少年の日、ただもう驚嘆三嘆のまなこで私はリング通りを見上げたものだ。その後、何年にもわたって同じリング通りを私は憎みに憎んだ。ヘルマン・バール[1]
建造物 | 様式 | 建築家 | 完成年 |
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ヴォティーフ教会 | ゴシック様式(特にケルン大聖堂) | ハインリヒ・フェルステル | 1879 |
歌劇場 | カトロチェント様式 | エドゥアルト・ファン・デ・ニュル アウグスト・シカール・フォン・シカルツブルク | 1868 |
国会議事堂 | 古典ギリシア様式 | テオフィール・フォン・ハンセン | 1883 |
ウィーン市庁舎 | ベルギー・ゴシック様式 | フリードリヒ・フォン・シュミット | 1883 |
ウィーン大学新校舎 | イタリア・ルネサンス様式 | ハインリヒ・フェルステル | 1884 |
ブルク劇場 | ルネサンス様式とパリ様式の混合 | ゴットフリート・ゼンパー カール・フォン・ハーゼナウアー | 1888 |
日の出の勢いにあった六十年代のブルジョワジー…自由派の支配者たちは、ナポレオン三世のパリを顔色なからしめる都市再建を行うにあたって、かれらには借物の過去のゴシック、ルネサンス、バロックから鼓吹された壮大な建築物を造営し、これによって一つの歴史、一つの系譜へはいりこむ途を講じようとしたのである。[2]
園芸会社の建物から先に延びているケルトナーシュトラーセまで、密集した人の群はリングシュトラーセの市中央部寄りの側だけを動いてゆくが、夏は特に涼しくて快適な反対側は人通りがまばらである。どうしてそうなるのだろうか?それは嫌われた南側では、シュバルツェンベルク広場を横断しなければならず、それが不愉快だからである。しかしケルントナーシュトラーセからさらに宮廷美術館まで、コルソの人の動きは突然リングシュトラーセの反対側に移る。なぜだろうか?今度はオペラ劇場の車寄せのランプを通らねばならず、それがまたしても脇に保護物を求める歩行者の自然の傾向に合致しないからである。[4]
「絵画的な効果」や現存するものとの過剰な調和を求めたことは、同様に異常な花を咲かせることになった。
最近の市庁舎の設計競技では、建築家も、専門と非専門の審査員も、建てるべき建築作品を周囲の古い「絵画的な」環境に調和させようと大いに努力して、いわば舞台背景の方式から出発したが、市庁舎が新しく建つと周囲のすべての家の建て替えが起こり、ついには「古い」市庁舎が近代の家に囲まれることになる、ということは考えていなかった。[5]
近代的なものがすべて美しいというわけではないが、おそらく、われわれの感覚は、今日、近代的なものしか本当に美しいと見なすことはできないということを示すに違いない。どの芸術の時代も、その前の時代にたいして拒否する態度をとり、前の時代とは別の美の忠誠を誓ってきた。
新しく生まれる芸術の美は、われわれを感嘆させ、あらゆるあらゆる模倣されたものの上に高く聳え立つ。(強調は原著者による)[6]