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無限公理




 カイザー教授の実に興味深い論文「無限公理」には、無限の理論に対する極めて重要な内容が含まれている。私のように、純粋数学は記号論理学の延長に過ぎないと信じる者が擁護する見解は、通常の算術と無限数の算術を含む数学の比較的新しい部分には、全く新しい公理は存在しない、というものである。カイザー教授の主張はこれと反対で、無限の実在を示そうと企てられた全ての論証には、特別な公理が暗黙のうちに使われているという。私の信じるところによれば、彼はそう考える際、簡潔さと、恐らくはこのテーマについて議論を述べる論者につきものの曖昧さによって、間違った方向へ導かれている。私自身もまた、今のところ同罪である。というのも、論理的に厳密な道具立てを用いた正確で詳細な証明は非常に長大なため、手短に与えることができず、私はそれを『数学の原理』第II巻に後回しにしたからである。しかし少し注意すれば、その証明が「美しい」かどうかはともかくとして、決して「いいかげん(round)」なものではないことを示すために、概要を説明することは可能である1
 解説を始めるに際して、私は、数の定義と、その定義によって、あらゆるクラスは何らかの完全に明確な諸項の数を持つということの証明を前提とする。この二つのことは、『数学の原理』第II部で詳細に論じた。そして見たところ、カイザー教授もこれらに関しては間違いを見出していないようである。
 第一段階は、数0の存在を論証することである。何物も満たさない任意の条件を満たす物の数を、0と定義する。すると、そうした条件があることが分かるであろう。例えば、何物も、真でありかつ偽であるような命題ではない。ゆえに、真でありかつ偽である命題であるような物の数は0である。従って、数0は存在する。
 第二段階は、数1を次のように定義する。一つの項を持つあるクラスについて、その項を取り除くと、残る項の数が0になる場合、そのクラスに含まれる項の数は1である。このようなクラスが実在することを証明するのは難しくない。例えば、数0と同一の物のクラスは、数0だけから成る。ゆえにただ一つの要素を持つ。同じようなやり方で数2に進もう。数0と1から成るクラスは二つの要素を持っており、ゆえに数2が実在することが証明される。
 もし私に誤りがなければ、カイザー教授が過度の簡潔さによって誤りに陥っているのは、第二段階においてである。この段階において、彼は、無限の存在を主張する人間は「以下同様(and so on)」という曖昧な表現――全ての悪事を覆い隠そうとして持ち込まれる等々(etcetera)の一種――に満足してしまっていると考えているようである。
 しかしそれは誤りである。等々は、通常の数学では ... という点の列で表現されて普通に使われるが、より厳格な記号論理学者には耐えがたいものである。等々を使わずにどのように議論を進められるか、それを今から示そう。
 まず私たちは、数学的帰納法の原理2を証明する。帰納法の原理は、この分野においては、等々以外からはほとんど期待できないような役割を果たす。この原理が述べるのは、0が任意の性質を持ち、かつ、n がその性質を持っているときに n + 1 もそれを持っているなら、全ての有限数がその性質を持つ、ということである。この原理を使って、n が任意の有限数であるとき、0から n までの数の[個]数(両端を含む)は、n + 1 であることが証明される。すると結論として、n が実在するなら、n + 1 も実在することになる。そして0は実在するのだから、数学的帰納法の原理から、全ての有限数が実在することが帰結する。あるいは、m と n が0以外の有限数であるならば、m + n は m とも n とも異なることも証明できる。もし n が任意の有限数であるなら、n は [ n までの] 有限数の[個]数ではない。なぜなら、0から n までの数の[個]数は n + 1 であり、n + 1 は n とは異なるからである。ゆえに、いかなる有限数も、その数までの[個]数ではない。従って、基数の定義3より有限数の[個]数である[有限]数が実在することは明らかであることから、この数 n は無限数である。こうして、論理学の抽象の原理だけから、無限数の実在が厳格に論証された[1]。
 この証明は、純粋数学にとっても適切で厳密な証明である。なぜなら、この証明が扱う実体は純粋数学の領域に属する実体に限られるからである。ある物の観念はその物自体とは異なるという事実に基づく証明は、 [同じ結論が導けるとしても] 純粋数学にとっては不適切である。なぜなら、カイザー教授が指摘するように、その証明は数学的に論証不可能な前提を仮定に置いているからである。しかしそうした証明も、だからといって循環論法や他の誤りを含むわけではない。デデキントが仮定した5つの規約――カイザー教授がp.549で列挙している――を受け入れたとしても、それらのどれ一つとして、実無限を前提しているとは思わない。それらの仮定はいずれも実無限を含意しているのは事実であり[2]、確かにそうすることを目的とした仮定である。しかし、哲学をする際、含意と前提を混同することはあまりに頻繁に犯される間違いである。これをやってしまうと、全ての演繹が循環論法になるだろう。カイザー教授の行った反論の骨子は次のとおりである。「もし結論(無限が実在すること)が正しくないなら、前提のうちの一つが正しくない。ゆえに、前提は結論を要請しており、議論は循環している。」 しかし、全ての正しい演繹では、もし結論が偽であるなら、少なくとも一つの前提が偽である。前提が偽であることは、結論が偽であることを前提とする。しかし決して、前提が真であることは結論が真であることを前提しない。間違いの根幹は、演繹がいとも簡単に導かれる場合、それはまるで前提の一部であるかのように見えてしまう、ということにあると思われる。それゆえ、とても初歩的な議論が、論点先取りのように見えてしまうのである。だがそれは全くの誤りである。
 無限公理についてのカイザー教授の発言で、批判を招くもう一つの点は、その心理学的な形式である。彼はこの公理を次のように述べる(p.551)。「知覚と論理的推論はともに絶対的な確実性を前提とする。その確実性は、心が実行可能な行為は本質的に無限に実行可能であるということである。」 この発言は、本質的にという語によって曖昧になっているが、私としては、推論においてこのような前提は一切ないと、心から期待する。というのも、心が無限に同じ行為を繰り返せないということは、実に確実な経験的事実だからである。人間はいつか死ぬという事実を別にしても、睡眠によって心の活動は中断されるし、酔っ払っているときにはしらふのときと同じ心的行為を行うことはできない。もちろん、本質的という語がそうした事態を除外するための語だということは、私も承知している。しかし、それらの事態を、十分なほど明確に除外するなら、無限公理は非常に複雑で経験的要素に満ち溢れたものになり、それを全ての論理学の基礎として提示するには尋常ならざる勇猛さを必要とするだろう。唯一の逃げ道はその「心」というのは実は「神の心」なんだ、と言うことだけであろう。だが神の実在が全ての論理学に必要な前提だと主張する者は、最近はほとんどいない4
 論理学と数学の全体を通して、真理とは、人間や他の生物の心の実在とは全く無関係なものである。心的過程は論理学を使って研究されるが、しかし、論理学の主題が心的過程を前提としない。論理学における真理は、たとえ心的過程が一つもなくてもやはり真のままである。確かに、そのような場合、私たちは論理学を知ることはありえないだろう。だが私たちの知識と、私たちが知る真理とを混同してはならない。そして論理学の場合、私たちの知識はもちろん心的過程を含むものではあるが、私たちが知ること [=真理] は、心的過程を含まない。真理とその知識が、リンゴとそれを食べることと同様、異なるものだということが認識されるまでは、論理学が他の諸科学の間に正当な位置を獲得することは、決してないであろう。


原註
1 Hibbert Journal, April 1904, pp.549-550 を参照。

2 ここではこの命題の証明は省略する。詳細は、『数学研究』第7号(1901)の私の論文の第4節、および、American Journal of Mathematics, vol. XXIV(1902)のA.N.ホワイトヘッド氏の論文を参照。

3 私の『数学の原理』を参照。

4 私の『ライプニッツの哲学』(ケンブリッジ 1900) 第XV章、特に第111節を参照。


訳註
[1] 後にラッセルはこの証明を誤りとみなすようになります。『数学の原理』第2版序文および「世界には何個のものがあるのか」を参照

[2] 含意については、『数学の原理』第1節第5節を参照。


著:B.ラッセル 1904
訳:ミック
作成日:2004/09/01
最終更新日:2005/12/30
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