I | II | III | IV | V | VI | VII | VIII | IX |
I
この本の目的は、様々な見解を明確にし誤解を正す機会を作るために、哲学者と批判者の間で ―― 好意的なものにせよ、そうでないにせよ ―― とにかく議論を始めようというものである。白状してしまうと、このプログラムは、他の多くの哲学者の場合には歓迎すべきものなのだけど、いざこの巻に自分が寄稿するとなるとけっこう難しい。バートランド・ラッセルを他の哲学者と分かつポイントは、彼が自らのアイデアを表明するときに常に持ち合わせいてた明晰性である。従って、さらに明晰に説明することはお呼びでない。それはもっと異なる種類の哲学のためにとっておくべきである。実際、あまりに曖昧な述べ方のために、どんな学派であれ自分好みの見解に合わせて解釈できる哲学も存在する。多くの哲学者が重要なのは、そのアイデアの重要性のためというよりは、アイデアを表明するときの曖昧さのおかげである。私としては、より厳密かつ一貫的に定式化すれば、そんなアイデアの説得力など消えうせてしまうと信じたい。バートランド・ラッセルは、断じてそんなたぐいの哲学者ではない。彼は、哲学者が、明晰性と説得力、綿密な分析と謎めいた信託の言葉を拒否することによって成功しうるという好例を示してくれた。従って、彼の哲学を後世が利用するために、論敵が批判を加えてより啓発的なものにした第2版を用意する必要などほどんどないと思われる。さらに、この文章を書いている筆者がそういう目的に一層不向きな理由がある。それは、筆者が自らをラッセルの論敵とさえ感じておらず、むしろ彼の基本的な見解についてはほとんど同意しており、彼の本を読むと常に得られた導きと啓蒙に深く感謝しているという事実である。そんなわけで、この論文がこの巻の一般的な目標に寄与するためには、別のプランを採用するよう努めねばならない。つまり、ラッセルが現代論理学に対して行なった貢献を要約することである。そうすれば、ラッセル氏は、私が不完全な要約をしたり強調するポイントを間違えたりした場合、都度まちがいを指摘してくれるだろう。それに加えて、氏のアイデアの起源についての質問にも答えてくれれば、現代論理学の歴史について価値ある情報を得られることも期待できる。そしてそれらを終えた最後にも、少なくとも幾つかの論点については、読者にも魅力的な哲学の果実を供せられるぐらいの意見の相違が残っていると考える程度には、私は楽観的である。その果実こそ、哲学的論戦である。II
まず最初に、ラッセルが論理学の分野に足を踏み入れた当時の同分野の歴史に関わる範囲で、状況を概観しておこう。西洋思想を2千年間にわたって支配してきたアリストテレス論理学は、ついに記号論理学によって乗り越えられた。新しい論理学を作ったのは、ブール、ド・モルガン、パース、ペアノ、カントール、フレーゲ、シュレーダーといった人々である。現代論理学の時代を拓いたブールの仕事からは既に50年を経過していたが、重要な一般的認知を勝ち得るほどの新しいアイデアはまだ生まれていなかった。新しいアイデアは、大体どれも数学者グループの私的な産物で、彼らの哲学的バイアスのせいで数理論理学の領域に閉じ込められていた。指導的な哲学者たち、あるいはもっと適切に言うと、哲学の椅子を占有していた連中は、そうした数学者のアイデアには目もくれず、アリストテレス論理学が超克されたことも、数学的記法が論理学を改善できることも信じない有様だった。ラッセルは、28歳のときに上記の人々の著作を読み、1900年にパリの論理学会議に参加した。彼はそこでシュレーダー、ペアノ、クーチュラたちに出会った。数年後、彼は『数学の原理』を執筆し、さらに後にはホワイトヘッドと共著で『プリンキピア・マテマティカ』を著した。この本の出現をもって、現代論理学の第2期が始まったと見なされている。第2期 ―― それは、様々な出発点と論理計算が一つの記号論理学の包括的体系へと統一された時期である。だがなぜこの著作が画期的だったのだろうか?ラッセルの著作が新しい時代の始まりを告げた理由は、幾つかある。まず第一に技術的な理由。旧来の記号体系を超える数々の改善がなされた。そして第二に、彼が数学全体を論理学に含むという主張と記号論理学の創始を結びつけたことである。このアイデアは常に論争の的であったし、論理学者だけでなく数学者をも興奮させてやまなかった。そして第三に、ラッセルが、彼の著作において入念に厳選された表記法を作家としての見事なスタイルと一体化させ、あらゆる陣営の哲学者の注意を記号論理学に向けさせたことである。それによって初めて、記号論理学は一般的に受け入れられたのである。
III
それではこれから、ラッセルが記号論理学に貢献した技術的改善について手短に説明しよう。まず最初に触れなければならないのが、ラッセルが導入した命題関数という概念である。もちろん、文法的な述語をクラスと見なす考えはずっと古いもので、アリストテレスまで遡るし、ブールの論理代数もこれを広汎に応用している。だがラッセルの命題関数という概念は、クラスの概念を関係の概念にまで拡張した。それによって、数学的なアナロジーを日常言語により密接に対応させることができるという利点が得られたのである。この日常言語に対する密接な関係が、ラッセルの論理学が持つ強みの一つである。この強みは、また記述関数の理論にも見られる。ペアノが導入したイオタ記号を使うことで、ラッセルは定冠詞「the」や類似の不変化詞を理解する方法を示してみせた[1]。そしてさらに、ペアノの表記法を、高い完成度を誇る一般的な統語論へ発展させたのである。ラッセルの概念を使うと、驚くほど言語の論理的本性が理解しやすくなる。私も、多くの論理学の授業で、ラッセルの論理学があげる効果を目の当たりにしてきた。記号論理学は、言語構造を明晰化することによって、生徒たちの心の中に眠っていた論理的能力を呼び覚ますのである。
次に取り上げるべきは、ラッセルが実質含意の使用を決意したことである[2]。実質含意は、長い間ややこしい問題をはらむ種類の含意として知られていた。確かに、パースは、セクストス・エンペイリコスを引用しつつ[3]、この実質含意という関係が持つ利点を見抜き、その本性を指摘した最初の人物である1。彼は、この含意の奇妙な結論が決して間違いではありえないことを示して実質含意の使用を正当化した。しかし、この種の命題操作を使うことで論理学の全体系が整合的に展開しうることを発見したのは、ラッセルをもって嚆矢とする。彼は、満足のいく論理学を作るためには、この点において日常言語と [論理学との間の] 意味対応を放棄せねばならないことを理解していた。つまり、彼は初めて意識的に外延的な論理学を作ったのである。ラッセルは「『雪は黒い』は『砂糖は緑色だ』を含意する」のような命題を臆せず使用した。なぜなら彼には、ここで使われる『含意する』という語の意味は明確に定義できて、それゆえ最初は不合理に見えようとも本当は合理的な論理計算を導けるということが分かっていたからである。彼は日常言語によりフィットする概念の構築を極力後回しにしたが、それは、論理学が拡張されれば、もっと複雑な関係を導入することで、論理学の枠内でそれができるかもしれないと期待していたことによる。ラッセルの形式含意は、この道程の足掛かりである。彼は、この一般化された含意にさえ制限をかけることを率直に言明していたが、形式含意の方が普通に含意ということで意味されることとより密接に対応していることを理解していた。この路線の発展は、後に、メタ言語を使うことで適当な含意を定義できるというカルナップの発見に引き継がれ、そしてさらに、私が、トートロジー的な含意からより一般的な、自然法則に対応するような含意が導かれることを示した2。
外延的操作の利点は、トートロジーの概念を定義できることである。トートロジーを真理表に基づいて形式的に定義するアイデアはウィトゲンシュタインのものと見なされてきたが、ラッセルが常にこの事実を明確に理解しており、これを論理式の定義に使っていたということを、私は全く疑っていない。 [トートロジーの] 論理式が表す必然性は、その論理式の構成要素たる命題の真理値が何であろうと真になるという事実から導かれる。論理命題のこのトートロジー的な特徴は、反対にそれが空虚である理由も表している。だから、ラッセルは論理式が何も語らないことをいつも力説していたのだ。同時に彼は、だからといって、この結論から論理学が余計なものになることはないと知っていた。本当は逆で、科学的思考のあらゆる形式において論理学が使われているのは、論理学が空虚であるという事実による。そうでなければ、経験的な仮定に論理式を追加することは許されないであろう。論理的な式変形は、秘密裏にそうした仮定の内容を増やすことなしに、仮定に内在する意味を明らかにしているのである。しかも、トートロジー自体は空虚であるが、ある論理式がトートロジーであるという言明は空虚ではない。そのため、複雑で新しいトートロジーを発見することは、常に論理学者と数学者にとっての課題であり続けるだろう。数学史とは、そうした予期せぬトートロジー的な関係をどんどん明るみに出していくことで、その内容の証明を表すものなのである。
ここで、ラッセルの推論と含意の区別についてコメント加えておきたい。ラッセルが『プリンキピア』を書いた頃は、まだ現在で言う言語のレベルの違い(これについては後で取り上げる)は知られていなかったが、彼は明確に推論と含意は論理的本性を異にするということを見抜いていた。含意は命題同士をつないて一つの新しい命題を作る操作であるが、推論は命題に対して行なわれる手続きを表している。ラッセルは、推論は式の中に述べることはできないと強調したが、推論を下図のように伝統的なスキーマで記号化したため、少し逆説的に見えかねない結果を招いた。
p ⊃ q |
p |
q |
今の私たちは、この正しい形式化は、このスキーマはメタ言語に属すると考えることだと知っている。つまり、推論は対象言語の言明においては与えることができず、メタ言語においてのみ可能なのである。後に与えられることになるこの形式化が、既にラッセル独自の、論理において形式化可能な部分と不可能な部分の区別において予期されていた。本稿のプログラムにはつっこんだ歴史的研究は入っていないので、ラッセルが記号論理学に対してなした技術的貢献については、ごく僅かな卓越したポイントしか触れることができなかった。論理の基礎についてのラッセルの見解についても分析しなければならないのだが、しかしその問題に立ち入るには、その前に論理学と数学の関係についての彼の理論を、まずは概観しておく必要がある。
IV
ラッセルの主張は、論理学と数学が同一であること、もっと正確に言うなら、数学が論理学の一部であることを示したということである。このテーゼの証明は二段階を踏んで行われる。第一段階では、正の整数、つまり自然数の定義を与え、それによって、「すべての」や「存在する」などの演算子を含む純粋に論理的な概念だけで自然数が表現できることを示す。次に第二段階で、他の数学者たちが発展させた理論と対応する形で、数学全体が自然数の概念に還元可能であることを示す。この理論が極めて重要なことは明白である。もしこれが正しければ、数学全体がごく単純な論理的概念だけを含む論理学の言明に還元可能になるのである。複雑な数式をそういう単純な概念に翻訳するのは、人間の技術的能力の限界のため実現できないが、原理的にはそういう翻訳ができるという言明は、驚くほど深遠な論理的洞察を表すものである。数学と論理学をこのように統一することは、ボーアの原子理論による物理学と化学の統一に比せられる。ボーアの場合も、化学反応を陽子や電子だけを含む量子的なプロセスに実際に翻訳することはできないので、その結果は原理的にしか言えない。彼が科学者と哲学者の双方から賞賛を得た理由は、ラッセルの数学の論理的理論と同じで、最終的にはそういう統一があるのだという事実を示したことだった。
さて、私はここで、第二段階についての議論へ踏み込むつもりはない。数学を自然数の理論に還元できることは、大部分の数学者が可能だと認めている。ラッセル自身が与えたこの理論の面白い変奏に、無理数を有理数のクラスとして考えるものがあるが、これの原理全体は、彼が第一段階で行った分析の範囲内から導ける。そこで私たちは、これと関連する抽象の原理について見るとしよう。
では早速、第一段階の検討に踏み込もう。ラッセルの数の定義は、「同数」の概念は数の概念に先行するという事実の発見に基づいている[4]。これは、カントールの集合論において既に予期されていた発見である。カントールの集合の同等性の概念を使って、ラッセルは二つのクラスの要素間に一対一対応がつけられるなら、そのクラスは同じ数を持っていると定義した。例えば、ブラウン、ジョーンズ、ロビンソンから成るクラスを考えると、このクラスは、ミラー、スミス、クラークから成るクラスと同じ数を持つ。なぜなら、この二つのクラスの要素間には一対一対応をつけられるから。ここでラッセルは、ブラウン、ジョーンズ、ロビンソンから成るクラスと同じ数を持つ全てのクラスのクラスを、数3を構成するクラスだと考えた。従って、数はクラスのクラスということになる。
一見すると、とても単純な論理的要素のように見える数という概念を、物理的な事物のクラスのクラス、あるいは全体の全体などという複雑な概念として解釈するのは、奇妙に思われるかもしれない。クラスのクラスは、非常に多くの見知らぬ対象まで含む概念だからである。しかしラッセルは、この定義が数に必要とされる性質をすべて与えることを示した。例えば「この部屋には三つの椅子がある」と言うとき、私たちが言いたいのは、その椅子のクラスと他のクラス、例えばブラウン、ジョーンズ、ロビンソンのクラスの間に一対一対応の関係が存在するということである。この関係は、次のように言うこともできる。もしブラウン、ジョーンズ、ロビンソンが椅子に座れば、余る椅子はなく、かつ全員が椅子に座れる。クラスのこの性質こそ、私たちが「このクラスは数3を持つ」と言うことで表現するものである。そして、ある性質を持っているということは、あるクラスの要素であるということに翻訳可能であるから、この性質はまた、椅子のクラスは、上の定義によって数3と呼ばれるクラスの要素である、という言い方もできる。
この数の定義は、ラッセルによって論理学の画期となった抽象の原理の具体的な応用例である。抽象によって性質を定義することは、普通、関連する対象間の共通性質を抽出する規則として解釈されてきた。ラッセルは、「これこれの諸対象が共有する性質を考えよ」という規則がいかがわしい形式であることを理解していた。彼はこの規則を「相互に所与の関係を持つ全ての対象から成るクラスを考えよ」という規則で置き換えたのである。つまりラッセルの共通性質の定義は、内包的というよりもむしろ外延的である。ここにも外延性の公理が作用していることが見てとれる。ラッセルは外延的な定義以上のものは不要であることを示したのだ。共通性質について言いうることは全て、ある物がそのクラスの要素であるという言明によって置き換えられる。例えば、「緑」が何を意味するかを述べるためには、私たちは緑色の対象を指差して、「もしこれと同じ色を持っているなら、その物は緑色である」と定義すればよい。従って、「緑」という語の意味は、「これと同じ色を持つ物のクラスの要素であれば、その物は緑色である」という言明によって定義可能である。この種の定義に現れている抽象の原理は、オッカムの剃刀の応用であることが分かる。もし私たちが「緑」という語を、定義されたクラスのメンバーシップから区別しようとするなら、それは「不必要な実体の増加」であろう。これと同じ意味で、ラッセルの数の定義は、オッカムの剃刀の標準的な応用例である。
抽象の原理は、問題となっている性質を決定する際に物理的対象を指示する。従って、上のような数の定義は、一種の直示的定義である。例えば私たちは、数3を定義するために、ブラウン、ジョーンズ、ロビンソンのような対象を指し示し、「私たちはこのクラスの数を3と呼ぶ」と言う。ところがラッセルは、直示的ではない数の定義も与えている。そこで私たちは、その定義の本性を分析せねばならない。
数1の論理的定義は、次のような形式になる。
(F ∈ 1) = Df (∃x)(x ∈ F ) (y)[(y ∈ F ) ⊃ (y = x)]
この定義の言わんとするところは、もしクラス F が、F のいかなる要素も F の要素と同一であるような要素を持つならば、クラス F は数1を持つということである。同様にして、クラス F が数3を持つということを、次のように書くことができる。
F ∈ 3 = Df(∃x)(∃y)(∃z) (x ∈ F ) (y ∈ F ) (z ∈ F ) (x ≠ y) (y ≠ z) (x ≠ z) (u)[(u ∈ F ) ⊃ (u = x) ∨ (u = y) ∨ (u = z)]
この定義も、物理的対象を直示的に指示していないので、やはり論理的定義である。確かに、この定義は三つの記号、すなわち存在量化子を含んでいるので、三つの物理的対象を外延的に表している。しかし、この定義はそれらの対象を指示しているわけではない。なぜなら、定義の中に現れる記号について語っていないからである。例えば、私たちが「緑」という語を常に緑色のインクで書いて、「緑とはこの記号の色である」と言うような場合は話が別である。この種の定義は、定義の中に現れる記号の性質を指示しているので、直示的定義になる。
ラッセルの論理的定義の成果を明確に理解するために、彼の数1の定義について考えてみよう。この定義においては、「1」という語の意味は、「性質 F を持つ物が存在する」という術語を含む別の幾つかの術語の意味に還元されている。私たちがこの定義を理解しようとするなら、「性質 F を持つ物が存在する」という文の意味が分からなくてはならない。これはラッセルの意味での原始的術語である。いま、この術語が実際に「1」の意味を含んでいることは明白である。例えば、私たちは、バスケットの中にリンゴが一つしかない場合でも、「バスケットの中にリンゴが一つある」という文が真であることを、間違いなく知っている。やろうと思えば、少なくとも二つの対象が考えられているときにのみ存在言明が真になるように存在量化子を定義することもできる。私たちが存在量化子を適用するときには、これが「存在する」という言葉の普通の意味でないことを知っていなければならない。従って、「少なくとも一つ」という術語の意味は、ラッセルの数1の定義に先立つものである。といっても、循環定義にはなっていない。なぜなら、定義が示すように、数1の意味は、原始的術語のかなり複雑な組み合わせによって与えられるのであり、「少なくとも一つ」はその組み合わせの一構成要素に過ぎないからである。
ここで、ラッセルの自然数の定義を、ペアノの公理的定義と比較してみよう。
ペアノは有名な五つの公理において[5]、自然数の形式的性質を述べた3。彼の公理群は、「最初の数」と「後者(successor)」という二つの未定義概念を含んでいる。ペアノはこれらの公理を使うことで、自然数が何であるかを定義した。彼の定義は再帰的定義であり、従ってこの定義は、もしあるものが二つの基礎的概念から公理が述べる規則に沿う形で導けるなら、それは自然数である、という風にパラフレーズできる。周知のように、ペアノの定義は、実際の自然数によって与えられる定義よりも広い解釈を許す。例えば、後者を適切に定めることで、偶数の全体もペアノの公理を満たす。ゆえに、ペアノが定義した系列(series)には、 [自然数より] もっと一般的な数列(progression)という名前が与えられている。この結果から、全ての公理的定義や暗黙的定義の場合と同様、形式的体系とその解釈を区別しなければならないということが分かる。
このことは、幾何学を例にとると分かりやすいかもしれない。ヒルベルトがやったようなユークリッド幾何学の公理的構築は、基礎概念の全ての内的性質を網羅しているわけではないが、形式的体系を現実に適用するためにはそうした概念の対置的定義で補完する必要がある[6]。例えば、直線を光線、点を物質の微小な部分、合同を固体の振舞いの中に見られる関係として解釈するなどしてヒルベルトの体系に対置的定義を使うと、物理的幾何学が導かれる。この形式的体系は他にも多くの解釈の余地を残すが、他の解釈は私たちが物理的幾何学と呼ぶものを与えないのである。
同様に、自然数列を表すようなペアノ体系の解釈は、数ある解釈のうちのたった一つだけである。ここでも、ペアノ体系に解釈を与えるラッセルの定義が問題になる。ラッセルの定義は、数1と後者関係を定義するために使うことができる(定義を明確にするためには、ここで、ペアノが使った数0ではなく、1を使うのが分かりやすいかもしれない)。後はペアノ公理に任せれば、全ての数がラッセルの意味でクラスのクラスになることが導かれる。こうして得られた体系を、ラッセルの解釈におけるペアノ体系と呼べるだろう。私たちがあらゆる局面で応用できるのは、この体系なのである。
ラッセルは、ペアノの定義と自分の定義を数学的帰納法の原理の議論において結びつける必要があることを認識していた。この原理は再帰の原理とも呼ばれ、有名な n から n + 1 への推論で使われるもので、多くの数学の証明に応用されている。もし数1が特定の性質、例えばある等式を満たすという性質を持ち、かつ、数 n がこの性質を持つならば数 n + 1 もこの性質を持たねばならないことが示された場合、私たちは全ての数がこの性質を持つことが証明されたとみなす。ではこの推論の妥当性はどうすれば知られるだろう? 私たちが実際に行なう推論は有限回のステップに限られており、無限回のステップを踏むことはできない。従って、この意味で帰納法は全ての数に拡張できるわけではない。そのため、ポアンカレなどは数学的帰納法の原理は総合的ア・プリオリな性質を持つと考えていた。この問題に非常に単純な解決を見つけられると見抜いたのが、フレーゲとラッセルだった(二人は独立に解決へ辿り着いた)。その解決とは、この原理は自然数の定義の一部を構成するものと考えなければならない、というものである。帰納の原理によって、ある数列はこの性質を持たない別の数列から区別されるのであり、この性質こそが、ずっとラフな言い方で「全ての要素の数は無限だが、数列の各要素は有限回のステップで到達できる」と言われる特徴を表すものである。
この概念をラッセルの定義に使うためには、帰納法が可能なのはひとえに再帰的定義が持つ、ある特異性のおかげだということを認識する必要がある。ペアノの体系は三つの基本的な概念「最初の数」、「後者」、「自然数」を含んでいる。だが未定義概念なのは最初の二つで、「自然数」はその二つを使って定義される。従って、対置的に定義する必要があるのは最初の二つだけであり、三つ目の概念の解釈は与えられた二つの対置的定義を形式的体系と結びつけることで決定される。言い換えれば、体系に属する物理的対象の全体は、二つの基本的概念を解釈することによって再帰的に定義される。
この点を明らかにするために、有限数に限定した簡単な例を考えてみよう。まずはじめに、一匹のピンク色の羽を持つオスのハエがいるとする(アダムと呼ぼう)。そして、ピンク色の羽を持つハエの子供は父親と同色の羽を持つという一般的な法則があるとしよう。このとき、「アダムから導かれる同色の一族」という術語を次のように定義する。
- アダムはこの一族に属する。
- この一族に属する任意のハエのオスの子供は、父親と同色の羽を持つ。
ラッセルの数の定義によって与えられたペアノの公理の解釈は、妙な特性を持っている。つまり、幾何学を物理的に解釈する場合と違って、ペアノの未定義概念を経験的術語に帰さないのである。私たちがラッセルの数1の論理的定義を使うとき、ペアノの体系には何ら新しい概念は付け加わらない。数1の論理的定義で使われている概念はすべて、ペアノの形式的体系でも同様に使われている。例えば、数列の各要素は一つ、かつただ一つの後者を持つという言明を形式化すると、存在量化子の後に全称量化子と同一性記号を使う数1の定義と同じやり方で書ける。従って、ペアノの体系のラッセル的解釈は、論理的解釈と呼ぶべきものであり、経験的解釈とは区別せねばならない。
このため、ラッセルの数の定義はペアノの体系の解釈ではなく補完と見なすことができる。彼の数1の定義は、簡単にペアノの五つの定義に第6の定義として追加できる。同様に、後者関係の定義も純粋に論理的な方法で表現できるし、それを7番目の公理として追加できる。こうして完全なものとなったペアノの体系では、もはや「最初の数」や「後者」は未定義概念ではなくなる。こうして、ペアノの体系はその暗黙的定義の体系としての特徴を失うのである。最初の五つの定義に使われていたときは、この二つは6番目と7番目の公理で言われていることの省略形として存在していたに過ぎない。それどころか、無限公理以外のペアノの公理を証明することさえ可能である。無限公理は数学全体を展開する前に含意項(implicans)として書かねばならない条件であろうから、数学は究極的には含意の体系として考えられるのだ。
以上より、自然数の論理的定義を与えられるというラッセルの主張は正しいと思われる。また、数学で使われる数1の意味は彼の定義に表現されており、ペアノの五つの公理において暗黙的に定義された術語と見なされている間は、数1は完全には定義されていなかったという主張も正しいと思う。このことは、ペアノの五つの公理が、系列の各要素は一つ、かつただ一つの後者を持つという言明において、ラッセル的な意味での「一」の完全な意味を使っているという事実からも明らかである。この表現の形式化において、ラッセルの「一」の定義で使われている全ての意味が必要とされていることが見て取れる。この結果を使うことで、形式主義者の解釈にはラッセルの数が暗黙的に含まれていると言うことができる。つまり、「一番目の後者」、「二番目の後者」、「十二番目の後者」等々の表記にラッセルの数が現れているのである。形式主義者がペアノの公理を算術に応用するとき、彼らが使っているのは未定義の要素ではなく、こうした後続数である。ラッセルが言っていることはただ、これらの数は体系の未定義要素の解釈のために使われるべきだ、ということである。これを拒否することは、ただの逃げ口上であろう。
ここで、物理学に算術概念を応用することに関して一言付け加えておきたい。形式主義者には、この応用を、経験的な対置的定義に基づく幾何学の応用と同じタイプのものだと見なす傾向がある。最初にこの概念を打ち出した人物はヘルムホルツである4。彼は、例えば加算の概念は様々な物理的演算によって現実化することができると説明する。ただし私たちは、その演算が本当に加算が満たすべき性質を備えているか否かをチェックしなければならない。例えば、リンゴが一つも入っていないバッグをリンゴの入っているバスケットに加える場合、この演算は算術の加算の特徴を持っている[7]。逆に水素分子と酸素分子を高温で混ぜ合わせる演算は、加算の性質を持たない。なぜなら、これらの分子は原子に分解して水分子として結合するので、水素分子と酸素分子の和が水分子の数にならないからである。この概念は、算術の基本要素に関する経験的な対置的定義は不要であるという、算術の論理的解釈と矛盾するような印象を受ける。
私が思うに、この矛盾は次のようにして取り除ける。私たちはしばしば、経験的なタイプの対置的定義を使うことでヘルムホルツの意味での算術を応用している。しかしそれ以外に、ラッセルの意味での純粋に論理的な応用も存在する。それは、算術の演算子が対象の物理的変化に関わらない場合にのみ与えられる。例えば、7個のリンゴに5個のリンゴをラッセルの意味で加えることは、5個のリンゴのクラスと7個のリンゴのクラスがそれぞれ個別的に存在する限りにおいて、この二つのクラスは12個のリンゴを含む一つのクラスとして考えられる。ラッセルの加算の概念は、結合されたクラスが物理的プロセス ―― 例えば、先の二つのクラスが与えられたときに、リンゴを一つの同じバッグに入れるというような ―― の結果であるときに有効か否かを述べるものではない。そういうプロセスにおいても算術的加算について語りうると言うのは、ヘルムホルツの方である。その場合、私たちは算術的加算の記号を論理的には未解釈のまま残し、代わりに経験的なタイプの対置的定義を使うことで加算を解釈している。数演算の論理的定義は、物理的変化が伴わない限定的なケースの経験的定義として見なすことが可能なのである。論理的定義は物理的な仮定に依存しない。なぜならその応用は、演繹論理学の全ての言明がそうであるように、空虚だからである[8]。ゆえにそれが導くのは言明の論理的変換に過ぎない。算術の実用的価値は経験的なタイプの対置的定義との頻繁な結びつきから得られるのは事実だが、しかし、純粋に論理的な数の定義がなければ、そのような定義は役に立たないことも確かであろう。上記のような場合、私たちは、経験的に定義された加算は論理的に定義された加算と同じ結果を導くと言う。もし数が論理的定義が与える意味で使用されていなければ、算術を物理的演算に応用することはできないだろう。この事実を指摘したことが、ラッセルの論理学が持つ歴史的意義である。
V
さて、そろそろラッセルのタイプ理論を論じなければならない。自らを含まないクラスのクラスについての二律背反を発見した後[9]、ラッセルは関数の関数、またはクラスのクラスのあまりに無制限な使用は矛盾に行き着くことを悟った。そこで使用を制限するために導入されたのが、タイプの規則である。この理論の基本的なアイデアは、言語表現を真と偽に分類するだけでは不十分で、無意味(meaningless)という第三のカテゴリーを導入せねばならないという点にある[10]。私が思うに、この洞察は現代論理学の最も深遠で透徹した発見の一つである。その内容は、言語を使い物になる体系にするためには、構文的規則の集合 ―― 今ではカルナップが生成規則(formation rule)と呼んでいるもの ―― を明示的に述べる必要があるということであり、作られる言語を矛盾から解放するのはその規則を構築するための行動指針である、というものである。ある表現が「本当に」有意味であるか否かを問う必要はない。ある種の表現が矛盾を導いたなら、それで意味欠如の十分条件になる。私は常にタイプ理論をこの観点から把握している。タイプ理論とはつまるところ、言語を整合的に保つための道具である。以上がこの理論の正当化であり、これ以上のものはありえない。
ラッセルは、タイプ理論を発展させる過程で、分岐タイプ理論に加えて単純タイプ理論という第二の形式を導入した。単純タイプ理論の内容は、関数はその変項より高次のタイプであるというもので、このことから自分自身を含むクラスは定義できなくなる。この単純な規則はほとんどの論理学者が賛同していて、また現在のことろ、より若い世代の論理学者もこれをごく自然なものと感じており、ほとんど自明の規則と見なすようになっている。偉大な発見の運命とは皆そういうもので、最初に発表されたときは人工的で洗練されていると感じられたのが、時が経つにつれ、なぜ最初からそれが分からなかったのか誰にも想像がつかなくなる。「真理が勝利を得るのは、パラドックスとして非難されるか、瑣末なこととして軽視される無限に長い二つの期間に挟まれた、ほんの束の間だけである」 ―― そんなことを言ったのはショーペンハウアーだったが。
反対に、分岐タイプ理論は論理学者の側から強い反感をもって迎えられた[11]。この理論に従えば、全てのタイプは異なるオーダーの関数へと分割され、しかも各オーダーはその変項よりも低いオーダーしか含むことが許されない。ラッセルは、この制限によって数学の大部分が排除されてしまうことを理解していた。そういう数学の定理を救うために彼が導入したのが、高階の全ての関数について、それと外延的に同値になる一階の関数が存在するという還元公理である。ツェルメロの選択公理みたいなものだというのが、ラッセルが還元公理を擁護する論法だったが、それでも彼自身、この公理に心から満足していたわけではないようである。
そうこうするうちに、ラムゼイがパラドックスを論理的なものと意味論的なものに分類したことに付随して ―― この分類の仕事はカルナップとタルスキが引き継いだ ――、[ラッセルのパラドックスに対する] もっと簡便な解決が与えられた。論理的パラドックスの場合、関係するのは関数だけだが、意味論的パラドックスの場合は、関数自身に加えて関数の名前の使用が関係している。例えば、「全てのクレタ人は嘘つきだ」と言うクレタ人のパラドックス。論理的分析のためには、この昔から有名なパラドックスを「この言明は偽である」という形式に単純化すると分かりやすい。すると、「この」という語はそれが現れる文を指示している。分岐タイプ理論を導入する必要が生じるのはこの種のパラドックスだけで、論理的パラドックスの解決には単純タイプ理論で十分である。今では、タイプ理論に加えて言語レベルの理論を導入することで意味論的パラドックスを回避できることが知られている。この理論によれば、対象言語はメタ言語と区別され、その区別はメタ言語とメタ-メタ言語との間にも行なわれる。後はこの繰り返しである。幾つかの例外を別にすれば、一般的に自らへの指示を含む言語表現は無意味と考えられる。タイプ理論から言語レベルの理論への拡張は、ラッセル自身が既にウィトゲンシュタインの『論考』の序文において予期していたことでもあった。彼は、一般性の問題に言及しつつこう述べている5。
これらの難点を見ていると、私には、次のような可能性はないものだろうかという気がします。それは、ウィトゲンシュタイン氏が言うように、あらゆる言語は当の言語では語ることのできない構造を持つが、しかし第一言語を扱う第二の言語がありえて、しかもそれ自身新たな構造を持つ。そしてこの言語の階層が無制限に重なっていくという可能性です。
VI
さて今度は論理学の基礎についての問題を論じよう。その問題こそ、私がラッセルの論理学を研究していたときに度々心に浮かんだものだった。ラッセルは、論理学は純粋に形式的なものではないことを強調してきた。つまり、論理学には、形式的演算に入る前に意味を理解する必要のある原始的術語が含まれるということである。彼がリストアップした術語の中には、命題演算子や存在量化子(またはその代わりの全称量化子)が含まれている。同様に、論理学の公理のいくつかも、必然的真理と見なされなければならない。他の論理式を公理から形式的に導けるのはその後である。確かに、実体的思考(material thinking)を対象言語から除去し、論理的必然性を論理式の形式的性質 ―― つまり構成要素である命題の全ての真理値について真であるという性質 ―― として定義できることが、後の分析によって示されている。とはいえ、この形式化の結果を過大評価するべきではない。結局、形式化を実行するときには、メタ言語における実体的思考を抜きにはできないからである。従って、ラッセルが正当化されるのは、原始的概念と命題が少なくとも一つの言語レベルにおいて必然的であり続ける場合である。それらをメタ言語から除去することもできるが、どうせメタ-メタ言語で再出現することになる。例えば、真理表はメタ言語に属するが、これを作るときに、私たちは二つの要素命題は「真-真」、「真-偽」、「偽-真」、「偽-偽」という四つの組み合わせだけが可能であることを当然だと考える。要するにこれは、対象言語の中で形式的に証明されたのと同じ種類のトートロジーを、メタ言語において適用しているのである。
実際のところ、自明な命令に従うべきであることは不可避のように思われる。といっても、論理学にアプリオリズムを持ち込もうというわけではない。私たちが論理的言明を自明なものとして使うとき、その言明は常に明証的に見えると主張するのではない。もし明日、自分が間違っていたと気づけば、言明を修正して、新しい明証性に従う用意がある。そのときにも、新しい言明について永遠の妥当性を主張したりはしないだろう。私が見るところ、この意味において、私が帰納的推論の分析のために導入した措定の概念は演繹論理学にも適用できる。確かに、私たちが帰納的措定を行うとき、それが間違いであると想像することは十分可能である。しかし一方、論理的トートロジーを述べるときには、私たちはその論理式が偽だとは想像できない。ところが、明日トートロジーが偽になると言うことは想像できるのである。措定という手続きは、ここではメタ言語に属する。「p ∨ not-p」という論理式はトートロジーだが、これがトートロジーであると言うことはトートロジーではない。それは、視覚に与えられた一群の記号に関する経験的言明である7。従って、トートロジーという特徴についての言明は、経験的言明の信頼性しか持たない。すなわち、そういう言明は措定することしかできないのである。
私は、この措定という概念はラッセルの見解とも合致すると信じている。彼がこれを自明性の問題に対する満足のいく解決と考えるかどうか、聞いてみたいものだ。任意の自明な言明について私たちが見解を修正するとすれば、その選択肢は二種類がありえる。まず第一に、思考を制御しそこなったという意味での誤謬の可能性は、常に予想しておく必要がある。例えば足し算を間違えたり、論理的誤りを犯すのはこの種の誤謬である。二番目の誤謬は、もっと根が深い。それは、私たちが行なう言明がある条件下でのみ真になる、つまり言明の真理性が、明言されていないが一度述べてしまえば捨てられる仮定に依存していることを見落とす間違いである。私たちはその仮定を述べることで一般化へ到達し、以前に述べられていた言明は、一般言明の特殊例として見なされるようになる。自明というのはその特殊例において自明だったのであって、その用法の外側では端的に偽である。
こういう種類の仮定の一例は、排中律に見ることができよう。この原理は長らく論理学の大黒柱の一つだと考えられてきた。伝統的論理学でも、ラッセルの論理学でもそうである。だが現代論理学の進展によって、この原理を捨てられることが分かった。「p」または「not-p」が真であるということは、2値論理でしか成り立たない。代わりに3値論理を採用すれば、この原理は偽となる。従って、無条件の妥当性は条件付きの妥当性に取って代わられなければならない。排中律は命題の本性についての特定の仮定のもとでのみ妥当になるのである。
命題の分類方法は色々ありうる。慣習的には真な命題と偽な命題の二つに分類する。このときは、排中律は自明になる。しかし、命題を二つのカテゴリーに分類しなければならないと主張することはできない。それゆえ、排中律の必然性は相対的なものであり、2分法に対しては必然的というだけである。他方、この命題の分類は一種の規約的な性格を持つので、これが偽であると証明することはできないが、別の規約、すなわち3分法で置き換えることはできる。どんな種類の分類を使うべきかは、その分類が目指す目的による。もし2分法が人間の行動に不可欠なものをを満たす知識体系を導くならば、適切な分類だと考えられるだろう。私たちが日常言語と古典科学において2値論理を採用するのは、この理由による。しかし、特定の目的のために2分法が不適切に感じられることもあるかもしれない。その場合は、命題を三つのカテゴリーに分類することが好ましいであろう。そのとき、私たちは躊躇なく3値論理を採用し、排中律を捨て去るであろう。
どういう命題の分類方法が有用かを決める根拠は、その分類が使われる目的と目的を遂行する手段に依存する。「それ自身における真理」だとか「それ自身における虚偽」がプラトンのイデアよろしく存在すると言うことは、現実の知識化の過程とは何ら関係のない方法に属する。私たちはこの種の真理値を使うことは許されない。現実の知識における真理という概念は、現実に実行可能なことと関係を持つように定義される。私たちは、真理を見つける方法を持っているのだ。もしそういう方法が存在しないなら、真な命題について語ることは何の役にも立つまい。これは、私たちが常にそうした方法を適用できるという意味ではない。そこには技術的な限界は当然あるのだが、原理的にはそういう方法が与えられねばならない、ということである。さもなければ、真理概念は空中楼閣になってしまう。
以上の考察から分かることは、私たちが日常言語において真理について語るとき、実際に意味しているのは検証可能性だということである。ラッセルは、言語を検証可能な言明に制限することは、私たちが普段有意味と見なしている多くの言明を有意味性の領域から締め出すことになるだろうと言って反対する。しかし私は、真理を検証可能性で置き換える理論がそのような帰結をもたらすとは思わない。検証可能性の概念を十分に広い意味で定義すれば、「西暦1年の1月1日、マンハッタン島では雪が降った」のような、ラッセルが真または偽な命題と見なしたかった全ての言明を含められるだろう8。この目的は、「可能性」という術語を「検証可能性」という表現の範囲内で使うよう適切に定義すれば達成できる。確かに、ある文が実際に検証可能であるときに限って真であると要請するならば、真という語の意味をあまりに狭めてしまうだろう。実際、ラッセルの挙げるような例文の真理性は知りうることである。だが、「真」をもっと広い意味で定義すれば、文が特定の条件 ―― すなわち検証 ―― を満たすことを示せば、その文は真になる。同様に、文がそうした条件を満たさないことが示せれば、その文は偽となる。
それでは、「あらゆる文が真か偽になることを示すことは可能か?」と問うことはできるだろうか。さすがに、証明なしにこんな遠大な言明を主張する勇気のある論理学者はいまい。
この種の議論が最初に使われたのは、ブラウワーの数学的方法に対する有名な批判においてだった。彼の3値論理は数学への応用のため少し複雑である[12]。数学は完全な演繹科学なので、その真理性は論理的方法だけによって決定され、観察には訴えない。数式が真か否かを決定する唯一の方法は、それを公理から導くことであり、その場合、公理が真であることは自明とみなされている。では、構文的に正しい数式が与えられたとき、その数式またはその否定を公理から導くことは原理的に可能だろうか? ブラウワーが投じたのはそういう疑問である。彼はこれを解答不可能な問いだと考え、数学的言明を真、偽、非決定の三つのカテゴリーに分類すべしと主張した。もし彼の問いに肯定的に答えられるなら、ブラウワーの3分法は不要になる。だが私たちはみな、これまでのところそんな証明は与えられていないことを知っている。ゲーデルの定理によって、数学の証明可能性に特定の制限を行なうならば[13]、確かに「決定不可能」な式が存在することが示されている。だがゲーデルはまた、そうした式の真偽はメタ言語を使うことによって知りうることも証明している。よって、論争は収束していない。
ラッセルは、真理性を検証可能性から区別することによってこうした問題に答えようとした。彼は、私たちが真理を発見することができるか否かとは独立に、文は真か真でないかという原理 [=排中律] を主張するべきだと考えた。だが私には、この原理が規約以外の何を意味しうるかわからない。もし真理性を発見する方法が与えられていないのなら、私たちに出来ることはせいぜい、「p ∨ not-p」は全ての種類の言明について成立してほしい、と言うことぐらいである。しかし、数学のような純粋な演繹科学のためにこの規約を作るにしても、整合性の問題が生じる。もし仮に排中律を仮定しても矛盾を導かないと証明できたなら、それは許容できる規約だということもできよう。しかし、ヒルベルトと彼の仲間たちは、この方向で大きな進歩を成し遂げたにも関わらず、いまだその証明を与えられていない。
経験科学については、また状況が異なる。経験科学では、少なくとも直接的に観察可能でない物理的対象が関与する場合は、検証方法が観察に大きく依存するからである。従って、検証方法に関する適切な規約を導入することで、排中律の仮定と検証可能性の原理を結びつけられる。だがそれをするときは、経験言語についての別の問題が生じるかもしれない。それは、演繹科学のときに問題となった整合性の問題とも関係する問題、すなわち、果たして2値言語の使用が経験科学で普通支持されている基礎的な原理と両立しうるだろうか、という問題である。
この種のケースは、最近の物理学、つまり量子力学の発展の中で浮上してきた。量子力学では、観察不可能な実体の値を決定する規則を導入するか否かが問題になる。つまり、量子の領域に2値論理を導入してよいか否か、ということである。現在の量子力学の成果によれば、私たちが2値論理のやり方で物理学の言語を作った場合、因果性の仮定を満たせなくなる解釈が可能になる。因果関係を確率関係に拡張することを認めたとしても、である。これは、因果性の原理を破ることとは異なる。それは距離をおいた活動の現れに関わることだからだ。これに対して、量子力学の言明を3値論理に組み込めば、因果性の例外が解消されることを示せる。真な言明と偽な言明の中間に非決定な言明を導入し、量子力学の任意の言明が三つのカテゴリーのうちの一つに分類されるように、経験的観察から言明の真理値を導く方法を作るのである10。
この状況は物理幾何学における問題の展開と非常によく似ている。かつて、ユークリッド幾何学のほかに幾つかの異なる幾何学体系が構築可能であることが示された後、ではどの幾何学が物理世界に適用できるのか、という疑問が生じた。これに答えるためには、規約を基礎とするしかなかった。しかも、そうした規約のうちのあるものは、物理世界の記述に使うと因果的例外をもたらすことが判明したのである。例えば、アインシュタインの一般相対性理論は、ユークリッド幾何学を物理宇宙の記述に使うと因果的例外を導く。この理由によって、ユークリッド幾何学が放棄され、代わりにリーマン幾何学が採用された11。これと同様に、私たちは様々な論理体系の間に区別を付けなければならない。そして、どの論理体系を採用するかという問題を、それによって得られる物理体系の種類によって判断しなければならない。
私には、排中律という概念が困難をもたらす理由は分からない。だから、ラッセルの排中律の支持も理解できなくもない12。ただ私は、彼が排中律をア・プリオリな法則と考えているのか、それとも、この法則を支持する別の理由を持っているのかが分からない。この点について、是非ラッセル教授の意見をお聞きしたいものである。
排中律の優位性を擁護する議論として、一つ考えられそうなものを示そう。ブラウワー、ポスト、ウカシェヴィッツ、タルスキによって導入された3値論理(量子力学の3値論理も含む)は、メタ言語においては2値論理と調和するように構築されている。例えば、そうしたタイプの3値論理のメタ言語において、私たちは「命題は真か真でないか、どちらかだ」と言うことができる。しかも、その場合の「ではない (not)」は、通常の意味と同じ使い方である[14]。「真でない」というカテゴリーは、さらに「非決定」と「偽」の二つに分割されるが、それはメタ言語にとって何の問題にもならない。ちょうど日常言語において、例えば軍隊を陸、空、海の三つに分割することが何の問題にもならないのと同様である。2値論理をこういうふうに使うことで、多値論理の体系がとても簡単で扱いやすいものになる。とはいえ、いつでも2値論理的なメタ言語を使う必要があるとは思わない。例えば、私は別の場所で、メタ言語の無限系列の中で多値言語を応用する例を与えている13。確かに、その定理を述べるときに使うメタ言語は2値的だし、そのメタ言語は定理が言及する加算無限個のメタ言語の中には含まれていない。しかし、どのレベルの2値言語でも多値言語に翻訳できる方法は定義可能に違いない。そうすると、この方法はその定理を述べる言語に対しても適用可能であろう。
私たちが2値論理を好む理由は、心理的なものしか無いのではないだろうか。2値論理の本性はとても単純なので、命題を分類する際に他の規約よりも好ましく感じるのだ。しかしながら、よくよく考察してみると、上で見たような全てのケースで2値論理として使われているのは、実は厳密な2値論理ではなく、むしろ私が別の場所で述べた分類方法によって確率論理から導かれたものにほかならない14。その論理は普通の規則を満たすのだが、幾つかの例外も存在する。例えば、「p」が真かつ「q」が真なのに、「p かつ q」が偽になることがある。この食い違いは、2値論理を確率論理で置き換えることで排除できる。それでも、メタ言語の論理は再び近似的な2値論理になるだろうが、その近似はより精度が高くなっており、例外の数は減るだろう。後は、このプロセスを繰り返すことができる。従って、2値論理を多値論理で置き換え、2値論理をより高いレベル [の言語] で使うことは、より精度の高い近似へと進む方法を表現しているに過ぎない。だが、厳密な2値論理が使われることは、恐らくないであろう。
VII
ラッセルの論理学は演繹論理学である。ラッセルがそれ以外の論理学を意図したことはない。従ってその価値は、彼の論理学が思考の分析的ないしは論証的な部分についての分析であるという事実に求められる。だがラッセルはしばしば、思考には帰納的方法を含む総合的な性格を持つ、もう一つの部分があることも認めている。思うに、自分の仕事の大半を演繹論理学に捧げ、科学に新しい基礎を与えた人物 ―― その現代的な形式は永遠に彼の名前と結びつくであろう ―― が、演繹的演算が人間の認識的思考の全体をカバーするとは一度たりとも主張しなかったということに、私たちは感謝すべきである。ラッセルは帰納的方法の必要性を繰り返し力説し、またその方法が持つ特有の難しさを認識していた。例えば彼は、認識プロセスは演繹的演算の観点から完全に解釈できると言って帰納論理の存在を否定する論理学者とは一線を画すことを明言している。実際、人間の知識には予言が含まれるのに、いかなる演繹も過去の経験から未来の観察へ橋渡しできないという事実を前にして、どうしたらそんな主張ができるのか理解に苦しむ。帰納的推論の分析を欠いた論理は、いつまでたっても不完全なままである。
それはともかく、一人が引き受ける仕事のフィールドを思考の一つの働きに限定して、残りの働きの分析は他の人々に任せるというのは、ごくまっとうな研究の仕方ではある。だが私は、そのことを承知の上で、あえてラッセル教授に別のフィールドについての個人的な意見を伺ってみたい。彼の著書には、ときどき帰納についてのとても面白い見解 ―― 例えば帰納的推論についてのよくある誤解のうまい風刺 ―― が記されている。それは、ある種の論理学者が次のような [推論の] 形式と考えるものだ。「p は q を含意する。いま私たちは q を知っている。ゆえに p。」 ラッセルはこの推論を次のような例で示している15。「もし豚が羽を持つなら、羽を持つ動物の中には食べられるものがいる。いま、羽を持つ動物の中には食べられるものがいる。ゆえに豚は羽を持つ。」 私としては、この結論を「p は蓋然的だ(p is probable)」という形式で述べたとしても、この種の推論が改善されるとは思えない、と付言しておこう。豚が羽を持つことが蓋然的とは、私には思えない。本当は、確率の計算はこんな推論にはならない。それなのに、どんな数学者も認めようとしない推論を、なぜ一部の論理学者は科学的方法の中に組み入れようとするのか、理解に苦しむ。同様に私は、帰納の論理を確証による推論と名づけたとしても、やはり推論が改善されるとは思わない。
私の考えでは、帰納という問題の分析は、伝統的な帰納理論で常に重視されていた帰納的推論にこだわらねばならない。それは枚挙による推論である。あらゆる種類の帰納的方法(いわゆる確証による推論も含む)は、究極的にはこの種の推論に還元可能であることが示せる。より厳密に言うと、枚挙による帰納的推論に加えてそうした方法を含むものが、演繹論理に属することが証明できる。このことは確率の計算を公理的に構築することで示せる16。ラッセルもこの主張に賛同してくれると信じたい。
枚挙による帰納の分析についての議論は、伝統的にデイヴィッド・ヒュームからの批判に大きな影響を受けている。私は、帰納的推論の結論が真であることは決して証明できないというヒュームの証明は、疑問の余地なく決定的だと考える。だが、慣習化しているヒューム的な帰納の解釈をしていては、困難からの抜け道を示すことはできないだろう。ラッセルはときどき、ヒュームに倣って帰納的推論は認識の方法であり、私たちは信念の原因 (cause)を信念の根拠 (gronud)に変えていると述べている17。もしこれが帰納の問題に与えうる唯一の解答だとすれば、私たちは率直に、現代論理学は科学的方法を説明できないと認めねばならない。
ところでヒュームは、あらゆる意味での合理主義に対して手堅い論駁を加えてくれたのは良いのだが、同時に後世の帰納の哲学に深刻な偏向をもたらしている。経験主義陣営でさえ、知識として主張されるものは真であることが証明されねばならないというヒュームの暗黙の前提を克服していない。だがこの仮定を放棄すればすぐに、帰納の正当化にまつわる困難は消えてなくなるのだ。私は、少なくとも帰納的結論が蓋然的であることは論証できる、と言いたいのではない。確率理論の分析が示すのは、そのような証明さえ与えられないということである。しかし、知識を確定的な真理値ないしは確率値を持つ命題の体系としてではなく、未来を予言する道具としての措定の体系として見なすことで、ヒュームの懐疑論からの脱出口を見つけることができる。従って、帰納的推論が正当な道具であるか否かという問題には、帰納的推論を使わない考察によって肯定的に答えることができる。ゆえに循環論法にはならない。
VIII
確率値を個々の命題に結びつけられるということが全体的に措定されるのは、知識体系の枠組み内においてのみである。この場合、現実に確率が真理に取って代わる局面は、いかなる経験的な文も真であると知ることができず、ただ蓋然性の程度の違いしか決定できない場合に限られる。ラッセルは、確率のこういう使い方は真理概念を排除するものではないと論じている。彼は、知識の確率理論においてさえ、あらゆる文は真か偽だと考えるべきで、確率の度合いが指示するのは命題が真である度合いだと反論している18。だが私は真理概念は不要だと思う。「p」という文と「pは真である」という文は等価(equipolent)であり、それゆえ当然、同じ確率の度合いを両者に割り当てることも許される。しかし、「pは真である」を使うのは無駄に複雑なだけで、直接「p」は蓋然的だと言う方が簡単である。確率をこのように意味論的に解釈することで、整合的な体系が作られる19。
さて、そうすると、真理という概念は全く余計なものなのか、という疑問が浮かぶかもしれない。ラッセルは、そうではないと言いたげだ。もし一つの箇所から真理概念を除去しても、知識体系の別の箇所に再出現するであろう、と。私の考えでは、これは第VI節の議論へと後戻りすることになる。もし確率論理を対象言語に対して使えば、その言語において真理概念を除去できることに疑いはない。唯一問うことのできる問いは、その概念がメタ言語において再出現するか否かである。私が見るところ、メタ言語の準-2値的な性格について私が述べたことは、対象言語を3値体系、あるいは確率論理の規則に従う体系として考えられるかという問いにも、同様に該当する。実際、日常言語で真理と呼ばれているものは、結局のところ、高い度合いの蓋然性でしかなかったのである。例えば、宣誓をした後に述べられる言明の真理は、高い度合いを持つ確率以外の何物でもない。真理とは、ただ理想化された論理体系でのみ使うことのできる概念であって、実際のあらゆる適用場面では、ある程度まで真理の諸性質を共有する代替物によって代替されるのである。
おそらくこの結論は、基礎言明の問題についても当てはまる。ラッセルの哲学の注目すべき特徴は、彼が基礎言明の経験的本性に非常に大きな重要性を与えていることであろう。彼は、科学的方法の説明から観察の概念を完全に排除しようと試みているらしい論者たちとの議論において、科学が観察に基礎を置くことの必要性を強調している。そこでのラッセルは、経験科学の方法をカバーすると主張しながら、その実、合理主義の現代版にそっくりなだけの論理体系に反対する経験主義の伝統を体現する人物だ。しかし、その一般的な議論を考慮してもなお、ラッセルが近著で述べている基礎言明の理論には、幾つかの反論を提起せねばならない20。
私が見るところ、直接観察を感覚与件に還元しようとするラッセルの試みは、絶対確実な知識の基礎を見つけたいという欲求から生じている。ただ、彼が感覚与件言明は絶対確実だと言いたいのか、それともそれらが単に高い度合いの確実性を保持できると言いたいのかは、よく分からない。それでも、後の観察によって揺るぐことのない基礎言明の体系を構築したがっていることは明らかであろう21。さていま、基礎言明は論理的に独立であるというラッセルの見解に異論のある人はいないと思う。これは、基礎言明は互いに論理的に矛盾するような形で定式化してはならないということである。しかし私に理解できないのは、帰納的方法が許されるときに、どうすればそのような独立性を維持できるのか、という点である。
ラッセルによれば、基礎言明は空虚ではありえない。もし空虚ならその総和もまた空虚であり、それゆえいかなる総合的知識もそこから導けないからである22。これは健全な議論だと思う。だが私は、これを裏返しに使ってみたい。つまりこうである。もし帰納的方法を使うことで基礎言明が未来の観察を予言するならば、反対に、それで得られた観察もまた元の言明を多少なりとも確実にするだろう、と。帰納的方法は常に両方向に作用する。ベイズの法則が述べるのは、一方向に通用する確率による推論は、逆向きの確率にも変換できるということである[14]。それゆえ、もし帰納的方法を用いた基礎観察から導いて知識体系を構築する場合、その体系においては、個々の観察の妥当性をテストするために、観察の総体を使うことも許されるであろう。
ひとたびこの点を認識すれば、単純な物理的観察の言明とは異なる基礎言明を探す必要はなくなる。つまり、もはや感覚与件は観察の直接対象とは見なされない。信頼性の低い言明の集合も、観察的な種類のものであれば、すなわち具体的な物理的対象についての報告であれば、使い物になる。そういう基礎言明が十分に優先的な重要性を持つなら ―― つまり、それらが少なくとも真理の近似的な意味において、主観的に真であれば ―― 知識の構築に使うことができる。そうして得られた知識の総体としての蓋然性は、個々の基礎言明の蓋然性よりもずっと大きくなりうる。そのような可能性が確率的方法を使うことで与えられるということは、観察の集合についての意味の平均的誤謬がその集合の個々の観察の誤謬よりも小さいという事実によって例証できるかもしれない。知識の確率理論の利点はまさに、絶対確実な与件の基礎を探す必要性から私たちを解放してくれる点にある。
IX
本稿では、ラッセルの論理学の主要な成果について概説し、さらに幾つかの論点について批判を加えることも試みてきた。しかし、ラッセルの論理学にとって、私の批判が関係するのは些細なポイントだけであると思う。彼の論理学は批判を恐れる必要などないのである。さて、ラッセルの論理的仕事が哲学者の最近の世代に与えている影響についても付言しておかなければ、本稿も不完全のそしりを免れまい。ラッセルが『プリンキピア』を書いた当時の哲学論文の一般的なレベルと今日のそれを比較してみると、隔世の感がある。数学的論理学の研究は、40年前にはほとんど散発的にしか行なわれておらず、読者層も少数の専門家集団に限られていた。それが今では、哲学的な出版物の大きな部分を占めるようになっている。比較的若い世代の論理学者の一派においては、ラッセルの著書の研究から刺激を受け、ラッセルの方法論を当初の目的を超えて引き継ぐことによって、自らの仕事を発展させてきた部分が大きい。今日、ラッセルの記号法についての知識は、アカデミックな論理学の試験に通るための必要条件であり、ラッセルの数学理論とタイプ理論についての議論は哲学セミナーの主眼である。ラッセルの方法論は、若い世代が哲学という土壌を掘り返すための道具となったのである。今日の論理学と認識論はラッセルの貢献なくしては考えられない。部分的には彼に反対し、別の解決を模索している人々でさえ、彼の仕事を吸収しているぐらいだ。
だがこの状況を見て、数学的論理学とその方法を使えばいつでも深遠さへ到達できると信じるのなら、それはあまりに楽観的な解釈であろう。何十年か前、私たちは ―― この「私たち」の中にラッセルも含めてかまわないと思うが ―― いつの日か数学的論理学が一般的な哲学教育の一環に取り入れられれば、曖昧な議論と固陋な哲学体系を終わらせられる日が来ると期待していた。今は、この信念が間違った推論に基づいていたと認めざるをえない。記号論理学についての知識が思考の厳密さや分析の真剣さを保証するものではないということを、いまの私たちは知っている。
このことは、特にラッセルの最近の著作に対する幾つかの批判に示されている。私は何も、ラッセルの見解を批判することが悪いと言いたいのではない。ただ、そういう批判はラッセルの思考を特徴づけるのと同じ真剣さを負うべきだと思うのだ。ラッセルを批判するなら、まず第一に彼の概念の背後に控える主要な問題を理解しようと努めるべきである。ラッセルから論理学を学んだ批判者が、行間に好意的な謙遜を漂わせながら、彼の最近の著作は全く時代遅れだとほのめかすのは、見ていて気持ちのいいものではない。もしかしたら読者の中には、メタ言語のボキャブラリーを使っても、それが論理的分析を進展させたことの十分な試金石にはならないという発見に誘導される者もいるかもしれない。もしそうした [言語とメタ言語の] 区別が、考察の対象となっている問題と無関係だとすれば、そんな瑣末な区別を行なうことの有用性は何であろうか? それは見当違いの厳密さ(misplaced exactness)という誤謬の一例である。大事を見逃して小事にこだわるというやつだ。真に哲学的な態度というのは、目的と手段のバランスをとる能力、つまり、自らが引き受けた一般的問題に技術的研究を従属させる能力に現れる。
このバランスの取り方は、ほかならぬラッセル当人から学ぶことができる。『プリンキピア』で彼が成した膨大な技術的仕事は、論理学と数学の統一という重大な哲学上の目的を追求する中で行なわれた。ラッセルの仕事は、論理的分析が重大な哲学的問題を解決するための道具となりうることを証明したのだ。論理的な記号法の提示そのものが哲学の目標ではないことを、忘れてはならない。そして世界には、まだ未解決の哲学的問題がいくつもある。論理的技術は、それらを解くために使おうではないか。バートランド・ラッセルを、その方法の厳密さと知性の遠大さによって、私たちの時代に相応しい哲学へのアプローチを創始した人物と見なそうではないか。
原註
1 C.S.パース『著作集』, ケンブリッジ, 1932, Vol.II, p.199.
2 ただしこの結果はまだ公表していない。
3 少なくともこれは、現在の私たちにとってのペアノの公理であり、フレーゲとラッセルの仕事を基礎としている。ペアノ本人は、自然数を第三の未定義概念と考えていた。どうやら、全ての公理を総合的なものと見なしていたようである。
4 H.V.ヘルムホルツ『数と集合の認識論的基礎づけ』(1887)。 シュリック-ヘルツによる再刊『ヘルムホルツ認識論集』(ベルリン, 1921)p.70.
5 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(ロンドン, 1922)p.23.
6 『数学の原理』(ニューヨーク, 1938)の第2版序文
7 確かに、メタ言語において「p ∨ not-p」という論理式を記述して、その式をトートロジーと呼ぶことで、トートロジー的な言明を構成することはできる。それでも、紙に書かれた特定の論理式がそのような性質を持つか否かというのは、なお経験的な問いとして残る。結局のところ私たちは、いつでもこうやって経験的に与えられる言明を参照しなければならないのだ。
8 ラッセル『意味と真理の探究』(ニューヨーク, 1940)p.347。意味の検証理論のより広い形式については、筆者の『経験と予言』(シカゴ, 1938)第I章を参照。検証可能性がプラグマティックな概念であるという認識は、おそらく検証可能性をあまりに狭く定義した結果である。とりわけ、その定義における物理的可能性ではなく技術的可能性への参照から生じたものである。検証可能性を意味論的概念として構築することだって可能かもしれない。
9 同上、第XVI章。
10 量子力学のこういう解釈は、筆者の『量子力学の哲学的基礎』(カリフォルニア大学出版局)で与えられている。
11 筆者の『空間と時間の哲学』(ベルリン, 1928)§12 を参照。
12 『意味と真理の探究』第XX、XXI章。
13 『確率論』(ライデン, 1935)p.371.
14 『経験と予言』(シカゴ, 1938)§36。
15 『ジョン・デューイの哲学』(エヴァンストンおよびシカゴ, 1939)への彼の寄稿の p.149。
16 筆者の『確率論』および『経験と予言』第V章を参照。
17 『意味と真理の探究』p.305。
18 同上、p.400。
19 筆者の「確率言明の意味論的・客観的把握について」『認識――統一科学年報』VIII巻(1939), p.50. を参照。
20 『意味と真理の探究』第X、XXII章。
21 同上、p.398。
22 同上、p.395, 397。
訳註
[1] ラッセルによる記述理論を用いた the の解釈については「表示について」を参照。
[2] 実質含意は、今でいう真理関数的条件法のことです(これに対し、形式含意という量化を含む条件法もラッセルは定義しています)。それゆえ、「『雪は黒い』は『砂糖は緑色だ』を含意する」の場合、前件「雪は黒い」が偽になるので命題全体が真になるという、直感的に奇妙な結論を導きます。
実質含意と形式含意については、ラッセルの『数学の原理』第14-16節も参照。
[3] セクストス・エンペイリコス(Sextus Empiricus, 紀元2-3世紀)はローマやアレクサンドリアで活躍した医者。懐疑主義についての著作『ピュロン哲学概要』など以外に、生涯についてはほとんど知られていません。中世までほとんど無名でしたが、1562年にH.エティエンヌによって原典が出版されて、ヨーロッパにピュロン派の懐疑論が広まる契機となり、デカルトやヒュームの懐疑論に影響を与えました。
[4] 数の概念より「同数」の概念の方が基本的であるということを納得するには、遠山啓氏が『無限と連続』で使った「忘数病」の喩えを使うのが分かりやすいでしょう。ある日、原因不明の神経病が世界に流行しはじめ、この病気にかかった人間は 1 以外の数字 2, 3, 4 ...... をすべて忘れてしまいます。この病気を「忘数病」と呼びます。これに罹った人は集合の要素数を数えることはできませんが、全単射の存在を確認する能力は残っているので、少なくとも二つの集合が同数であることを調べることはできます。
[5] ペアノの五つの公理は次の通り。
- 最初の数が存在する。
- 任意の自然数 a にはその後者が存在する。
- 最初の数はいかなる自然数の後者でもない。
- 異なる自然数は異なる後者を持つ
- 最初の数がある性質を満たし、a がある性質を満たせばその後者もその性質を満たすとき、すべての自然数はその性質を満たす。
[6] 対置的定義は、一般的にはカルナップの命名による対応規則(correspondence rule)という名前で呼ばれます。理論言語に観察言語を結びつけ、解釈を与える規則のことで、例えば「緑色が見える」のような観察言語と「特定の波長の電磁的な振動がある」を結びつけるものです。
[7] これは、0を単位元とするという性質です。加算、減算、乗算、除算などの算術演算は全て単位元を持つ必要があります。加算と減算の場合は0、乗算と除算の場合は1が単位元になります。
[8] ライヘンバッハは演繹論理学の言明は全て分析的であり、ゆえに現実についての情報を含まない(つまり空虚)だと見なす立場を取っています。これはラッセルとフレーゲの影響によります。詳しくは「合理主義と経験主義」を参照。
[9] 有名な「ラッセルのパラドックス」です。
[10] 注意が必要なのは、ラッセルが「無意味」を真や偽と同じ真理値と考えて3値論理を導入したわけではない、ということです。あくまで2値原理を守って、無意味な表現はそもそも真理値を持たない(というか、そもそもそういう表現を作れないように言語領域を制限する)ということです。どうもライヘンバッハは、タイプ理論を自分が関心のある3値論理に引きつけて解釈しているようです。
[11] 論理学者からタイプ理論が嫌われる理由として、もう一つ、「無制限変項の原理」との衝突が挙げられます。変項にどんな値を代入してもよというこの原理は、フレーゲをはじめ当時の多くの論理学者が同意する原理であり、タイプ理論以前のラッセルも支持していました。しかしタイプ理論は変項に代入可能な値を制限する原理なので、両者は正面衝突してしまいます。参照:三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』(岩波書店、2005)p.64。
[12] 現在の直観主義論理は、普通、3値論理ではなく2値論理として考えられます。3値論理も直観主義も、排中律を拒否するという点では同じですが、前者が新しい真理値を導入して意味論のレベルで拒否するの対し、後者はあくまで真理値は二つだけで、排中律が証明できないように推論規則を改変して構文論のレベルで拒否する点が違います(戸田山和久『論理学をつくる』p.297 を参照)。
しかし、直観主義論理が現在の形を取るようになったのは、ブラウワーの高弟ハイティンクによる整備を受けた後のことで、ブラウワー本人が初めて提案した直観主義論理の意味論は3値論理でした。ライヘンバッハが念頭に置いているのもこの最初期の形式だと思います。
[13] 「特定の制限」とは、当初ゲーデルが第一不完全性定理を証明する際に、通常の無矛盾性の代わりに仮定した ω無矛盾性という強い条件を指します。ただしその後、ロッサーによって、これを通常の無矛盾性に弱めても証明できることが示されています。
[14] 「通常の意味」と限定がついているのは、3値論理における否定(not)は通常の意味での否定ではないからです。通常の2値論理では、否定は命題の真理値を反転させる機能を持ちます。だから NOT true = false ですし、NOT false = true です。一方、3値論理では、非決定の真理値は、否定演算子を適用しても値が変わりません。
[15] 通常、確率は過去から未来という向きの矢印を持ちます。例えば、天気予報で「明日の降水確率は70%」という場合、それが意味するのは、「今日の天候と同じ条件の過去のデータを集めたら、7割が次の日雨だった」ということです。母集団の割合を確率の定義とするので「頻度確率」と呼ばれます。
これに対し、ベイズ確率は、いわば矢印の向きを逆にして、現在分かっている情報から過去に起きた事象の確率(事前確率)を求めます。いわば「原因」の確率を遡って求めるのです。しかも推定を繰り返すことで、事前確率が次々に改訂されていきます(普通は「より蓋然性の高い」確率へ近づいていくと考えられます)。
ベイズ主義は今でこそ広く受け入れられ、真剣な考察の対象になっていますが、歴史的には18世紀に誕生してから20世紀前半まで、決して主流の思想ではありませんでした(名前も与えられていなかった)。しかしその帰納的な性格から経験主義との親和性が高く、ラムゼイやライヘンバッハら確率の主観的解釈を支持する哲学者は、早くから注目していました。
著:H.ライヘンバッハ 1948
訳:ミック
作成日:2006/10/24
最終更新日:2017/06/22
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