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リングシュトラーセ(ロース登場前史)


 少年の日、ただもう驚嘆三嘆のまなこで私はリング通りを見上げたものだ。その後、何年にもわたって同じリング通りを私は憎みに憎んだ。
ヘルマン・バール[1]

建築の博物館

 ハプスブルク帝国時代のウィーンは、1850年代以降の建築分野で諸外国から広く注目を集めました。それがリングシュトラーセ様式と呼ばれる建築群です。もっとも、「様式」という名は付いているものの、時代を代表する独自の様式があったわけではありません。リングシュトラーセとはドイツ語で「環状の大通り」の意味で、沿道には過去の有名な建築様式の建物が所狭しと居並びました。その結果、ウィーンはまさに建築の博物館という様相を呈し、内外から多くの人々がこの「博物館」の見学に訪れました。
 最初にリングシュトラーセの建設計画が認可されたのは1859年、その計画案はドイツ生まれのルートヴィヒ・フェルスター(1797-1863)によるものでした。皇帝フランツ・ヨーゼフは1857年にウィーンの市壁の取り壊しを許可しており、その跡地の再利用方法について計画案が懸賞募集されていたのです。フェルスターの案によれば、旧市街をとりまく市壁跡に環状の大通りを設け、沿道に文化ホールや政庁など公共の建物を建てることになっていました。こうして1860年から1890年にかけて、主な公共の建物が12棟建てられました。


リングシュトラーセの代表的建造物
建造物 様式 建築家 完成年
ヴォティーフ教会 ゴシック様式(特にケルン大聖堂) ハインリヒ・フェルステル 1879
歌劇場 カトロチェント様式 エドゥアルト・ファン・デ・ニュル
アウグスト・シカール・フォン・シカルツブルク
1868
国会議事堂 古典ギリシア様式 テオフィール・フォン・ハンセン 1883
ウィーン市庁舎 ベルギー・ゴシック様式 フリードリヒ・フォン・シュミット 1883
ウィーン大学新校舎 イタリア・ルネサンス様式 ハインリヒ・フェルステル 1884
ブルク劇場 ルネサンス様式とパリ様式の混合 ゴットフリート・ゼンパー
カール・フォン・ハーゼナウアー
1888


 この時期のウィーンに、これほど無節操に、かつ大規模に、様々な時代の様式が混在することになった背景には、ブルジョワジーの台頭という経済的要因が大きく作用しています。実際、建築費用も土地を建築業者に売却することで賄われたため、市民の税負担はありませんでした。俗な言い方ですが「成金趣味」という言葉がぴったり来るかもしれません。ウィーンのブルジョワジーたちは、自らの時代の様式を創造することよりも、過去の時代の偉大な遺産を金で買うことに楽しみを感じていたわけです。歴史家ショースキーは次のように言います。
 日の出の勢いにあった六十年代のブルジョワジー…自由派の支配者たちは、ナポレオン三世のパリを顔色なからしめる都市再建を行うにあたって、かれらには借物の過去のゴシック、ルネサンス、バロックから鼓吹された壮大な建築物を造営し、これによって一つの歴史、一つの系譜へはいりこむ途を講じようとしたのである。[2]

 こうした「金に物を言わせる」やり方で作られたリングシュトラーセが、内外から手放しの賞賛を受ける一方、激しい批判にさらされたのは、意外なことではないでしょう。批評家へルマン・バールはリングシュトラーセについて書いた文章の中で呪詛の言葉を吐きました。「つまり、この現代性とやらは、ありとあらゆる過去の成果、自分の町にとどまらない、すべての芸術の過去の成果を、様々なモチーフを切り出してくるためのただ壮大な石切場としか弁えなかった。[3]」
 バールの批判は、金にあかせて過去の文化を踏みにじる(と彼には思われた)ブルジョワジーの俗物性への嫌悪に基づくものでした。しかし、建築の分野ではバールの直截的な怒りとは異なる方向から、有力な批判が二つ提起されました(もちろん、根底では「俗物性への嫌悪」を共有していましたが)。一つが耽美主義の立場からのカミロ・ジッテ(1843-1903)によるもの。もう一つが機能主義の立場からのオットー・ワーグナー(1841-1918)によるものです。以下、この二つの方向からの批判を見ていくことにします。


批判その1:カミロ・ジッテ

 ジッテは1843年、ウィーンに生まれ、石工から建築家に転じた父とその職人仲間の影響を強く受けて成長しました。1863年にウィーン大学へ入学、卒業後、建築家フェルステルや美術史家アイテルベルガーのもとで働きました。1875年から1883年までザルツブルクの帝国職業学校で教え、引き続き没年までウィーンの帝国職業学校で教えました。
 彼が名を知られるようになったのは、その著書『都市計画』(ウィーン 1889 邦訳は『広場の造形』)によります。その中で主張される彼の設計思想を一言で言えば「秩序ある連続」です。彼が理想とするモデル都市は、古代ギリシアや中世ヨーロッパなど過去の都市でした。街路は全て緩やかなカーブを描くのが良い。その沿道の建物は全て柱廊でつなぐのが良い(ヴォティーフ教会のように建物が孤立するのは駄目である)。方眼紙のような升目作りにするのはもっての他である。このような観点から、ジッテはリングシュトラーセに対する批判を展開します。
 園芸会社の建物から先に延びているケルトナーシュトラーセまで、密集した人の群はリングシュトラーセの市中央部寄りの側だけを動いてゆくが、夏は特に涼しくて快適な反対側は人通りがまばらである。どうしてそうなるのだろうか?それは嫌われた南側では、シュバルツェンベルク広場を横断しなければならず、それが不愉快だからである。しかしケルントナーシュトラーセからさらに宮廷美術館まで、コルソの人の動きは突然リングシュトラーセの反対側に移る。なぜだろうか?今度はオペラ劇場の車寄せのランプを通らねばならず、それがまたしても脇に保護物を求める歩行者の自然の傾向に合致しないからである。[4]

 ジッテにとって都市の目的は、遊歩者の目を楽しませることで、機能の充実は二の次でした。彼がロマン主義者とか耽美主義者と呼ばれる所以です。


批判その2:オットー・ワーグナー

 ジッテと同じように古い都市の美しさを生かそうとする耽美主義から出発し、逆に近代的な機能主義へ向かっていったのが、オットー・ヴァーグナーです。ロースの師匠に当たる人で、建築思想もかなりロースと近いものを持っています。ヴァーグナーはウィーン造形美術アカデミーでファン・デ・ニュルとシカルツブルクに学んだ後、同校で建築学を担当する教授となりました。その間にアール・ヌーヴォーへ転じ、ウィーンへの紹介者ともなります。機能主義の色合いを前面に出した建築としては、郵便貯金局(1906年完成)が知られています。
 ヴァーグナーの代表的著作は、教科書として書かれた『近代建築』(ウィーン 1895)です。そこで彼は、機能性を見た目の効果(「絵画的な効果」)の犠牲にしているという理由からリングシュトラーセを批判しています。
 「絵画的な効果」や現存するものとの過剰な調和を求めたことは、同様に異常な花を咲かせることになった。
 最近の市庁舎の設計競技では、建築家も、専門と非専門の審査員も、建てるべき建築作品を周囲の古い「絵画的な」環境に調和させようと大いに努力して、いわば舞台背景の方式から出発したが、市庁舎が新しく建つと周囲のすべての家の建て替えが起こり、ついには「古い」市庁舎が近代の家に囲まれることになる、ということは考えていなかった。[5]

 ヴァーグナーはまた、おそらく当時のウィーンで最初に、「過去の様式の模倣でなく、我々の時代独自の様式を模索するべきだ」という考えを打ち出した人物でもあります。
 近代的なものがすべて美しいというわけではないが、おそらく、われわれの感覚は、今日、近代的なものしか本当に美しいと見なすことはできないということを示すに違いない。どの芸術の時代も、その前の時代にたいして拒否する態度をとり、前の時代とは別の美の忠誠を誓ってきた。
 新しく生まれる芸術の美は、われわれを感嘆させ、あらゆるあらゆる模倣されたものの上に高く聳え立つ。
(強調は原著者による)[6]

 「我々の時代の様式」――弟子のロースもまた、それを追い求めることになります。そして最終的には、ヴァーグナーとロースは非常に近い答えを見出します、つまり「装飾の排除」を中心とする機能主義です。二人の思想はウィーンのみならず国際的にも大きな影響を与え、建築の一時代を担うことになります。ただし、その徹底性と好戦性において、師匠のヴァーグナーよりも弟子のロースの方が、何かと目立ち、物議を醸す問題的存在でした。


まとめ

 まず初めにリングシュトラーセ様式がありました。しかしそれは本当の意味での様式ではなく、過去の諸様式の寄せ集めでした。そして耽美主義者ジッテと機能主義者ヴァーグナーからの批判がありました。ロースが登場する直前のウィーンを建築という側面から眺めた場合、このような背景があったのです。


[1] H.バール「リング通り」『ウィーン 聖なる春』(池内紀編 国書刊行会 1986) p.53

[2] K.E.ショースキー『世紀末ウィーン』(岩波書店 1984)

[3] バール、p.54

[4] C.ジッテ『広場の造形 SD選書175』(鹿島出版会 1983) p.114

[5] O.ヴァーグナー『近代建築 学生に与える建築手引き』(中央公論美術出版 1989) p.36

[6] ヴァーグナー、 p.9


Copyright (C) ミック
作成日:2003/05/01
最終更新日:2005/12/10
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