註
[1]
ただしこれは、論理主義一般について限界が示された、ということではありません。あくまでラッセルの流儀による論理主義の限界に過ぎません。ラッセルやフレーゲとは異なるやり方でなら論理主義を完遂できる可能性はまだ残っています。そのため、長い間見捨てられてきた論理主義ですが、最近また少しづつ見直されてきています。(参考:三平正明「論理主義の現在」
『論理の哲学』(飯田隆編 講談社、2005))
[2]
ラッセル『数理哲学叙説』(岩波書店, 1974)p.172
[3]
ツェルメロの無限公理は次のようなものです。
次の条件を満たす集合 S が存在する:
Ø ∈ S ∧ ∀x ( x ∈ S → { x } ∈ S)
これは、空集合 Ø から出発して、{ Ø }、 {{ Ø }}、{{{ Ø }}} ・・・・・・と存在者を増やしていき、それら全てを含む集合 S が存在することを述べる命題です。この形の無限公理が採用された体系が
ZF集合論です。
[4]
例えば、三つの有名なバージョンで数「3」を定義してみると、次のように書けます。
フレーゲ=ラッセル流 : { { Ø }, { { Ø } }, { { Ø }, { { Ø } } } }
ツェルメロ流 : {{{ Ø }}}
フォン・ノイマン流 : { Ø, { Ø }, { Ø, { Ø } } }
「三つのうちどれが正しい定義なの?」という疑問が浮かぶかもしれませんが、特にどれが正しいということはありません。定義の仕方はこの3通りに限らず、他にもいくらでもあります。ただ、便利/不便、分かりやすい/分かりにくい、という違いはあって、それに伴って人気のある方法と不人気な方法に分かれます。フレーゲ=ラッセル流は ・・・・・・ どうやらあまり人気はないようです。
後に
ベナセラフは、「数は何でありえないか」(1965)において、集合で数を定義する方法の複数性を突いて、それが正当な定義ではないという説得的な論証を行ないました。つまり、複数ある方法のうち一つだけを取り出す原理的理由がない以上、「数 n = 集合 s 」という定義を認めるなら、
{ Ø, { Ø } } = 2 = {{ Ø }}
∴{ Ø, { Ø } } = {{ Ø }}
となってしまい、矛盾が生じるというのです。彼はこの議論を一般化して、数をどのような種類の対象として定義しようとも同様の矛盾が生じると論じ、「数とは実在的対象ではない」というプラトニズム批判を行ないました。彼が念頭に置いていたのはフレーゲのプラトニズムですが、ラッセルにも同様に当てはまります。
[5]
選択公理は、無限公理に比べればはるかに「自明」な真理と見なされていたのですが、それでも論争になりました。田中尚夫『選択公理と数学――発生と論争、そして確立への道』(遊星社, 1999)を参照。