏も心理主義について次のように締めくくっています。
 ウィトゲンシュタインのこうした議論は、私には決定的なものであると思える。また、この議論が『哲学探究』自体の中で果たしている役割については多くの異なる解釈が可能であるとしても、言葉の意味についてのデカルト以来支配的であった理論をその根底から崩すものとして、それ自身で独立の価値をもつものであろう[2]。
 しかし、一度はウィトゲンシュタインによってとどめを刺されたかに見えた心理主義ですが、どうしてそう簡単には死にません。20世紀中頃になってクワインによる「自然化された認識論」の構想として息を吹き返し、現在では、認知科学や大脳生理学とタッグを組んだ現代版心理主義が復興しつつあります。しかしそこに立ち入ることは、この小文の範囲を大きく越えるものです。




[1] 心像と混同しがちな言葉に「観念(idea, Idee)」があります。哲学では伝統的にこの二つが区別されます。
 観念とは何でしょう。それは心像とどこが同じでどこが違うのか。この問いに答えることは困難です。というのも、この概念そのものが既に私たちにとって自明ではない上、プラトンの「イデア」に端を発し、その後ロック、バークリー、デカルト、カントら様々な哲学者によって論じられる過程で、かなり定義が変化してきたからです。そのため一口に「観念」と言っても、論者によってその意味が異なります。
 ただ、一つだけ、一般的に観念を心像から区別する重要な性質を挙げられます。それは、観念は心像と違って必ずしも心の中に存在するとは限らない、ということです。心と世界を媒介する第三の集合、それが観念の集合です。あるいは、心像の集合を真部分集合として含む、思考対象全体の集合である、と言うこともできます。実際、心像の集合と観念の集合とでは、後者の方が濃度が大きくなります(両者が無限集合だった場合は別ですが)。なぜなら、観念の集合には例えば神、意志、匂いなど、私たちが心像を持つことのできない対象の観念が含まれるからです。その逆に、観念として存在しえない対象の心像、というものは存在しません。だから、心像の集合は観念の集合の真部分集合と位置付けられます。
 言語哲学における観念という概念の理解の難しさと、それでも理解することの重要さを教えてくれるのが、I.ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』です。

[2] 飯田隆『言語哲学大全』I巻 pp.89-90


Copyright 2003 ミック
作成日:2004/12/08
最終更新日:2005/11/22
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