真理と虚偽の本性について



 「真理とは何か」という問いは、幾つかの異なる理解の仕方がある問いの一つである。そこで答えを探し始める前に、私たちがこの問いをどのような意味で問うているのか、その意味を完全に明らかにしておくのが良いだろう。私たちは何が真であるかと問う。科学は真か? 啓示宗教は真か? 等々。だがこうした問いに答えることができるには、これらの問いが何を意味するかを言うことができなくてはならない。「科学は真か?」というとき、正確なところ、私たちは何を問うているのだろう? 私が論じたいのは、この予備的問題である。あれとかこれが真であるか否かという問いの解決は、もしそれが可能なものであるなら、「真理」という語の一般的考察によってではなく、あれとかこれについての考察によって行われるものである。しかしこういう問いを考える人は、恐らくすでに心の中に、「真理」が何を意味するかについての何らかの観念を持っているであろう。そうでなければ、この問いに対する答えはそうした人々にとって何ら確定的な意味を持ちえないからである。
 とはいえ、私たちが関心を持つ問題が「『真理』とは何を意味するか?」であるという合意が得られたとしても、それによって起こりうる曖昧さが除去されるわけでは、全くない。「どうすれば『真理』という語は適切に使われるか?」 これは辞書にとっての問いであって、哲学にとっての問いではない。しかもこの語には、私たちの探求とは明らかに無関係な、しかし完全に適切な使用法がある。例えば「真の」男とか「真の」詩といった使い方。こういう場合の「真」の意味は、私たちが関心を持つ意味とは異なる。さて、もう一度問おう、「『真理』という語を使うとき、人は普通何を心の中に思い浮かべるのか?」 この問いは、私たちが問うべき問いにより近い。だがこれでもまだ違う。人がある語を使うときにどのような観念を持つかというのは、心理学の問題である。しかも、二人の異なる人間が同一の語に帰属させるのが適切だと考える観念に関しては、二人の間でしばしば同意が見られるとしても、実際に二人が帰属させる観念の間にはほとんど共通点はない。
 私たちが論じるべき問いは、「真理」のような語の場合、私たちがみな、この語には哲学的に重要な何らかの基礎的概念が含まれているのだが、その概念が何かを明確にすることが難しいと感じている、ということを指摘することで説明されるかもしれない。私たちがやりたいのは、この基礎的概念を、私たちが「真理」という語を使うときにこの概念が埋め込まれている多くの有象無象から引き離し、私たちの真偽の区別が拠って発つ抽象的対比を、心の前に明確にもたらすことである。進むべき道は、本質的に分析的なものである。つまり、私たちは真と偽について、複合的で多かれ少なかれ混乱した種々の信念を持っているわけだが、それを単純明快な形式に還元せねばならないのである。そしてその際、私たちが最初に抱いていた複合的で混乱した信念と、最終的に得られた単純明快な主張との間の衝突は、避けられるものなら避けなければならない。最終的な主張の [妥当性の] テストは、一つにはその内在的明証性(intrinsic evidence)によって、また一つには「与件」に対する説明力によって行われる。こういう問題における「与件」とは、私たちが出発点とするあの複合的で混乱した信念のことである。こうした信念は、明らかになっていく過程で必然的に変化していくに違いないが、その変化は、最初の時点での混乱によって正当化されていた変化より大きくなってはいけない[1]。
 どういうものが偽ではなく真になるのかという問いは、私たちの探求には含まれない。だがここで少し、私たちが真理や虚偽を帰属させる物の本性について考えてみることも有益であろう。一般的に言って、私たちが関心を持つ意味で真とか偽と言われる物は、言明、信念または判断である1[2]。例えば、太陽が明るいのを見るとき、「真」なのは太陽そのものではなく、「太陽は明るい」という判断である。言明の真偽は判断の真偽によって定義できる。つまり、ある言明が真になるのは、それを信じている人が正しく信じている場合であり、偽になるのは、それを信じている人が間違って信じている場合である。ゆえに、言明の真理は信念の真理から導かれる観念であるから、真理の本性について考察する際は、判断の真理にのみ集中すればよいであろう。従って、私たちが論じるべき問題は、こうである。「真な信念と偽な信念の違いは何か?」 この問いで私が意味するところは、信念の真理と虚偽を現実に構成する違いは何か、ということである。私は、いわゆる真理の規準を要求しているのではない。すなわち、真である全てのものに属し、それ以外のものには属さないような、そういう真理以外の性質を要求しているのではない。真理の本性と真理の規準という、この区別をつけることは重要である。これまで哲学者は、必ずしもこの区別を十分に強調してこなかった。規準というのは一種のトレードマーク、つまり、真正性の保証となるような比較的明白な何らかの特徴のことである。「この商標のないものは本物ではない(None genuine without the label)」ということである。つまり商標とは、この商品を作ったのはどこそこの会社であるということを私たちに保証するものである。しかし、どこそこの会社がこの商品を作ったと言うとき、それは、その商品に正しい商標が貼られているということを意味しない。ゆえに、意味と規準は異なるものである。確かに、規準を有用なものにするのはこの相違に他ならない。だが今の私は、真理が普遍的にそういうトレードマークを持っているとは信じていない。私は、判断が偽ではなく真であることを、それによって知ることができるような商標の存在を信じていない。だがこれは私が論じたい問題ではない。私が論じたいのは、真理と虚偽が実際何であるのかということであって、余計なマークについてではない。たとえ私たちが真偽を認識できるのは、そのマークのおかげだったとしても、である。
 最初に明らかにすべき重要な点は、真理ないし虚偽と心の関係である。真または偽になる物は常に判断であると言うことが正しいなら、判断する心が存在しなければ真理と虚偽も存在しえないことは明白である。しかしまた、与えられた判断の真偽は判断者には全く依存せず、ただ彼が判断する事実にのみ依存するということも明白である。仮に私がチャールズ一世はベッドで死んだと判断するなら、私の判断は間違っている。だがその理由は、私とは何の関係もなく、実際にはチャールズ一世がベッドで死ななかったからである。同様に、私がチャールズ一世は処刑台の上で死んだと判断するなら、私の判断は正しいが、その理由は実際に260年前に起きた出来事による。従って、判断が真か偽かということには、常に客観的根拠がある。すると当然、真な判断の対象である客観的真理と、偽な判断の対象である客観的虚偽が存在するか否かが問われることになる。真理について考える場合、この見解は実にもっともらしく見える。しかし虚偽に関しては、およそありえそうになく思われる。だがいずれ見るように、たとえ嫌でも虚偽に関してこの見解を支持しなければ、真理に関するこの見解も支持することは困難なのである。
 信じる、疑う、信じない、把握する、知覚する、想像する――こうした全ての認識行為においては、心は自身とは異なる諸対象を持ち、その諸対象と様々な諸関係のうちの一つの関係を持つことになる。知覚のようなケースでは、このことは十分明白である。知覚される物と知覚行為は必ず相異なるものであり、知覚とは知覚する人間と知覚される物との間に成り立つ関係である。これに比べるとあまり明白ではないが、想像の場合にも同じことが言える。例えば私がある特定の色を想像するとき、その色は私の心の前にある対象であるということは、知覚のときと同様に正しい。しかし、想像の場合、色の私の心に対する関係は、色を知覚する場合の関係とは異なるし、私がその色を想像する場所に色が実在していると想定することもない。判断もまた、心と諸対象の関係から成る。しかし判断の場合、それを構成する関係について、二つの異なる理論を区別せねばならない。私が(例えば)チャールズ一世は処刑台で死んだと判断するとき、その関係は、私と単一の「事実」――すなわち、処刑台におけるチャールズ一世の死、あるいは「チャールズ一世は処刑台で死んだということ」――との間の[2項]関係なのだろうか、それとも、私とチャールズ一世と死と処刑台との間の[4項]関係なのだろうか? 最終的に私たちは、偽な判断もありうることから、後者の見解を採用せざるをえないと結論するだろう。しかしまず最初に、判断は単一の対象を持つという見解を検討することにしよう。
 もしあらゆる判断が、その真偽に関わらず、判断や信念の単一の対象に対するある特定の関係、つまり「判断する」とか「信じる」という関係において成り立つものだとすれば、判断に適用される真偽の区別は、判断の対象に適用される真偽の区別から派生することになる。そのような諸対象が存在すると仮定して、マイノングに倣ってその諸対象に「客観物」という名前を与えよう。そうすると、あらゆる判断は一つの対象を持つ――真な判断は真な客観物を、偽な判断は偽な客観物を持つということになる。従って、真理と虚偽の意味についての問いを考察する際は、第一に客観物について考えねばならず、私たちは、客観物を真な客観物と偽な客観物へ振り分ける何らかの方法を見つけねばならないであろう。しかしながら、これを実行するのは非常に難しい。真な判断だけを考える限りは、判断が客観物を持つというこの見解はもっともらしいものだ。この場合は、私たちが「処刑台におけるチャールズ一世の死」と記述する現実の出来事が「チャールズ一世は処刑台の上で死んだ」という判断の客観物としてみなすことができる。しかし「チャールズ一世はベッドで死んだ」という判断の客観物は何であろう? 「ベッドにおけるチャールズ一世の死」などという事実は存在しなかった。「ベッドにおけるチャールズ一世の死」のような物が存在したと言うことは、チャールズ一世はベッドで死んだと言うことの別の言い方に過ぎないのである。従って、もし客観物が存在するなら、それは「ベッドにおけるチャールズ一世の死」とは異なる何かでなければならない。私たちはそれを「チャールズ一世がベッドで死んだということ」だと考えるかもしれない。すると私たちは、真な判断についても同様のことを言わねばなるまい。つまり、「チャールズ一世は処刑台の上で死んだ」は「チャールズ一世が処刑台の上で死んだこと」だということになる。
 しかしながら、この見解には二つの反論がある。第一に、「チャールズ一世がベッドで死んだということ」のような対象はもとより、「チャールズ一世が処刑台の上で死んだということ」のような対象でさえ存在するとは信じがたい。「ソクラテス」のような語と違って、「しかじかということ」という句は、それ単独では、確定的な対象を表示することを可能とする完全な意味を持たない。私たちの感覚では、「しかじかということ」という句は本質的に不完全であり、判断を表現するための言葉が付加されて初めて、すなわち「私はしかじかということを信じる」、「私はしかじかということを否定する」、「私はしかじかということを期待する」という形となって初めて、有意味性を持つものである。従って、「しかじかということ」を独立した実体とみなすことを回避できれば、パラドックスからも逃れられる。この議論は決定的なものではないが、一考して然るべきである。
 第二の反論は、もっと致命的で、真理と虚偽の考察により密接な関係を持っている。もし私たちが全ての判断が客観物を持つことを認めるなら、また偽な客観物が存在することも認めねばならない。そうすると世界には、判断の実在に依存しない実体が存在するということになる。それを客観的虚偽と言うことができる。この考えは、それ自体およそ信じがたいことである。私たちは、誤りを犯す心がなければいかなる虚偽もありえないと感じる。しかし、それよりさらに大きな難点は、この見解が真理と虚偽の違いを全く説明不可能なまま放置することである。私たちの感覚によれば、正しく判断しているときには、判断の外側に見出される何らかの実体が私たちの判断に「対応している」のだが、間違って判断しているときには、その種の「対応する」実体などない。この実体として、単純に判断の文法的な主語を考えることができないのは確かである。例えば、私たちが「ホメロスは実在しなかった」と判断するとき、判断が真のときには見出されるが、偽のときには見出されない実体とやらがホメロスでないことは明白である。それでもやはり、判断の真偽がある種の「対応する」実体の存在と不在に何らかの仕方で依存するという考えを捨てるのは、難しいことである。そしてこの見解を捨てて、真な客観物と偽な客観物の両方が存在するという見解に固執するなら、真な客観物と偽な客観物が存在することを究極的でこれ以上説明不可能な事実として受け入れざるをえないであろう。この見解は、論理的に不可能というわけではないが、不満足なものであり、真理と虚偽の違いにまつわる神秘性をより減殺する見解を見つけられるなら、そちらを支持するのが望ましいであろう。
 それなら単に、真な判断は客観物を持つが偽な判断は持たないと言えばよいではないか、と思われるかもしれない。しかし、客観物に新しい定義を与えればこの見解も批判に耐えうるものになるかもしれないが、判断は実際には心の客観物に対する関係であるという見解を保持する限り、それは難しい。というのも、この見解によれば、現に偽な判断が存在し、関係はその対象を持たないわけにはいかないのだから、偽な判断も真な判断と同様に客観物を持つと認めざるをえないからである。従って私たちは、判断が単一の対象に対する関係において成立するという見解を捨てねばならない。この見解を偽な判断の場合には拒否しておきながら、真な判断のときだけ採用する、ということはできない。もしそんなことをすれば、真な判断と偽な判断の内在的相違(intrinsic difference)を認めることになり、判断の内在的性質を調べるだけでその真偽を発見することが可能になるであろう(だがそんなことは明らかに不可能である)。従って私たちは、いかなる判断も単一の対象に対する関係において成立するのではないという理論へ立ち返らねばならない。
 これまで考察してきた見解の難点は、それが私たちに、客観的虚偽の存在を認めるか、偽な判断を行なうときは判断の対象が存在しないことを認めるか、いずれかの選択を迫るところあった。この難点から逃れる方法は、正しく判断する場合でも間違って判断する場合でも、私たちが判断する単一の物が存在するのではないと考えることである。チャールズ一世は処刑台の上で死んだと判断するとき、私たちは自らの前に一つの対象ではなく、複数の対象を持っているのである。すなわちそれは、チャールズ一世、私、死、処刑台である。同様に、チャールズ一世はベッドで死んだと判断するとき、私たちは自らの前に、チャールズ一世、私、死、ベッドという諸対象を持っているのである。これら偽な判断の場合の諸対象は虚構ではない。真な判断の場合の諸対象と全く同様にまともである。こうすることで、客観的虚偽を認める必要も、偽な判断をする場合は心の前に何もないと認める必要もなくなる。従ってこの見解によると、判断は複数の項に対して心が持つ関係ということになる。これら心以外の複数の項が、それぞれ「対応」関係を持つ場合、判断は真である。逆に持たなければ判断は偽である。私はこの見解が正しいと信じている。そこで、これをさらに深く説明し、展開せねばならない。
 判断とは複数の物(例えばチャールズ一世、処刑台、死)に対して心が持つ関係であると言うことで、私は、心がチャールズ一世と特定の関係を持ち、かつ、心と処刑台も関係を持ち、かつ、心と死も関係を持つ、ということを意味しているのではない。とはいえ、判断を行なうとき、私たちが判断の構成要素のそれぞれと個別的に関係を持つことを否定するつもりもない。なぜなら、私たちは判断を行なうとき、確かに何らかの形でそれら構成要素を意識せねばならないと思われるし、それゆえどんな判断をしている間でも、ある関係、すなわち判断の各構成要素に対して「それを意識する」と呼びうるような関係を持たねばならないと思われるからである。これはとても重要な事実ではあるが、判断の本質を与えるものではない。「チャールズ一世は処刑台の上で死んだ」という判断を与えるのは、チャールズ一世、死、処刑台と個別に関連を持つものではないのである。私たちはこの判断を得るために、心、チャールズ一世、死、処刑台についての単一の統一体(single unity)を持たねばならない。すなわちそれは、複数の2項関係の実例ではなく、2項以上の間の一つの関係の実例である。こうした関係は、数学者には馴染み深いものだが、哲学者からはこれまで不当に無視されてきた。私が思うに、この関係は真理にまつわる多くの難問を解く鍵を与えてくれる。そこで、少し脱線してでも、この関係が一般的なものであり、よく知るべきものであることを示したいと思う。
 2項以上の関係が現れる最も一般的なケースは、ある特定の時刻に起きた事柄に関する命題の場合である。「5月にはAはBを愛していた、かつ、6月にはAはBを憎んでいた」という命題を例にとり、これが真であると想定しよう。すると、日時を無視して、AはBに対して愛という関係を持っているとか、憎しみという関係を持っていると言うことはできない。このように日時を指定する必要性は、日常の全ての関係について生じるわけではない。例えばAがBの兄であれば、日付を指定する必要などない。この関係は常に成立するか、全く成立しないかのどちらかである。あるいは(より厳密に言えば)時刻に関わりなく成立または不成立になる。しかし愛や憎しみは「時の道化」であり[3]、日付に関わりなく成立する関係ではない。「5月にはAはBを愛していた」は、単純にAとBの間の関係なのではなく、AとBと5月の間の関係なのである2。この関係を、AとBとの関係、Aと5月との関係、Bと5月との関係に分析することはできない。つまり、この関係は単一の統一体なのである。時間と変化の哲学において困難を引き起こした原因の一つは、日付がこうした関係の項の一つであることを看破できなかったことである。
 別の例として、嫉妬という関係を考えよう。ここでも愛と憎しみの場合と全く同様に時間が入り込んでくるのだが、当面の間、時間のことは少し忘れよう。というのも、嫉妬について特筆すべき点は、それが3人の人間を巻き込む関係だからである。嫉妬を主張する命題で、考えうる限り最も単純なのは「AはCに対するBの愛を嫉妬している」とか「AはCのせいでBに嫉妬している」のような命題だ。もしかしたら「Cに対するBの愛」はこれで一つの項で、Aをもう一つの項として考える解釈もあるかもしれないが、この解釈は勘違いの嫉妬の場合には適用できない。もしAがオセロなら「Cに対するBの愛」など存在しない。ゆえにこの解釈は不可能であり、嫉妬は3人の人物間の関係、すなわちいわゆる「三角関係」というやつを統一体として持つと考えざるをえない。これに日付の必要性を考慮するなら、この関係は「四角関係」になる。つまり、この関係を含む考えうる最も単純な命題は、3人の人物と日付という4項に関連する命題ということになる。
 このように、二つ以上の項を必要とする関係に「多重関係(multiple relation)」という名前を与えよう。従って、ある関係が現れる最も単純な命題が2項以上を含む関係(この関係自身は項に数えない)の場合、その関係は「多重関係」である。これまでに述べてきたことから、多重関係がごくありふれたものであり、多くの事柄がこれを援用しなくては理解できないのは明白である。これに対し、ちょうど2項だけを持つ関係を「2項関係(dual relation)」と呼ぶことにする。
 私が提唱する判断の理論は、判断とは心と単一の客観物の2項関係ではなく、心と、判断が関連する様々な項との多重関係である、というものである。例えば、もし私がAはBを愛していると判断するなら、その判断は私と「Bに対するAの愛」という[2項]関係ではなく、私、A、愛、Bの[4項]関係である。もし仮に、私と「Bに対するAの愛」との間に関係が存在するのなら、私の判断は、「Bに対するAの愛」なる物が存在しない限り、すなわちAがBを愛していない限り、すなわちこの判断が真でない限り、不可能である。ところが現実には偽な判断も可能なのである。判断を、私、A、愛、Bの関係として捉えると、判断が生じるという単なる事実には、その対象であるA、愛、Bとの間のいかなる関係も含まれない。ゆえに偽な判断の可能性も十全に許容される。この判断が真な場合、AはBを愛する。ゆえにその場合、判断の諸対象の間にはある関係が存在することになる。以上のことから、私たちは真理と虚偽の違いについて次のように言うことができる。すなわち、あらゆる判断は心と複数の対象との関係であり、その対象の一つは関係である。判断が真になるのは、対象の一つであるその関係が、実際に他の諸対象と関係する場合であり、そうでない場合は判断は偽である。例えば上の例で見ると、愛は関係であり、判断の対象の一つである。そして愛がAとBに関係していれば、判断「AはBを愛する」は真になる。これまでに述べたことは、後で幾つか補足すべき点はあるものの、当面のところは第一近似として考えていいだろう。
 この理論の利点の一つは、判断と知覚の違い、および、なぜ知覚は判断が陥りがちな誤りを犯さないのかの理由を説明できる点である。判断を心と単一の客観物の2項関係だと考えると、真な判断に関する限り、この理論は実にうまく機能していたが、偽な判断がありうることを説明できなかった。ところで、この難点は知覚の対応説に対しては当てはまらない。確かに、夢や幻覚のように知覚が誤りを犯すように見えるケースもあるのだが、私の信じるところでは、そういう場合でも知覚そのものは正しいのであり、間違っているのは知覚に基づいた判断である。このテーマを発展させると、感覚与件(私たちが直接知覚する物)といわゆる物理的実在――私たちや私たちの知覚とは独立に存在するもの――の関係について論じる必要があるため、今の主題からは大きく脱線してしまう[4]。今はこの議論の結果を仮定して、知覚は判断と違って決して誤らないこと、すなわち私たちが何かを知覚するときは、少なくともそれを私たちが知覚している間は、知覚されたものは必ず実在するということを認めたい。
 知覚のこの不可謬性を認めるなら、判断には適用できなかった単一の客観物の理論を、知覚に対してなら適用できるようになる。例えば、空間的関係のようなケースを考えよう。いま私がテーブルの上にナイフと本を同時に見ており、ナイフは本の左にあるとする。このとき知覚は私に、ナイフと本が特定の位置関係にある(他の諸対象についても同様だが、今は無視する)ことから成る複合的対象を与えている。この複合的対象に注意を向けてこれを分析すれば、「ナイフは本の左にある」という判断に到達できる。この場合、ナイフ、本、空間的関係は、別々に私の心の前に存在している。しかし知覚においては、「本-の-左-の-ナイフ」という単一の全体を持っている。従って、私は知覚においては単一の複合的対象を持つのだが、一方で知覚に基づく判断においては複合的対象の諸部分を別々に、しかし同時に、自分の前に持つのである。「本-の-左-の-ナイフ」のような複合的対象を知覚するためには、そのような対象が存在せねばならない。なぜなら、そうでなければ私の知覚は対象を持たないことになり、知覚という関係が知覚者と知覚物という2項を必要とする以上、これはすなわち知覚がなかった、ということになるからである。だがもし「本-の-左-の-ナイフ」のような対象が存在するのなら、ナイフは本の左になくてはならない。従って、「ナイフは本の左にある」という判断は真でなくてはならない。従って、任意の知覚の判断は、つまり分析するだけで知覚から直接導かれる全ての判断は、真でなくてはならない。(だからといって、いかなる意味においても、しかじかの判断が真であると完全に確信することが可能になるわけではない。私たちは、知覚において与えられたものを分析するだけでも、不注意な失敗をやらかしかねないのだから。) このように、知覚に基づいた判断の場合、その判断に対応して、知覚される複合的対象が一つの複合物として存在することが分かる。判断はその知覚に基づいて行なわれるのである。判断が真であるのは、そのような複合的対象が存在するためである。この複合的対象は、それが知覚される場合は知覚の客観物であるが、知覚されない場合でも、なお判断が真であるための必要十分条件である。「処刑台の上におけるチャールズ一世の死」という複合的出来事は存在した。それゆえ「チャールズ一世は処刑台の上で死んだ」という判断は真である。「ベッドにおけるチャールズ一世の死」という複合的出来事は存在しなかった。それゆえ「チャールズ一世はベッドで死んだ」という判断は偽である。もしAがBを愛しているのなら「Bに対するAの愛」という複合的対象が存在するし、愛していなければ存在しない。ゆえに複合的対象の実在が「AはBを愛する」という判断に対する真理条件を与えることになる。他の全ての場合についても同様である。
 今や私たちは、真理を構成する「対応」の厳密な説明を試みることができる。「AはBを愛する」という判断を例に取ろう。この判断は、判断者、A、愛、Bの関係から成る。すなわち、AとBという二つの項と関係「愛」に対して判断者が持つ関係から成る。しかしこの判断は「BはAを愛する」という判断と同じではない。ゆえにこの関係は、抽象的に心の前に存在することはありえない。BからAではなく、AからBに向かっていく関係として存在するのでなくてはならない。この判断を真にするために必要な、「対応する」複合的対象は、Bと関係付けられたAから成るのであり、AをBと関係付ける関係こそ、この判断において私たちの前に存在した関係なのである。ある関係がAからBに向かうかBからAに向かうかに応じて、二つの「方向」を区別することができる。それゆえ判断に含まれる関係も必ず「方向」を持ち、対応する複合物に含まれる関係も同じ「方向」を持つ。従って、二つの項が特定の関係Rを持つという判断は、二つの項と適当な方向を持つ関係Rに対して心が持つ関係なのである。その判断に「対応する」複合物を構成するのも、同じ方向を持つ関係Rによって関係付けられた二つの項である。そのような複合物が存在すれば判断は真であり、存在しなければ偽である。他の任意の判断についても、少し修正を加えるだけで同じ説明が適用される。これが真理と虚偽の定義を与える説明である。
 上述の説明に従えば、真理と虚偽がもっぱら判断の性質であり、ゆえに心がなければ真理も虚偽も存在しないことが理解されるだろう。だがそれでいて、与えられた判断の真偽は判断者や判断が行なわれた時刻には依存しない。なぜなら、判断の真偽が依存する「対応する」複合物は、判断者を構成要素に含まないからである(もちろん、その判断がたまたま判断者自身についてのものである場合は例外である)。こうして、本論の前半で真理の特徴として挙げた、心に対する独立性と依存性の混在は、私たちの理論によって完全に保存される。
 何が真であり何が偽であるかという問いは、私たちがそれについて何を知るにせよ、またどのようにして知るにせよ、「真理とは何か」という問いより後に来るものである。それで私は、知覚の判断の場合を一時的な例外として、これまでの議論においてその種の問いを避けてきた。その理由は、そうした問いがつまらないものだからではなく、喫緊の問題が混乱するのを避けるためである。哲学の進歩が遅い理由の一つは、大抵の人にとって哲学の基礎的問題があまり面白いものではないため、どうしても基礎をおろそかにして先を急ぎがちだからである。この傾向を抑えるには、基礎的問題だけを孤立させて、もっと後の展開とは極力関連させないようにして考察することである。そしてこれこそ、基礎的問題の一側面においてであるが、私が本論において試みたことなのである。


原註
1 私は信念と判断を同義語として使う。

2 私は時間の本性についてのいかなる理論も仮定するつもりはない。「5月」は読者の好きなように解釈してかまわない。このテキストにおける言明はもう少し複雑なものにしなければいけないが、それでも2項以上の関係が必要になる点は変わらない。


訳註
[1] 原文は「the change shuould not be greater than is warranted by their initial confusion」。意味するとところは、分析によって信念の混乱が正されることは構わないが、あまりに分析の影響を受けすぎて信念についての考え方が変化してしまうと、テスト基準として意味をなさなくなってしまう、ということでしょう。

[2] 初期ラッセルは、真偽が帰属するのは命題であると考えていました。(例えば『数学の原理』第13節を参照) しかしこの論文の時期(いわば中期ラッセル)には、真偽が帰属するのは判断または信念であると考えを改めました。その理由は、偽な命題(すなわち偽な事実 = 客観的虚偽)の存在を前提せずとも真理論を構築できると考えたためです。(偽な命題の存在が論理的に否定されたからではありません。)

[3] 「Love is not time's fool」はシェイクスピアのソネット116番に登場する文句です。

[4] 感覚与件と実在の関係については、この論文の2年後に書かれた『哲学の諸問題』第1章が参考になるでしょう。


著:B.ラッセル 1910
訳:ミック
作成日:2005/08/16
最終更新日:2005/08/16
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