ホームバートランド・ラッセル


必然性と可能性




 様相という主題は、論理学の伝統的な一部門ですが、哲学者の間ではこれに対する関心は次第に薄れてきています。私が信じるところでは、この関心の減退の原因は、判断を必然的判断・独断的判断・蓋然的判断に分類することが、主に誤謬と混乱に基づいている、という事実にあります。私も、伝統的な意味での様相的相違の特徴を持つ諸命題について、妥当な区別をすることが可能である点は否定しません。ですが私に分かった範囲で言えば、一見妥当に見える相違もなんら基礎的な相違ではなく、それら全てが非-様相的用語を使うことでもっと上手く記述できるのです。
 この見解を推奨するために、手始めに伝統的理論における必然性と可能性の教義に属すべき特性を検討してみましょう。しかる後に、これまでに提案されている数々の必然性と可能性の定義について調べ、それらが必要とされる特性を持っていないことを示します。
 さて、まず必然性と可能性は、もっぱら命題の述語でなければなりません。私たちが(例えば)「神は必然的存在である」と言うとき、それは「神が存在することは必然的である」という意味に理解されなければいけません。必然的命題と必然性を述定する命題は区別する必要があります。必然的命題とは、必然性を述定する真な命題の主語です。誰かが「まったく、君は馬鹿に違いない」と言うとき、その意味は「君が馬鹿であることは必然的である」ということです。ここで必然的と言われているのは「君は馬鹿である」であって、「君は馬鹿に違いない」ではありません。後者の命題もたまたま必然的である場合もありますが。カントが様相は繋辞にのみ宿ると主張したとき、彼はこの点について少し混同していました(『純粋理性批判』 ハルテンシュタイン, p.97)。必然性を述定する命題における繋辞も他の全ての命題の繋辞と同じです。必然性の述定は「p は必然的である」という命題によって行なわれるのであって、「p は必然的でなければならない」という命題によって行なわれるのではありません。もっとも、否定の場合にもこれと同様の混同がごく一般的に見られることを考慮すると、カントの混同も大目に見られます。「ではない」は繋辞だと思われていますが、正しくは全ての否定は「p は偽である」という形式の命題であって、この命題における繋辞はであるであって、述語がです。
 必然的命題は真でなければならず、可能的命題は、その反対が必然的でない命題の一種だと取り決めるなら1、私たちはこの二つの語の用法についてはかなり広汎な意見の一致を見るでしょう。様相の理論が大きな重要性を持つためには、真な命題の中に必然的でない命題が存在しなければならず、また偽な命題の幾つかは可能的命題でなければなりません。そこで、偶然的命題を、真ではあるが必然的でない命題、不可能的命題を可能的命題でない命題として定義します。可能的偶然的不可能的についてのこうした定義は、純粋に言語的定義であることを意図しています。これらはいずれも、私たちが必然的命題が意味することを知っていることを前提とした定義です。従って、純粋に予備的な定義に過ぎず、必然的という語の意味についての議論の範囲を限定することに役立つ程度です。
 必然性の定義については、論者が異なれば定義も異なるというのが現状です。しかし原則として、それらの諸定義は純粋に言語的なものではありません。すなわち、各論者は彼らが必然性の概念を持っていると信じており、自分の与えた定義がであると信じています。というのはつまり、必然的なものに共通する ―― 必然性以外の ―― 特異な指標を与えたと信じているのです。さもなければ、様々に異なる諸定義が、哲学的見解の不一致を示す指標にはならなかったでしょう(実際にはしっかりそうなりました)。例えば、ある著者は「善とは快楽である」と言い、また別の著者は「善とは美徳である」と言うとします。彼らは見解を異にしますが、その理由は、両者が善なるものについて相違しながら、という語に対しては同じ意味を付与しているからです。従って、必然性について考えるべき主要な問題は、様々な定義が同値だと主張する様々な述語とは異なるような、必然的という述語が本当に存在するのか、という問題です。もし存在しないのなら、諸々の諸定義は哲学的に異なっているのではなく、ただ言葉の用法が違うだけ、ということになります。私自身は、厳密に言語的な定義を離れて必然的なる述語が存在するとは信じていません。しかし、自分の見解をどう証明したものか、ほとんど見当がついていません。
 私が賛同しない種類の見解は、マイノングがいわゆる「高次の対象」と呼ぶものについて論じている箇所を引用することで例示できるでしょう2。「いま私がこの場所にあると考えているこの色は、また別の場所にあると考えることもできる。相違についてはこれは当てはまらない。もし A と B がひとたび異なれば、両者は常に異なるのである。なぜなら、両者はそうでなければならないからだ。この『ねばならない』という語は、『論理的必然性』の意味で理解されるものであり、その根拠は、一方で A と B の本性に基づき、もう一方では相違性の本性に基づいている。」 マイノングは、この引用箇所だけでなく他のテキスト全般においても、必然性を命題が持つ認識可能な性質だと考えています。従って、調べることで発見できるのだから、定義が必要だとは考えていません。私には、彼が必然的と見なす命題は、実際には何ら特定の時刻における実在を述べる命題ではなく、それ以上基礎的な述語も含まれていないと思われます。しかし、この [必然的という] 述語は、これから示すように、その重要性を知識の理論から得ているのであって、それゆえ、論理学において何ら特別な名誉ある地位を占めるには値しない述語なのです。
 では今から、必然性の諸定義を検討していきましょう。そしてそれによって、可能なら、人々が必然性を主張するときに実際のところ何を考えているのかを発見するとしましょう。
 ア・プリオリ経験的という術語は、多少なりとも必然的偶然的という術語に関係しており、その違いは主に、前者のペアが認識論に属し、後者のペアが論理学に属するという事実によると思われます。ア・プリオリとか経験的と言われるのは、どちらかというと私たちが知る物事ではなく、私たちの認識の方です。しかも、一つの命題がア・プリオリにも経験的にも知りうるかもしれません。例えば、歴史学の発見は、自然宗教がア・プリオリに証明すべく努力している命題の経験的証拠を与えます。モーゼは燃える柴の木によって神の実在を経験的に知りました。聖アンセルムスはア・プリオリにそのことを知りました[1]。両者の違いは知識の源泉です。経験的知識は、その全体にせよ部分にせよ、知覚から導かれる知識です。ア・プリオリな知識は、知覚から独立な知識です(言葉が少し曖昧ですが、主要な論点ではないのでこだわる必要はありません)。私たちは、知覚によって知られることはそうでなかったことも十分ありえるけれど、ア・プリオリに知られることは必然的にそうなのだ、という確固たる感覚を持っています。そして、ア・プリオリ-経験的というペアが、必然的-偶然的というペアと関係を持つのは、まさにこの感覚によってです。
 もし与えられた命題がア・プリオリにも経験的にも知りうるとしたら、認識論のペア(ア・プリオリ-経験的)と論理学のペア(必然的-偶然的)の間の関係は、期待したほど単純なものにはなりえません。関係を作ると期待できるためには、大雑把にでも、必然的という語を「ア・プリオリに知られる命題」に、偶然的という語を「経験的に知られる命題」に対応すると見なす必要があります。すると、論理学のペアは、近似的に「特定の時刻における実在を述べない命題」と「特定の時刻における実在を述べる命題」に見出せるかもしれません。しかし、特定の時刻における実在を述べる命題の中には、実際に一連の出来事に関係する命題に加えて、(運動法則のような)全ての時刻に関係する、時間の本性からは演繹不可能な命題を含めなければなりません。このような必然的な拡張がなされると、私たちが手にする命題のクラスが何ら特記すべき論理的特徴を持たないことは明らかであり、それが重要であるのはただその命題を得る手段にのみ依存することになります。しかし、私たちが他の諸命題について抱き、知覚から導かれる命題については抱かない、あの必然性の感覚は、二つの源泉から導かれるものだと思われます。すなわちそれは、心理的源泉と混乱による源泉です。心理的源泉とは、命題が特定の時刻と関係していない場合、それが含む知識は、もしそれがそもそも到達可能であるならばどんな時にも等しく到達可能であり、従って何が起こるか見るまでは確信できない期間など存在しない、ということです。だから、科学が天文学において予言を可能としたとき、人々は、出来事は常に必然的だと感じるのです。しばしば、天体の運行はまさにこのタイプの必然性として理解されています。いかにして命題を知るのかという認識論的問題が、必然性と偶然性について私たちが抱く感覚の大部分を決定するのは、そのためでしょう。対して、もう一方の源泉は、純然たる混乱です。つまり、特定の時刻に割り当てられない時制を持つ文の曖昧さが問題なのです。「雨が降っている」という文は、時には真になるが、(湖水地方を除いては)常に真ではない命題を表します。そのため、この命題はある時は真、ある時は偽であるかのように感じられ、その結果、この命題は真かもしれないし偽かもしれない命題なのだと考えられるのです。しかし無論、この感覚の理由は、単に、同じ形式の言葉が様々な時刻に様々な命題を表現し、各命題の真偽は、命題が考えられた時刻とは独立に決まるからに過ぎません[2]
 従って、必然性偶然性は、それがア・プリオリ経験的に関係する限りにおいて、純粋に認識論的重要性しか持たず、論理学が考慮する必要のない観念なのです。
 これまで考えてきた必然性についての見方は、必然性を特定の時刻からの独立性に結び付けて考えるものでした。この見方によると、必然的命題は「永遠の真理」ということです。しかし、もっと別の見方もあります。それは、できる限り一般的に言うならば、命題が論証可能な場合にその命題を必然的と見なす考え方です。「それはそうに違いない」という言葉は、日常生活においては、ある推論を指して使われます。例えば「彼は中にいるに違いない。なぜなら、私は彼の帽子をホールで見たから」という具合に。必然性をこういう風に解釈すると、この発言は「彼が中にいる」ことは必然的である、という命題を主張することになります。なぜなら「私は彼の帽子をホールで見た」という命題は真であり、「私は彼の帽子をホールで見た」という命題は「彼は中にいる」という命題を含意する、ということだからです(この推論はみんな暗黙に理解していますが、明示されていないのです)。
 実際には、しかじかのことを導く推論が十分に難しいという自覚がない限り、わざわざ「しかじかのことは真に違いない」とは言いいません。
 私たちは、今日は何曜日か、という質問に対して、「今日は火曜日である。今日の新聞にそう書いてあったから」と答えるでしょう。しかし本当は、「今日は火曜日に違いない。なぜなら今日は3日で、今月は日曜から始まったからだ」と答えるべきです。私たちが「それはそうであるに違いない」ということで表現しているのは、推論を行なったという、この感覚です。
 ブラッドリー氏の必然性の理論は、この状況を論理学の術語を用いて表そうとする試みです。氏はこう言います3
私たちが必然性という用語を使うときの用法に一般的意味を与えることは簡単である。もしあるものがそれ自身においてそうであるのではなく、何か他のもののためにそうである場合、そのあるものは必然的である。必然性には、媒介、依存性といった観念や、孤立した立場を保ち、それ単独で自立して作用するには不適切であるという観念が伴う。あるものが、単にそうであるだけでは、それは必然的ではない。必然的であるのは、それが何か他のもののためにそうである場合、またはそう言われている場合である。

さらに(同書の p.185 で)こう述べられています。
私は、「M が P ならば S は P である」と主張することと、「M が P だから S は P である」と主張することが同一ではないことを認める。両者の違いは明らかである。後者においては、先行節と結論の両方が事実である。どちらも断定的である ・・・・・・ 。前者においては、先行節が偽で結論が不可能であることもありえる。しかし、どちらの場合でも必然性は全く同一である。もし、M が P であることと S が M であることを受け入れ、結論を導くなら、S は P でなければならない。これが、必然性について見出しうることの全てである。
 引用した二箇所で説明されている理論を要約すればこうです。「命題 q が必然的と言われるのは、これが命題 p によって含意されている場合である。」 ブラッドリー氏は、必然的なのは仮定文全体ではなく、結論だと考えているようです(しかし、他の箇所ではこの点を濁しています)。それゆえ、氏は先行節または結論が真でなければならないことを本質的だとは主張していないように見えます。従って、任意のものから導かれるものは何であれ必然的になります。
 この理論に対する反論は、真偽に関わらず全ての命題が必然的になってしまうことです。というのも、何らかの前提から導かれないような命題などないからです。例えば「全ての命題は真である、かつ、これは命題である」という前提を考えてみればいいでしょう。こうした前提は可能的である必要があるという条件をつけることはできません。なぜなら、ブラッドリー氏によれば、可能性は「仮言的必然性の一形式」であり(p.186)、「必然的なものは不可能か、または実在しないかもしれない」ことを、氏も認めるのですから(同上)。従って、あらゆる命題が必然的であるという結論は免れないと思われます。
 私は別に、ブラッドリー氏が、私たちが「それはそうに違いない」という言葉を使う状況について、完全な説明を与えていないと言いたいのではありません4。ただ私が言いたいのは、もしこの説明を受け入れるなら、必然性はその重要な意味において、心理学、あるいはせいぜい知識の理論に属し、論理学には一切関与しない、ということだけです。なぜなら、「それはそうに違いない」というのは単に「私はそれがそうであると推論する」という意味に過ぎなくなるからです。もし論理的な意味を主張するつもりなら、「それはそうに違いない」は「それがそうであることは論証可能である」という意味に理解されるかもしれません。この場合、「p は論証可能である」は「p を論証することが可能である」という意味ではなく、「p を含意する真な命題が存在する」という意味に定義せねばなりません(可能性は必然性を使って定義できるので)。しかし、これが成立するのは p が真なとき、かつその場合に限られるので、その論理的意味は全く重要ではありません。
 ブラッドリー氏の言葉からは、彼が必然的と考えているのが仮定文の結論なのか、先行節と結論の結合なのかが、常に明らかではありません。これに対しボサンケ氏は、(私が正しく理解していればですが)必然的なのは結合であって結論そのものではないという見解を採用しています(『論理学 I巻』p.391)。氏は「議論の余地なく正しい判断、すなわち、仮言的判断または選言的判断」について論じます。しかし氏は、私たちが仮言的または選言的な判断を主張するとき、実際に結論や選言肢が必然的だと主張していると考えているのか、それとも、私たちが仮言的または選言的な判断を正しく主張するときには、私たちが主張する真理は実際に必然的真理であると考えているのか、明らかにしていません。前者の立場は、ほとんど維持しがたいものです。なぜなら、それでは結論や選言肢を、それが必然的であると主張することなしに、単純にそれのみを主張することができなくなるからです。従って、ボサンケ氏の立場は、全ての真な仮言的または選言的命題は必然的であり、他のいかなる命題も必然的ではないということを暗黙に主張するものだと翻訳できます。
 さて、仮言的・選言的命題が論理的に重要なクラスであることは間違いありません。それゆえ、こうした命題に必然的という名前を与えるなら、ある種の便利さが得られるでしょう。しかし私には、とうていそういう全ての命題が一般的に必然的命題と呼ばれるとは思えないのです。「もし雨が降るなら、私は傘を持っていこう」とか「私は明日町に行くなら、遊びに行こう」といった仮定文は、真かもしれませんが、これを必然的と言う人は少ないでしょう。命題が必然的と感じるられるためには、仮定と結論の間に特定の種類の結合が必要です。それがどんな種類の結合であるか、手短に定義してみましょう。大雑把に言えば、それは、結論が先行節から論理的に演繹可能であるような関係です。選言的命題の場合にも全く同じことが言えます。「カエサルは3月15日に殺された、または、ピクルスの食べ過ぎで死んだ」という命題は真ですが、しかし広く必然的と認められる命題ではありません。反対に「カエサルは3月15日に殺された、または、3月15日に殺されなかった」は、広く必然的と認められる命題です。この理由から、ボサンケ氏の必然性についての説明は、普通この語によって意味されるものと一致するとは考えられません。もっとも、氏の用法に反対する論理的理由というのもないのですが。
 G.E.ムーア氏は、論理的優先度(logical priority)に基づく必然性理論を提唱しています5。その理論によれば、命題はどれも必然的で、ただ論理的優先度の序列に応じた程度の差があるだけだ、というのです。だから、もし q が p を含意するが、p が q を含意しない場合、p は q よりも論理的優先度が高い、ということになります。この理論は、真な命題は全ての命題から含意され、偽な命題は全ての命題を含意するという含意の原則と相反します。というのも、この定義に従うと、全ての真な命題は同一レベルの論理的優先度を持つことになり、偽な全ての命題もまたしかり、ということになりますが、全ての真な命題は全ての偽な命題よりも論理的優先度が高くなるからです。これでは、全ての真な命題は同じ程度に必然的になり、真な命題同士の間に区別をつけられません。
 どうやら、カント以前においては、必然的命題とはその真理性が矛盾律から演繹される命題であり、可能的命題とはその虚偽性が矛盾律から演繹されない命題である、という見解が広く受け入れられていたようです。この見解を現代論理学と調和させるには、大きな修正が必要ですが、しかし修正を施せば、まだまだ役に立つ見解だと私は信じています。
 必然的命題と分析的命題を同一視する古い見解は、二重の修正を要します。まず第一に、分析的という語をこれまで分析的命題と呼ばれてきた種類の命題に適用するためには、この語の意味を変えねばなりません。第二に、矛盾律や他の論理学の原理から演繹可能な諸命題が、全ての真な命題と同一の外延を持たないようにするためには、「p は q から演繹可能である」という命題に、「p は q によって含意される」という以外の意味を見つけねばなりません。私たちが必然的と感じる種類の仮定文と、必然的と感じない種類の仮定文を区別するためにも、やはり上のようなもう一つの意味が必要となります。そこで私は、そのような新しい意味として、演繹可能性を採用してみたいと思います。これから、演繹可能性の概念からすぐに分析的という語の新しく適切な意味が帰結することを見てみましょう。
 演繹可能性についての難しさは、命題「p は q を含意する」あるいは「p ならば q」は、命題「p は真ではない、または q は真である」(ただし選言肢は相互に排他的ではない)と同値であるという、含意の原則に起因します。含意をこのように同値変換できることは、様々な考察の結果、不可避のものです。例えば、命題 p, q, r を、p と q が真ならば r も真であるような命題とします。すると、p が真な場合、「q が真なら、r は真である」という命題を導けます。(例えば、ある人物が男性で既婚なら、彼は夫です。従って、この人物が男性の場合、「彼が既婚なら、彼は夫である」という命題が導けます。) さてここで p と q がともに真ならば、p は真です。すると上記の原理に従って、p が真な場合、「q が真なら p は真である」が導けます。すなわち、p が真であるならば、 q は p を含意するのです。これは、真な命題 (p)はあらゆる命題(q)に含意されるということです。私には、この含意についての見解を擁護するための議論をこれ以上追求する気はありません。私としては、これがシェイクスピアとブラッドリー氏によって受け入れられている(もっとも、そのもたらす帰結について完全には理解されていませんが)ということを指摘するだけで満足です。『論理学』p.121 より[3]
スピード:だが、ほんとの話、縁組みはまとまるのかい?
ラーンス:おれの犬にきいてみな ―― そいつが「うん」といやぁ、まとまるし、「いいや」といやぁ、まとまるよ。尻尾をふってだまってても、まとまるよ。
 この二人の権威に依拠して、これ以降、私は「p は q を含意する」は「p は真ではない、または q は真である」と同値であると仮定します。
 すると q は、q を含意する全ての p から演繹可能だとすれば、全ての真な命題は矛盾律から演繹できることになります。でも実際の推論を行なうときは、含意以外の要素も関係してきます。そもそも証明が使われる理由は、それ以外の方法では真であることを知りえないような命題 q を 別の命題 p から導くことで理解できるようになるからです。それ以外の場合では、「p は q を含意する」は、p が偽であるか q が真であることからしか推論できません。こういう場合において「p は q を含意する」は何ら実際の目的に役立ちません。この命題が有用なのは、q が真であることを発見する手段として使う場合に限られます。真な命題 p が与えれたとき、「p は q を含意する」の真理性が明白であるような 命題 q がいくつかは存在するでしょうし、それゆえ q が真であることが推論されるでしょう。反面、他の真な命題を証明する場合は、その命題の真理性は、p がそれを含意することを知る前に、それとは独立に知る必要があります。私たちが求めるのは、この二つのケースの間の論理的な違いです。
 この違いは、簡単な形で述べられるかもしれませんが、私が見つけることのできた唯一の形式は次のようなものです。私たちが演繹法則と呼ぶことができるような一般命題が幾つかあります。例えば、「もし not-p が偽なら p は真である」、「もし p が no-q を含意するなら、q は not-p を含意する」、「もし p が q を含意し、かつ、q が r を含意するなら、p は r を含意する」等々、全部で10個ほどになります。これらは、昔の三段論法とその規則に代わるものです。従って、上記の原理を使って p が q を含意することが示せたなら、q は p から演繹可能であると言うことができます。
 この定義は次のように言い換えられるかもしれません。つまり、演繹法則は、特定の形式の関係(例:一方が他方の否定である)を持つ二つの命題は、一方が他方を含意することを私たちに教えるのだ、と。例えば、もし p と q の両方が演繹法則によって意図される関係を持っていたり、後続の命題とそうした関係を持つ有限数の媒介命題によって結ばれているならば、q は p から演繹可能ということです。演繹可能の意味は純粋に論理的なものであり、私の考えでは、厳密に私たちが実際に、p が偽とか、q が真だと仮定せずとも q を p から演繹できる場合をカバーします。
 今定義した意味での〜から演繹可能という概念は、〜によって含意されるという概念とは異なるものですが、後者を代用するために前者を作ったのではない、ということは断っておかねばなりません。というのも、〜から演繹可能は演繹法則を使って定義されていますが、その演繹法則は含意の概念を使っているからです。そのため、演繹法則の中の〜によって含意されるという概念を〜から演繹可能で置き換えることは悪循環を招きます。こうして、含意という概念は基礎的なものとして残り、演繹可能性は含意から派生する概念ということになります。
 私たちが定義を見つけようとして考察を始めた二つの概念、すなわち分析的〜から演繹可能のうち、後者の定義はこうして見つかりました。残るは分析的という術語の意味を決定することです。
 分析的という語の伝統的な意味は、二つの性質と結びついています。一つが、分析性の名前にもなっている性質で、命題を分析することで現れるとされている性質、すなわち、分析的命題の主語は述語に含まれているという性質です。この性質は、私たちの関心事ではありません。問題は、本当はそうではないのだけど、これと同じ性質だと思われているもう一つの方です。それは、矛盾律、もっと一般的に言うなら、楽観的に「思考法則」と呼ばれているものから(今さっき説明した意味で)演繹可能であるという性質です。この見解が隆盛だったころの形式論理学は、何から何が演繹可能なのかを決定する正確な手段を持っていませんでした。ただ、その僅かばかりの厳密さと繊細さの備蓄を三段論法 ―― 実用性という点でも面白さという点でも紋章学とどっこいどっこい ―― に費やしていたのです。その結果、人々は、本当はもっと多くの前提の助けを借りなければ証明できない多くの物事が、同一律、矛盾律、排中律から演繹できると考えました。実際は、矛盾律だけから演繹できるものは極めて少ないし、同一律、矛盾律、排中律の三つから演繹できるものもそれほど多くありません。それゆえ、いま私たちが分析的という語の外延をかつて形式的に考えられていた範囲で残そうとするなら、この語の意味を伝統的な意味より広くとる必要があります。あるいは、M.クーチュラ氏の提案を採用することで、そういう意味を得られるかもしれません。いま、(おおよそ)形式論理学と純粋数学を含む巨大な命題集合を考えます。すると含まれる命題は全て何らかの重要な論理的特徴を共有しており、どの命題も少数の一般的・論理的前提から演繹可能です。その前提の中には、先述の演繹法則も含まれています。これら一般的な論理的前提は、いわゆる「思考法則」が形式的に担う考えられている機能を果たします。いわば「論理法則」とでも呼べるでしょうか8。論理法則からは、形式論理学と純粋数学の全ての命題が演繹可能でしょう。すると、論理法則から演繹可能なこれらの命題を分析的と定義することが便利です。しかもこの定義は、カント以前の用法とも、字義どおりではないけれど本質においては調和します。確かにカントは、純粋数学は綜合的命題から構成されると主張することで、何よりも、純粋数学は論理法則だけからは演繹できないと主張しました。この点において、今の私たちは、カントが間違っていて、ライプニッツが正しかったことを知っています。従って、純粋数学を分析的と呼ぶことは、カントとこの地点で袂をわかつ正しい方法です。
 もし「p は q を含意する」という命題が分析的なら、q は p の分析的帰結であると言えるでしょう。「p は q を含意する」は分析的だと言うことは、私たちが採用した定義に従えば、q は p から演繹可能だということと同値です。従って、q が p の分析的帰結であるのは、 q が p から演繹可能な場合であり、かつその場合に限ります。特筆すべきことに、現実の全ての妥当な演繹においては、対象が純粋に論理的な本性を持つか否かに関わらず、前提の帰結に対する関係は、論理法則によって意図されていたものと同じ、言い換えれば論理法則から演繹可能です。もっとも、これは私たちが演繹をそのように作ったからですけど。従って、全ての妥当な推論では、結論は前提の分析的帰結です。すなわち、含意は分析的です。実際、分析的でない含意を見つけられるのは、前提が偽であることや結果が真であることが独立に知られる場合、または真であることが独立に知られる命題を前提に付け加えることで含意を分析的にできる場合だけです。しかし、そういう場合の含意は(時に第三のケースを例外として)何ら実際の役に立ちません。
 さて、すると問題は、必然的命題を分析的命題と、可能的命題をその反対が分析的でない命題と呼ぶかどうか、ということです。演繹可能性と論理法則の話に入る前に長い余論を必要としたのは、このように言うことに厳密な意味を持たせられるようにするためでした。しかし必然性を感じるからだというのは、この定義への回答になりません。必然的だと感じる多くの命題が実際には分析的ではないからです。例えば「もしあるものが善なら、それは悪ではない」とか「もしあるものが黄色なら、それは赤色ではない」など。非-善と同じ意味ではありません。それゆえ、論理学だけでは丸い青いが両立不可能であることを証明できないように、が両立不可能であることも証明できません。だから、分析的命題のクラスは重要なクラスではありますけど、必然的命題のクラスと同じだとは思われないのです。
 全ての命題が真であるようなタイプのあるインスタンスを、必然的命題とみなすことは可能です。例えば、「ソクラテスは人間か、または人間ではない」は、ソクラテスを他の何で置き換えても依然として真なままですから、必然的といえます。同様に、「もしソクラテスが人間なら、彼は必滅である」も、ソクラテスの代わりに何で置き換えても真ですから、これも必然的と言えます。すると可能性の相関的定義はこうなります。「(例えば)ソクラテスが現れる命題は、この命題を真にするような何かでソクラテスを置き換えられるなら可能的である7。」 この定義は多少逆説的な結果を導きます。例えば、三角形は存在するので、ソクラテスは三角形かもしれません。もっとも、この帰結が逆説的に見えるのは、私たちがソクラテスが人間だと既に知っているからに過ぎません。「ソクラテスは人間であり、かつ三角形である」は、この定義によっても不可能です。ソクラテスが現れる命題が可能的か否かを考えるときに、もし敢えてソクラテスが持つ現実の性質を重視するならば、彼の全ての性質を考えずに済ませる理由がありません。ゆえに、彼が現れる真な命題は可能的であり、彼が現れる偽な命題は不可能的です。そうは言っても、私は、この種の理論は、可能性ということで普通主張されているケースのかなりの部分をカバーすると思います。例えば私が馬車に乗るとして、その番号が5番だったとします。私はそのとき、数字は別に4番でもありえたと感じるでしょう。この場合に言われていることは「これはロンドンの馬車である。そして4番の数字を持つ馬車も存在する」ということです。このようなケースでは、命題の主語は変項として感じられます。それは完全に確定なものではなく、あるクラスの不特定の要素とみなされるのです。この必然性と可能性の定義を厳密にするために、この理論においては、必然性と可能性は命題に属する性質ではなく、命題関数、つまり不確定な主語を持つ命題に属する性質だと考えるのが自然です。すると次のように定義できます[4]  例えば「x は x と同一である」は必然的です。「x は必滅である」は人間のクラス全体について必然的です。「x は偶数である」は、2 が偶数なので可能的です。「x は哲学者である」は人間のクラスの範囲内で可能的です。
 この定義は、実質的にはマッコール氏のものと同じです8。ただし氏は、命題と命題関数を区別していません。必然性や可能性を命題の性質としていないという点を除けば、私が見た限りで、この定義に対する特別な反対はありません。命題の主語を変項としてみなすことで、この定義を命題に適用するという、私たちがスタート地点とした示唆に厳密さを与える際には、少し注意が必要です。なぜなら、命題の中に主語が二度、三度と現れる場合、命題は三つかそれ以上の異なるタイプのインスタンスになるからです。例えば、「ソクラテスはソクラテスと同一である」は、(この見解において)「x は x と同一である」のインスタンスとみなせば必然的です。しかし、「ソクラテスは x と同一である」や「x はソクラテスと同一である」のインスタンスとみなせば、ただの偶然的命題になります。とはいえ、与えられた命題が、ソクラテスを変項で置き換えることで得られたインスタンスであるような、真な命題の全体から成る任意のタイプが存在する場合には、(例えば)ソクラテスを構成要素に持つ命題をソクラテスについて必然的と呼ぶことに決めれば、この曖昧さは回避できます。例えば、「ソクラテスはソクラテスと同一である」の場合は、この命題はソクラテスについて必然的です。なぜなら、この命題は、最初のソクラテスだけを変項で置き換える場合、後ろのソクラテスだけを変項で置き換える場合、両方を変項で置き換える場合と、合計3種類のタイプが得られますが、[そのインスタンスが] 変項の任意の値について真になるのは最後のタイプだけだからです。この命題は、同一性については偶然的です。なぜなら、「ソクラテスはソクラテスと関係 R を持つ」というタイプは、Rの全ての値について真にはならないからです。
 この理論は、これまで見てきた諸理論からいくつかの要素を引き継いでいますが、多くの利点を持っています。分析的命題は、私が論理定項と呼ぶ構成要素以外の、全ての構成要素について必然的であるという性質を持っています。例えば、「ソクラテスはソクラテスと同一である」は分析的命題であり、論理定項は同一性です(これについては必然的ではありません)。ここで、必然的命題は特定の時刻に関わらない命題であるという見解を、再度説明する必要があります。というのも、特定の時刻に関わる命題は、一般的に他の時刻においては真ではなく、そういう変化が起こるということを述べる一つの方法に過ぎないからです。
 しかし、この図式に完全には該当しない命題もまだ残っています。例えば私たちは、[特定の時刻に関わる命題なのに] その全ての命題が真であるように感じるタイプがあります。例を挙げるなら「x はクロムウェルの死後のある瞬間か、またはそうでないか、または王政復古よりも前の瞬間である」などです[5]。ですが、このタイプの命題を必然的と呼ぶことにはためらうでしょう。なぜなら、この命題の真理性は「クロムウェルは王政復古よりも前に死んだ」という命題から演繹されることに、すぐに気付くからです。そして、偶然的命題があるとすれば、これなどまさにそうです。しかし、この感覚を裏返しにすることもできます。例えば誰かが「これこれの事件が起こったのは、クロムウェルの生前であり、かつ王政復古よりも後である」と言えば、私たちは「そんなことは不可能だ。クロムウェルは王政復古より前に死んでいるのだから」と答えるでしょう。このような論点では、必然性という感覚は不確実で不安定なものに思われます。
 確率というテーマは、当然のことながら様相と結びついています。ある命題が真である確率は、可能性の大小を測る物差しだと考えられるかもしれません。そのため、様相の違いなど全く必要ないことを示すためには、そのような違いを引き起こさない確率論を作る必要があるでしょう。ですが、このテキストで確率のような難問について、自分の見解を主張する用意はありません。おまけに、白状すると、私は自分が支持できるような確率についての見解を持っていないのです。ですが、さしあたり確率が可能性の物差しだという見解に対抗するためには、可能性の問題に対する答えは、いつもではないが大抵の場合、程度に差はあれ恣意的なものだと答えれば十分でしょう。円を二つの半円に分割し、その円周の一点を適当に選びます。その点が上半分の半円に属している確率はいくつでしょう? そんなもの明らかに5割だ、と思うでしょう。しかし、他の幾つかのケースで妥当として認められている方法を使えば、0 から 1 までのどの値でも証明できるのです。

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私がここで議論してきたよりも満足のいく必然性の定義が他にあるという可能性は、十分ありえます。しかし、これまでの議論によって少なくとも得られる結論があるとすれば、それは、私たちが抱く必然性という感覚は複雑で混乱した感覚であり、以下に示すような要素が絡み合っているのだということです。

(1). 命題が近くに訴えずとも知りうるという感覚
(2). 命題が証明できるという感覚
(3). 命題が論理法則から演繹できるという感覚
(4). 命題は実在する主語だけでなく、多少なりとも実在の主語に似た全ての主語、あるいは極端なケースでは、完全に全ての主語を持つという感覚。

 この四つのうちのいずれも、必然性の理論を構築するために使えるかもしれません。第一の感覚が理論に与える重要性は論理的なものではなく、認識論的なものです。二番目の感覚は、必然的命題と真な命題を両立させます。三番目と四番目の感覚は、重要な命題のクラスを与えますが、論理法則から演繹可能な命題とする前者の方が分析的命題のクラスを記述するものとしては優れいています。また、後者の背後にある見解は、命題よりも命題関数のほうに応用しやすいものです。
 既にお分かりのように、私の結論は、必然性という基礎的な論理的概念は存在せず、従って可能性についてもまた然り、ということです。もしこの結論が妥当なものなら、命題はごく単純に真または偽ということであり、偶然性や必然性によって含意されるような真理の比較級や最上級など存在しません。それゆえ、様相というテーマは論理学から消え去るべきだということになるのです。


原註
1 ブラッドリー氏の必然性と可能性の定義は、この用法と一致しない。氏の必然性の理論については後に考察するが、しかしそれ以外の場合ついては、可能的命題は、その反対が必然的命題でない命題であると定義できるものとする。

2 『感覚器官の心理学および生理学雑誌』XXI, p.202.

3 『論理学』p.183.

4 ただし、当該の命題を導く前提が真でない限り、その当該命題を必然的命題と呼ばない方がよいと見なすべきなら、話は別であるが。

5 『マインド』 n.s.Vol.IX. No.35, pp.289-304.

6 同一律、矛盾律、排中律は、やろうと思えば「論理法則」に含められるかもしれない。しかし、私たちが「法則」およびその帰結ということで意味することは多少なりとも恣意的であり、ゆえに私は、いわゆる「思考法則」は一切含まないようにするのが簡便だと思う。これらを入れたいと思うなら、その根拠は、よぼよぼになるまで仕えてくれた召使を解雇するのは忍びないという感情からしかありえない。

7 これは、ソクラテスが現れる命題が真である場合も含むことを意図している。

8 例えば、『ロンドン数学協会年報』第28巻の5番目の論文「同値な言明の計算」pp.156-7 を参照。

訳註
[1] ラッセルが「神の実在についてのア・プリオリな知識の源泉」と呼んでいるのは、いわゆる「神の存在論的証明」のことです。

[2] この箇所を読むときは、ラッセルが命題(タイプ)と文(トークン)を区別すること、一つの命題は必ず真偽のどちらかに決まると考えていること(2値原理)、という二つの前提を念頭に置くと理解の助けになります。
 例えば、「雨が降っている」は、どのような時刻に発話しようとも文としては同一ですが、その表現する命題は異なる、ということです。いわば、こういう文は発話文脈に依存するような「隠れ時制」と「隠れ場所指定」を持つ命題を表現しているだけで、時制を明文化した命題に変換すれば、「2006年4月1日の午後20分、東京では雨が降っている」のようになります。この命題なら、これをいつ考えたかによらず真偽が定まります。「真かもしれないし、偽かもしれない」などという曖昧な命題は、ラッセルの哲学体系には現れません。
 換言すると、ラッセルはこういう時刻と場所の指定が無い文を、文脈を入力として命題を出力する関数と考えているのです。

[3] 引用の箇所は、『ヴェロナの二紳士』第5場。この場合、「縁組みがまとまる」が命題 p に当たります。犬が何と言っても縁組みがまとまるということは、犬がどんな命題を言っても p が真になるということです。
 シェイクスピアの翻訳は『シェイクスピア全集 I巻』(筑摩書房、1967) p.125 によりました。

[4] この定義は解釈の難しいところです。私は、ラッセルがここで与えている必然性と可能性の定義は、様相論理に属するものというよりは、モデル論の先駆であるように思います。必然性と可能性が「議論領域に相対的に決まる」という彼の定義は、「議論領域と述語のペアに相対的に決まる」という一般化まであと一歩の地点です。そうすれば、結局のところラッセルの必然性とは「あるモデルのもとで恒真」と同じことです。
 しかし、この定義を様相論理の先駆と見る少数派の研究者もいます。次を参照。Jan Dejnožka, "Russell on Modality"(2003)

[5] クロムウェルは1658年没、王政復古は1660年です。


著:B.ラッセル 1904
訳:ミック
作成日:2006/08/17
最終更新日:2006/08/17
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