訳註
[1]
ラッセルもここで言うように、
バークリーが否定したのは「物質」の外在的実在性であって、物質の存在そのものを否定したわけではありません。「物を観念にするのではなく、観念を物にするのが私の考えだ」という主張からも分かるように、バークリーは観念こそ物質であり、存在する唯一のものであると考えました。それゆえバークリーの哲学はしばしば「観念一元論」と呼ばれます。ただしバークリーの考える観念とは、心的イメージを指す普通の用法と違って、人間の感官に与えられる知覚(感覚与件)のことなので、むしろ「知覚一元論」と呼ぶのが適切でしょう。
[2]
このラッセルのデカルト批判は論理的に正しい、と私は思います。「思惟が感じられる」ということから、この世界が空ではなく、少なくとも一つのものが存在することが導けます。しかしその「存在するあるもの」が、持続的に存在する「私」であると結論するのは、無根拠な断定です。
デカルトがこのような勇み足をしてしまった理由は、恐らく、彼の使っていたラテン語またはフランス語の動詞が、人称に応じて語尾変化してしまうため、その表現に主体の同定が暗黙に含意されていたためです。ラッセルは、この間違いを避けるために注意深く受動態を使用します。(日本語の動詞は人称変化しないので、こういう心配は不要です。)
かつてニーチェも「思惟という活動がある」ことを一語で表現するには、受動態の「cogitatur」を使って「思惟がなされる」とでもするほかない、と提案したそうですが、これもラッセルと同様の批判だと考えられます。
[3]
この見解に対するラムゼイの論文
「知識」における批判も参照。