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フレーゲ『算術の基礎』書評




 算術の基礎について新しい方向からの研究を行なうというこの書物の目的は、好ましいものである。なぜなら、数学のこの分野は、他のあらゆる数学的原理の基礎に貢献しており、算術の基礎概念とその方法に関しての、今まで一般に部分的に [のみ] 行なわれてきたよりもずっと深い探究が必要であることは疑いないからである。また、空間的直観や時間的直観およびあらゆる心理学的要因を、算術的概念や算術的原理から切り離して考えるという要請を立てることによって、著者が正しい観点を把握している点も評価せねばならない。なぜなら、この方向から探究することによってのみ、厳密に論理的な純粋性が得られるのであり、それによって、算術という補助手段を直観的対象に適用することが正当化されるからである。著者はこの観点から、算術の基礎付けを目的として行なわれてきた過去の試みに対して批判的解明を行うことに非常に大きな紙幅を割いている。著者がカントやS.ミルや他の人々の算術に関する説に対し列挙している反論は、大部分が的確で、一読の価値がある。一方、それに比べると、数概念を厳密に基礎付けるという著者自身の試みは、あまり成功しているとは思われない。つまり、著者は残念な考えに行き着いている。その考えとは――著者はその際ユーバーウェークが著書『論理学体系』第53節で示した解釈に従ったと見えるが――数概念の基礎を学校論理学で言うところの「概念の外延(Umfang eines Begriffes)」とみなす考えである。著者は、「概念の外延」が、一般的には、量的に全く不確定なものであるということを完全に見落としている。確かに「概念の外延」が量的に確定される場合もある。なるほど概念が有限の場合は特定の数が割り当てられるし、無限の場合は特定の濃度(Mächtigkeit)が割り当てられる。しかしこのような方法による「概念の外延」の量的な規定を行なうためには、前もって「数」と「濃度」という概念が別の面から与えられていなくてはならず、従ってこの「数」と「濃度」という概念を「概念の外延」という概念の上に基礎付けようとするなら、それは正当性の転倒であり、本末転倒な議論である。もし著者がこの事情を見落としていたならば、その理由はおそらく、彼の主な誤りのほとんどが、極めて複雑な分類作業によって覆い隠されているという点にあるだろう。従ってまた、私が「濃度」と呼ぶ概念と彼が「基数(Anzahl)」と呼ぶ概念は同じものであるという第85節の意見も、正しいとは思えない。私は「集合の濃度または要素の集合」(この場合、要素は同種のものであってもなくてもよいし、単純なものでも複合的なものでもよい)という言葉で、ある一般概念を指している。その一般概念とは、与えられた集合に対等(äquivalent)であるような諸集合が帰属し、かつ、そのような諸集合だけが帰属する概念のことである。二つの集合が「対等である」とは、それらの要素の間に一対一対応がつけられるということである。私が「基数」とか「順序数(Ordnungszahl)」と呼ぶものはこれとは別である。私はこれを「整列集合(wohlgeordneten Mengen)」に対してのみ帰属させる。実際、私は「整列集合の基数または順序数」と言うことで、与えられた集合に同型な(ähnlich)諸集合だけが帰属し、そしてそれらだけが帰属する一般概念を意味している。二つの集合が同型であるとは、互いの要素同士の間に与えられた順序を保存したまま二つの集合の要素の間に一対一対応がつけられるということである。有限集合の場合は、「濃度」と「基数」という二つの要因は確かに一致する。なぜなら、有限集合の場合はその要素のいかなる順序付けにおいても、「整列集合」として一つにして同一の順序数を持つからである。これに対し無限集合の場合には、私の論文「一般集合論の基礎」(ライプツィヒ 1883)において明確に示したように、「濃度」と「順序数」の区別が非常に明確に現れてくる。
 著者が私の「基数」という語の使用に対して行なっている反論は、極めて根拠に乏しいと思われる。彼は [「基数」という語の] 通常の言語使用を引き合いに出しているが、そもそも通常の言語は学問的な概念を規定する際には標準的なものとはいえない。まあその点は大目に見るとしても、彼が関わっている有限集合だけの場合に関していえば、通常の言語使用を引き合いに出すことで私の行なった基数概念の厳密化が損なわれることは、ほとんどありえないであろう。

著:G.カントール 1885
訳:ミック 2003
最終更新日:2005/05/17
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