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 料理の本とは何か?実用的な料理法を順序だてて集めたものだ。

 料理法とは何か? 《要素》 の一覧とその比率の指示。それに処方の手順。

 この手順に正確に従えば、美味しい料理が作れることが確約されるだろうか? 名コックがこの質問を聞いたら微笑むだろう。《舌》 がなくてはどうにもならない。絵画も一種の 《料理》 である。ある比率で組み合わされた要素から成り、正確な 《調理》 も必要とされる。だから、絵画の [描き方についての] 本も存在する。

 そればかりではない。今日ではすでに、幾つかの場合において、真の名作を 《解剖》 することが可能になっている。これは面白いだけでなく勉強にもなる。おそらく、解剖学という特殊科学が啓発的なのと同じぐらい、絵画の解剖も啓発的であろう。 [絵画の] いくつもの要素、比率、組成が数として表現される。私の考えでは、数による表現は、あらゆる現象に適用可能である。しかし、解剖学者に向かって「解剖学の指示 ―― 要素、比率、構造法則 ―― に従えば、生きた人間を構成することは可能か」と訊くのは無駄である [同様に、解剖学によって生きた絵画を構成する試みも無駄である] 。

 宇宙や宇宙の法則について語るのはやめた方がいい。芸術作品を数字で表すことが可能になる(そして時代が降ればますます簡単にやれる)という考えが言わんとすることも、私たちの芸術的判断が 《まったくのでたらめ》 から行なわれるのではなく、ただ、自然に、自然な根拠に基づいているのだということにすぎない。特に、ドイツ語の 《根ざしている(es sitzt)》 という語がこの根拠をほのめかしている。

 《新しい芸術の傾向》 がいつも(しかも度々激烈に!)拒否されるのはなぜか、という問いに答えるのは簡単である。従来の 《処方》 に焦点を当てている眼は、新しく発見された 《処方》 をすぐに受け入れることができないからだ。新たに焦点を調節するには、時間がいる。これは 《眼の保守主義》 とでも呼べるものである。終わりに、私は発信者(芸術家)と享受者(芸術愛好者)に対し心をこめて次のように助言したい。考えることと感じることを区別しなさい。

 世のいかなる処方も、それだけで作品を作ることはできないのと同様に、また 《芸術理解》 に絶対不可欠な感情の代役を果たすこともできない。頭が決して出来の悪い装置ではないとしてもだ。

 しかし、《感情のない》 頭は、《頭のない》 感情よりも性質が悪い。少なくとも芸術においては。

 

著:ワシリー・カンディンスキー 1937
訳:ミック
作成日:2003/06/12
最終更新日:2017/06/29
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