註
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心像と混同しがちな言葉に「観念(idea, Idee)」があります。哲学では伝統的にこの二つが区別されます。
観念とは何でしょう。それは心像とどこが同じでどこが違うのか。この問いに答えることは困難です。というのも、この概念そのものが既に私たちにとって自明ではない上、プラトンの「イデア」に端を発し、その後ロック、バークリー、デカルト、カントら様々な哲学者によって論じられる過程で、かなり定義が変化してきたからです。そのため一口に「観念」と言っても、論者によってその意味が異なります。
ただ、一つだけ、一般的に観念を心像から区別する重要な性質を挙げられます。それは、観念は心像と違って
必ずしも心の中に存在するとは限らない、ということです。心と世界を媒介する第三の集合、それが観念の集合です。あるいは、心像の集合を真部分集合として含む、思考対象全体の集合である、と言うこともできます。実際、心像の集合と観念の集合とでは、後者の方が濃度が大きくなります(両者が無限集合だった場合は別ですが)。なぜなら、観念の集合には例えば神、意志、匂いなど、私たちが心像を持つことのできない対象の観念が含まれるからです。その逆に、観念として存在しえない対象の心像、というものは存在しません。だから、心像の集合は観念の集合の真部分集合と位置付けられます。
言語哲学における観念という概念の理解の難しさと、それでも理解することの重要さを教えてくれるのが、I.ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』です。
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飯田隆『言語哲学大全』I巻 pp.89-90