国家統制の時代における作家の立場については、既にかなり広く論じられてきた。もっとも、それに関連しそうな証言のほとんどは、まだ利用可能になっていないが。ここで私が行ないたいのは、国家が芸術を庇護することに対して賛成や反対の意見を述べることではない。私はただ、いかなる種類の国家が私たちを支配するかは、その時の支配的な知的風潮にある程度は依存するということ、つまり、この場合で言えば、作家と芸術家自身の態度、および自由主義の精神を存続させようとする意志に依存するということを指摘したいだけである。もし私たちが10年後、ジダーノフ[1]のような人間の前でぺこぺこすることになったとしても、それはきっと自業自得というものである明らかに、イギリスの文学的知識人の間には、すでに全体主義へ向かう強い傾向が見られる。しかし私がここで焦点を当てたいのは、共産主義のように組織化された意識的運動ではなく、政治的思考および政治的旗色を鮮明にする必要が、善意の人々にどういう影響を及ぼすかということだけである。
現代は政治の時代である。戦争、ファシズム、強制収容所、ゴム警棒、原子爆弾、等々。私たちが日常考える対象はこういうものであり、従って、明示的に名前を挙げないときでさえ、かなりの程度まで、書く対象でもある。沈みかけの船に乗っている場合、考えることは沈み行く船のことである。だが私たちの主題が制限されるだけではなく、文学に対する私たちの態度全体までもが、政治的忠誠によって彩色されているのである。少なくとも時々は、私たちもそれが文学と無関係であることを自覚するのだが。私はしばしば、最良の時代でさえ、文学的批評は欺瞞だと感じる。なぜなら、広く認められた基準――しかじかの本を「良い」とか「悪い」という言明に意味を与えられる外的な保証――がない以上、あらゆる文学的判断は、結局、生理的嗜好を正当化するための一連の規則をでっちあげることでしかないからだ。ある本に対する人間の実際の反応は――そもそも反応を持つ場合の話だが――「私はこの本が好きだ」か「私はこの本が好きではない」のどちらかであり、その後に続くのは好き嫌いの正当化である。だから、「この本は私と同じ政治的立場だ。だからこの本に長所を見つけなければならない」というのは文学的な反応ではない。もちろん、政治的理由から本を誉めるときでも、それに強い賛同を感じるという意味では、感情的に正直なのかもしれない。しかしまた、党の結束から見え透いた嘘をつかねばならないときも、しばしばあるのだ。政治雑誌で本の書評を長くやっている人なら、このことをよく知っている。一般に、自分が賛同する新聞に書く場合は作為の罪を犯し、反対する新聞に書く場合は不作為の罪を犯す。膨大な数にのぼる論争的な書物――ソヴィエト・ロシアに賛成もしくは反対する本、シオニズムに賛成もしくは反対する本、カトリック教会に賛成もしくは反対する本、等々――これらはみな、読まれる前に裁かれている。いや実際は、書かれる前に裁かれている。どういう新聞でどういう扱いを受けるか、前もって分かるのだから。それなのに、ときにはその不誠実さをほとんど意識しないまま、本当に文学的な基準を適用しているような振りをしているのである。
もちろん、政治の文学への侵略は、起こるべくして起こったものである。それは、全体主義という特殊な問題が生じなかったとしても、起こる運命だったのである。なぜなら私たちは、先人たちには無縁だった一種の良心の呵責、世界を覆う巨大な不正と悲惨についての自覚と、それに対して何か行動を起こすべきだという罪悪感を発展させてきたからだ。そのために、私たちは人生について純粋に美的な態度を取ることができないのだ。現代では、ジョイスやヘンリー・ジェイムスのように一心不乱に文学に打ち込むことのできる人間はいないだろう。だが不幸なことに、現代において政治的責任を引き受けるということは、色々な正統派や「党の路線」に自らを売り渡すことを意味し、その行為が暗に意味する臆病や不誠実を諸々ひっくるめて引き受けるということである。ヴィクトリア時代の作家と違って、私たちは、明快な政治イデオロギーに囲まれて生活し、しかも普通は一目見ただけでどんな思想が異端なのか分かるというハンデを背負っている。現代の文学的知識人は、絶えざる恐怖の中で生き、書いている。ただしそれは、広い意味での世論についてではなく、彼が属する集団の世論についての恐怖である。幸運なことに、原則として集団は複数あるのだが、しかしまた、各時点において支配的な正統派というのもあって、それに反対するには度胸がいるし、時には反対したことで何年間も収入が半減することにもなりかねない。過去15年を振り返ると、支配的な正統派――特に若い世代において――だったのは、明らかに「左翼」である。キーワードは「進歩的」、「民主的」、「革命的」、逆に絶対に貼られるのを避けねばならないラベルは、「ブルジョア」、「反動」、「ファシスト」である。今日では、カトリック教会と保守派の中にさえ、「進歩的」でない人を見つけるのは難しい。少なくとも、大多数の人はそう思われたがっている。私が知る限り、自らを「ブルジョア」と規定する人はいない。ちょうど、反ユダヤ主義という言葉を聞いたことがある人で、その罪を犯したと認める人がいないように。私たちはみな、善良なる民主主義者で、反ファシストで、反帝国主義者で、階級差別を軽蔑し、人種偏見と無縁で、等々。そしてまた、20年前『クライテリオン』や(もっと低レベルでは)『ロンドン・マーキュリー』が有力な文芸雑誌だった頃に支配的だった[2]、非常に俗物的で敬虔を装った保守正統派よりは、現在の「左翼」正統派の方がましであることに、それほど疑いの余地はない。というのも、左翼は少なくとも、大部分の人が実際に望む存続可能な形の社会をその目的としているからである。だが左翼にも左翼なりの嘘があり、そしてそれを認めることができないため、幾つかの問題を真剣に議論することが不可能になっている。
こういう左翼イデオロギーは、科学的なものにしてもユートピア的なものにしても、今すぐ権力を握る望みのない人によって発展させられたため、過激主義に走った。王制、政府、法律、監獄、警察、軍隊、国旗、国境、愛国主義、宗教、習慣的道徳、そして既存の枠組み全てを徹底的に軽蔑する。あらゆる国の左翼勢力が、不倒と思われた専制と闘っていたことは記憶に新しい。そして、その特定の専制――資本主義のことだが――を打倒すれば、社会主義が後を引き継ぐだろうと安易に仮定されていた。それに左翼は、明らかに問題のある信念を自由主義から受け継いでいた。真理が行き渡ることで迫害は自滅するとか、人間の本性は善であり環境によって堕落するだけだというたぐいの信念である。こういう完璧主義的なイデオロギーがほとんど私たち全員の中に残っていて、(例えば)労働党政府が王女に莫大な収入を与えたり、鉄鋼業の国有化[3]に躊躇したりすると、左翼の権威にかけて反対するのである。しかし私たちの心の中にはまた、現実と衝突を繰り返した結果生じた、一連の認めがたい矛盾が堆積しているのである。
最初の現実との衝突は、ロシア革命だった。若干込み入った理由のために、イギリス左翼の大半は、ロシア政府を「社会主義的」体制として受け入れざるをえなかった。だが本当は心の中では、その精神と実践のどちらも、イギリスにおける「社会主義」とはかけ離れたものだと分かっていたのである。ここから一種分裂症的な思考方法が生まれ、「民主主義」という語は互いに相容れない二つの意味を持つようになり、強制収容所や集団国外追放のような所業は、正しいと同時に間違ってもいるとされる。左翼への次の一撃は、ファシズムの興隆だった。これは左翼の平和主義と国際主義に衝撃を与えたのだが、理論をはっきりと訂正させるほどではなかった。ドイツに占領されたことで、ヨーロッパの国民は、植民地の民衆なら既に知っていたことを初めて知った。つまり、階級闘争が最重要なのではなく、民族的利害という問題もあるのだ、ということである。ヒトラー以後、「敵は国内にいる」とか、民族の独立は無価値であると真剣に主張するのは難しくなった。私たちはみんな、このテーゼを知っているし、必要なときはこれを拠りどころに行動を起こすが、それでも、これを声高に言うのは一種の裏切りであると感じている。そして最後に、これが最大の困難なのだが、左翼は現在政権にあり、責任をもって誠実な決断を下す義務を負っているのだ。
左翼の政府は、ほぼ決まって支持者を落胆させる。なぜなら、政府が約束する繁栄が達成可能な場合であっても、その実現のためには不愉快な移行期間を耐え忍ぶ必要があるのだが、それについて前もって触れることなどまずないからである。現在わが国の政府は、絶望的な経済的苦境にあり、自身がかつて行なってきたプロパガンダと戦う羽目になっている。いま私たちが直面している危機は、地震のような突然降りかかった予期せぬ不幸ではない。戦争は原因ではなく、ただ到来を早めただけである。数十年前でも、今日のような苦境が訪れるかもしれないということは、予見できただろう。何しろ19世紀以来、国家歳入は、その一部を国外投資からの利潤と植民地の安定した市場と安価な原材料に頼っていたのであり、極めて不安定だったのだから。遅かれ早かれ、状況が暗転して、輸出入のバランスを保つことを余儀なくされることは確実だったのだ。そして実際にそれが訪れたとき、イギリス人の生活水準は一時的にせよ低下した。もちろん、労働者階級の水準もその運命を共有した。だが左翼政党は、反帝国主義を声高に叫んでいたときでさえ、これらの事実を全く明らかにしなかった。彼らも時には、イギリスの労働者がアジアとアフリカからの収奪によって、ある程度の利益を得たことを認めることもあったが、しかし常に、私たちは収奪をやめてもなお何とかして繁栄を維持できるだろうと言って、この状況を容認した。実際、社会主義が労働者の支持を多く勝ち得たのは、君たちは搾取されていると吹き込んだからである。しかし世界的に見れば、残酷な真実だが、彼ら自身もまた搾取者だったのだ。いま、どう見ても、労働者の生活水準を維持することが不可能な地点まで来ている。ましてや向上させるなど論外である。たとえ富裕層を根絶したとしても、大衆は消費を抑えるか生産を増やすかのどちらかを選ばなくてはならない。あるいは、私は今の窮状を誇張しているのだろうか? そうかもしれない。もしそうなら大変嬉しいのだが。しかし私が指摘したい点は、左翼イデオロギーに忠実な人々は、この問題を誠実に議論することはできないということなのだ。賃金カットと労働時間の増加は、本質的に反社会主義的な措置と思われているため、経済状況の如何に関わらず真っ先に拒否せねばならない。これらは避けられない措置だと提案すれば、みんなが恐れるあのラベルを貼られるのが関の山である。この問題に立ち入らず、今ある国家歳入を再配分すれば状況を是正できると言い張るほうが、ずっと安全なのだ。
正統派を受け入れることは、様々な未解決の矛盾を相続することである。たとえば、このシリーズ中のウィンクラー氏の論文[4]で述べられている事実を例に取ろう。感性豊かな人はみな産業主義とその産物に反感を抱いているが、貧困の克服と労働者階級の解放のためには非産業化ではなく、さらなる産業化の促進が必要なことを自覚している。あるいは、特定の職種は絶対に必要だが、しかしある種の強制を受けないと人はそれに従事したがらないという事実や、強力な軍隊なしに積極的な外交政策を展開することはできないという事実を考えてもいい。こういう矛盾はいくらでも挙げられる。この一つ一つの例について、結論は全く簡単なのである。ただしそれを導くには、公式イデオロギーに個人的に背かなければならない。普通の人の反応は、答えを出さないまま問題を心の隅に押しやって、矛盾する合言葉を繰り返しつづけることである。こうした考えの影響は、新聞雑誌を目を凝らして探さなくとも見つかる。
私はもちろん、心の中で背くことが社会主義者と左翼の一般的特徴だとか、よくあることだと言いたいのではない。単に、いかなる政治的規律を受け入れたとしても、それは文学的誠実さとは両立不可能に思われる、というだけである。このことは、通常の政治闘争の外側に立つことを主張する平和主義や人格主義[5]の運動にも等しく当てはまる。実のところ、~主義で終わる言葉の響きにはプロパガンダの匂いがする。集団への忠誠は必要なものだが、文学が個人の産物である限り、それは文学にとって有害である。それが創作に影響を及ぼすものである限り、たとえ消極的影響であったとしても、歪曲が生じるだけでなく、創造的能力を枯渇させることもしばしばである。
さて、それでなんだというのか? 「政治に関与しない」ことが全ての作家の義務であると結論せねばならないのか? 断じてそうではない! 既に述べたように、どのような場合であれ、現代のような時代にものを考える人間が政治に全く関与しないことなどできない。私が言いたいことはただ、政治的良心と文学的良心の間により明確な区別をつけるべきだということ、そして、好きではないが必要なことをいとわず実行したからといって、大抵の場合それに付き物の信念を丸呑みすることになるのではないということを認識すべきだ、ということである。作家が政治に参加するとき、彼は市民として、人間としてそうするべきであり、作家として参加するべきではない。私は、ただ自分の感性にそぐわないからというだけの理由で、作家が政治にありがちな汚い仕事を避ける権利があるとは思わない。他の人々と同じように、作家も、隙間風の入るホールで講演し、道路にチョークでプロパガンダを書き、有権者に投票を依頼し、リーフレットを配り、必要であれば内戦で戦う覚悟を決めるべきである。しかし、党機関でどういう役割を果たしていようとも、作家は党のために書くべきではない。書くことは別物だということを明確にすべきである。そして作家は、協力的に活動しながらも、必要とあらば公式イデオロギーを完全に拒否することができるのでなくてはならない。考えつめれば異端に行き着きそうだとしても、その考えから逃げるべきではないし、周りから非正統ではないかという疑惑の視線を向けられても気にするべきではない。それはきっとよくあることである。多分、今日の作家にとって反動的な傾向を疑われないことは、ちょうど20年前に共産主義のシンパと疑われなかったことと同じぐらい、悪い徴候ですらあるのだ。
しかしこれが意味することはせいぜい、作家は政治的ボスから命令されることを拒否するだけでなく、政治について書くことも差し控えるべきである、ということなのだろうか? 再度繰り返すが、断じてそうではない! もし書きたいと思うなら、どれほど政治的に稚拙な書き方でも、作家が書くべきでない理由はない。ただ彼は、書くのであれば個人として、部外者として、せいぜい正規軍の側面を突く歓迎されざるゲリラとして書くべきである。この態度ならば、通常の政治的活動で役立つことと十分両立可能である。例えば、戦争に勝利することが必要だと考えて戦闘に参加し、同時にプロパガンダの執筆を拒否することは間違っていない。作家が正直な場合、時として彼の書いたものと彼の政治活動が互いに矛盾するかもしれない。それが明らかに望ましくない場合もある。しかし、それでもその場合の救済方法は、自分の衝動を偽ることではなく、沈黙を守ることである。
争いの時代において、創造的な作家の生活は二つに引き裂かれざるをえないと言えば、敗北主義的だとか不真面目だと思われるかもしれない。だが現実には、他にどうしようがあるというのか。象牙の塔に閉じこもることは、不可能だし望ましくもない。党機関のみならず集団のイデオロギーに屈服することは、作家としての自殺である。政治に参加する必要を感じながら、それがいかに汚く堕落した仕事であるかを知っているがゆえに、このジレンマは苦痛に満ちている。そして私たちの大半は未だに、全ての選択は、たとえそれが政治的選択であれ、善か悪のどちらかであり、必要なものはまた正しくもあるのだという信念を捨てられずにいる。私は、こんな幼稚な信念はきっぱり捨てるべきだと思う。政治においては、二つの邪悪のうちより邪悪でない方を選ぶ以上のことはできないし、悪魔か狂人のごとく振舞うことによってのみ逃れられる状況というのもあるのである。例えば戦争は、必要なものかもしれないが、決して正しくもないし正気の沙汰でもない。総選挙でさえ、完全に楽しくてためになる見世物ではない。こういう物事に参加せねばならないなら――老齢や白痴や偽善で武装しているのでない限り――自分の神聖な部分を守ることも必要である。大部分の人にとって、問題は同じ形で現れることはない。彼らの人生はすでに引き裂かれているからである。彼らが真に生き生きするのは余暇の間だけであり、仕事と政治活動の間には何の感情的結合もない。政治的良心の名において、労働者に身をやつして働くよう要求されることもない。芸術家、特に作家は、まさにそれを要求される――事実、それが政治家が作家に要求する唯一のことなのだ。それを断ったとしても、怠け者と非難されることはない。彼の半分――ある意味で彼の全体なのだが――は、断固として行動することができる。必要であれば、他の人々と同様、暴力を振るうことも辞さない。しかし彼の文章は、それが何らかの価値を有する限り、常に政治の外に立つより健全な自我の産物である。それは行なわれたことを記録し、その必要性を認めるが、しかし作家自身の本性であると判断してはならない。
訳註
[1]
ジダーノフ(Andrei Aleksandrovich Zhdanov, 1896-1948)は旧ソ連の政治家。スターリン主義に基づく文化政策・文芸整風の中心的な指導者として、1946年以降、詩人のアンナ・アフマートワを手始めに文化人や知識人に対して抑圧政策を主導しました。
[2]
『クライテリオン』は1922年にT.S.エリオットが創刊した雑誌、『ロンドン・マーキュリー』は1919年にJ.C.スクワイヤーが創刊した雑誌です。
[3]
アトリー内閣の経済目標は、二つの目的を調和させることでした。一つが完全雇用の維持、そしてもう一つが、相当数の企業の国有化です。しかし、既に国有化されていた鉄道や石炭産業の非効率性を証拠とする保守党の反対などにあって、鉄鋼国有化は大きな問題となりました。結局、この法案が提出されたのが1949年、発効は51年でした。
主要産業の国有化は、1918年以来、労働党規約第4条として掲げられた労働党の基本目標であり、社会主義を目指す党のアイデンティティの象徴でもあったのですが、次第に現実味と重要性を失い、それでもこれを改訂しようとするとゲイッケルのように痛い目を見るという、形骸的タブーになっていきます。しかし1994年、新党首となったブレアが党大会の初演説でこの第4条の改訂に言及し、大きな論議を呼んだこと、そして改訂に成功したことは、記憶に新しい話です。
[4]
R.O.C.ウィンクラーが同年に寄稿した「批評家とリヴァイアサン」のこと。
[5]
人格主義はペルソナリスムとも呼ばれる、20世紀前半のフランスを中心に提唱された思想運動。ニヒリズムを克服し、キリスト教的価値観と人間観を復権することを目的とし、ルヌーヴィエやムーニエによって主導されました。
著:G.オーウェル 1948
訳:ミック
作成日:2005/09/20
最終更新日:2017/06/22
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