ホームバートランド・ラッセル


哲学の諸問題



 I. 現象と実在
 II. 物質の実在
 III. 物質の本性

序文

 私は以下において、自分が肯定的で建設的なことを言いうると考えた哲学の諸問題に限定して、意見を述べようと思う。ただ否定的なだけの批判は、本書で述べるにはふさわしくないからである。この理由から、本書においては形而上学よりもずっと多くの紙面が知識論に割かれており、他の哲学者たちによって盛んに議論されている幾つかのテーマは、扱われているとしてもごく簡単に済まされている。
 私は、G.E.ムーアと J.M.ケインズの未発表の論文から有益な援助を受けた。ムーアからは感覚与件の物理的対象に対する関係について、ケインズからは確率と帰納の哲学について、多くを教わった。またギルバート・マリー教授からも、非常に価値ある批判と示唆をいただいた。

  1912年

第17刷への注釈

 44, 75, 131, 132ページの論述について一言注意が必要である。この本が書かれた1912年の前半では、中国はまだ帝国であり、 [イギリスの] 前首相の名前はBで始まっていた。



I. 現象と実在

 この世界には、理性的な人間なら誰一人疑うことのできないほど確実な知識、というものがあるだろうか? この問題は、一見すると難しいとは思わないかもしれない。しかし実は、最も解答困難な問題の一つである。この問題に直接的で自信に満ちた解答を返すことを邪魔する障害を認識したとき、私たちは哲学の研究を始めることになるであろう。―― なぜなら哲学とは、不注意や独断に陥ることなしに、こうした問題に究極的解答を与えようとする試みに他ならないからである。こうした試みは、日常生活や、あるいは科学においてさえ行われていることであるが、哲学の場合、解答を与えるのは、問題を難しくしている全ての要素を暴き出し、私たちが日常使う観念に潜む全ての曖昧さと混乱を認識した後なのである。

 日常、私たちは特定の多くの物事を仮定しているが、より厳密に調べると、それらは明らかな矛盾に満ち溢れていることが見出される。それゆえ、何を本当に信じてよいかを知るには、膨大な思考を積み重ねるしかない。確実性の探究においては、私たちの現在の経験から出発するのが自然であり、またある意味において、知識が経験から引き出されるということも疑いない。しかし、直接的な経験が私たちに知らせるものについてのいかなる言明も、極めて誤りやすいものである。私は今椅子に座っていると思われる。前には机があり、上には手書きや印刷された紙が何枚か置いてあるのが見える。後ろを向くと、窓の外には建物と雲と太陽が見える。私は、太陽が地球からおよそ 9300 万マイルの距離にあること、それが高熱の天体で地球の何倍もの大きさであること、地球の自転によってそれが毎朝昇ること、そして正確にどれだけの期間かは分からないが、この先も当分は毎朝昇ることを信じている。さらに私は、他の普通の人が部屋に入ってくれば、彼も私が見るのと同じ椅子と机と紙を見ること、私が見る机は私が腕で押すと感じる机と同じであることを信じている。こうした全てのことは、非常に明白に思われるので、わざわざ口に出して言う価値があることだとは ―― 私が何かを知っていることを疑う人に答える場合を除けば ―― 到底思えない。しかしそれでも、これら全ては理性的に疑いうることであり、その懐疑の全てを極めて慎重に議論した後でなければ、これらが完全に真であると断言することはできない。

 私たちの困難を簡単にするために、机に議論の焦点を当てよう。眼に見える机は長方形で、茶色で、光沢を放っている。触ると滑らかで冷たく、堅い感触がある。軽く叩くとごつんという音がする。私以外の誰でも、この机を見て、触って、音を聞けば、私の描写に賛成するだろうし、従って何の問題も起こらないように思われる。しかし、より厳密に考えようとすれば、すぐに困難に突き当たる。私は机全体が「本当は」同じ色をしていると信じているが、光を反射している部分は他の部分よりも明るく見えるし、またある部分は反射光のために白く見える。私は、自分が移動すれば光を反射する部分も変わり、机の見た目の配色も変化することを知っている。それゆえ、複数の人間が同じ瞬間に机を見ているとしても、そのうちのどの二人も正確に同じ配色を見ることはないであろう。なぜなら、どの二人も全く同じ視点から見ることは不可能であり、視点が異なれば光の反射の仕方も異なるからである。

 大抵の実際的な目的のためには、この違いは重要ではない。しかし画家にとっては極めて重要である。画家は、物には「本当」の色があるという常識的な思考習慣を捨て、物をあるがままに見る習慣を身に付けるよう努力せねばならない。既にここに、哲学において大きな困難を引き起こす区別の一つが、その端緒を見せている ―― それが「現象(apearance)」と「実在(reality)」の間の区別、つまり、物が見える様子と、物の本当の姿の間の区別である。画家は物が見える様子を知りたがり、実際的な人間と哲学者は物の本当の姿を知りたがる。ただ、哲学者の欲求は実際的な人間のそれよりも強く、また、この問題に答える際の困難をよく知っているために、より酷く悩まされるのである。

 机に話を戻そう。これまでの議論から、他の色を差しおいて「これぞこの机の色である」と言えるような色がないことは明白である。それどころか、机の特定の一部分についてでさえ、そんな色はない ―― 机は異なる視点からは異なる色に見えるのであり、ある特定の色が他の色よりも本当の色に近い、などということはない。そしてさらに私たちは、たとえ視点を固定したとしても、人工光を当てたり、色盲の人や青い眼鏡をかけた人が見た場合には、机の感触や音は同じなのに色は異なって見えること、一方、暗闇では何の色も見えないことを知っている。色というのは、机に固有の何かではなく、机と観察者と光の当たり方に依存するものである。日常生活で私たちが机の色について話すとき、それはただ、よくある光の状況で普通の視点から正常な観察者が見るときの色を意味しているに過ぎない。しかし、異なる状況下で見える異なる色も、同じぐらい本当の色だとみなされる十分な権利を有している。それゆえ、色についてのえこひいきを自制すれば、机自身が何か特定の色を持つということを否定せねばならない。

 同じことが質感にも当てはまる。肉眼では机の木目は見えるが、それ以外の点では机は平滑に見える。もし私たちが顕微鏡を通して見るなら、粗さやでこぼこなど肉眼では知覚できないあらゆる種類の違いを見るに違いない。さてそれでは、肉眼で見る机と顕微鏡を通して見る机、どちらが「本当の」机なのだろうか? 当然、私たちは、顕微鏡で見た机の方がより本当に近いと言いたくなる。しかしもっと倍率の高い顕微鏡で見れば、そちらの方がより本当に近いということになるだろう。それなら、肉眼で見えるものを信用することができないのに、なぜ顕微鏡を通して見たものを信用せねばならないのか? だから、繰り返しになるが、結局、私たちが最初に手掛かりとする感覚を、信用することはできないのである。

 机のについても状況は改善しない。私たちは皆、物の「本当の」形について判断する習慣を持っており、普段はそれを無反省に行なっているため、つい実際に本当の形を見ているのだと思い込むようになる。しかし、もし実際に絵を描こうとするなら、異なる視点からは異なる形に見えることを学ぶことになる。机が「本当は」長方形であるとしても、ほとんどどの視点からは二つの鋭角と二つの鈍角を持っているように見えるし、反対の辺が平行であるとしても、観察者からは先へ行くほど一点へ収束していくように見える。また、辺が同じ長さであっても、近い側の辺の方が長く見える。普段机を見る際は、こうしたことに注意を払うことはない。なぜなら、私たちは経験によって、見た目の形から「本当の」形を構成することを知っており、実際家としての私たちが興味を持つのも、この「本当の」形だからである。しかし「本当の」形は私たちが見る形ではない。それは私たちが見るものから推測されるものである。そして私たちが見るものは、私たちが部屋の中を動くにつれて絶えずその形を変えてゆく。それゆえ、この場合もまた、感覚は私たちに机そのものについての真実を教えず、ただ机の現象を教えるだけである。

 触覚について考える時も、同様の困難が生じる。机が常に堅さの感覚を私たちに与えることは事実であり、私たちは机が圧力に抗しているように感じる。だがそうして得る感覚は、机を押す強さと、どの部分を押すかに応じて変化する。それゆえ、圧力の強さと押す部分によって様々に変わる感覚は、机のいかなる確定的な性質も直接的に明らかにするとは考えられず、せいぜい、全ての感覚の原因でありながらどの感覚の中にも実際には現れていない、何らかの性質を示す記号としか考えられない。そして、机を叩いたときの音にも同じことが当てはまることは、一層明白である。

 それゆえ、本当の机は、もしそれが存在すればだが、私たちが見たり触ったり聞いたりして直接経験する机と同じものではない。本当の机は、たとえ存在するとしても、決して私たちに直接知られるものではない。それは私たちに直接知られるものから推測されるものでなければならない。以上のことから即座に二つの難問が浮上する。すなわち、

     (1)本当の机などあるのだろうか?
     (2)もしあるなら、それはどのような種類の対象でありうるのか?

 これら二つの問題を考える際には、確定的で明確な意味を持つ簡単な用語を幾つか導入しておくと役に立つ。そこで、感覚において直接知られる物を「感覚与件(sense-data)」と呼ぶことにしよう。色や音、匂い、堅さ、粗さなどがこれに含まれる。そして感覚与件を直接知る経験を「感覚」と呼ぶ。この用法に従えば、私たちがある色を見るときは常に、私たちは色感覚を持っているのであって、色それ自体は感覚与件であり感覚ではない。色は私たちが直接感知する対象であり、感知そのものは感覚である。私たちが机について何かを知ることができるとすれば、それは、私たちが机と結びつけている感覚与件――茶色、長方形の形、滑らかさ、等々――を通してでなくてはならない。しかし、これまで見てきた理由によって、机は感覚与件であると言うことはもとより、感覚与件は机の直接的な性質であると言うことさえできない。従って、感覚与件の本当の机(存在すればだが)に対する関係に関する問題が浮上することになる。

 本当の机を、これが存在するとして、「物理的対象(physical object)」と呼ぶことにしよう。すると私たちは、物理的対象に対する感覚与件の関係について考察しなければならない。全ての物理的対象は一括して「物質」と呼ばれる。すると先の二つの問題は、次のように言い直すことができる。

     (1) 物質というようなものがあるのか?
     (2) もしあるなら、その本性は何だろうか?

 私たちの感覚の直接の対象は、私たちと独立に存在するのではないという議論を最初に言い出した哲学者は、バークリー司教(1685-1753)である。彼の『懐疑論と無神論に反対するハイラスとフィロナウスとの間で交わされた3つの対話』では、物質のごときものは全く存在しないこと、および、世界は心と心の中の観念だけから構成されていることが証明されている。ハイラスは最初、物質の存在を信じていたのだが、フィロナウスには全くかなわない。彼は容赦なくハイラスを矛盾とパラドクスに追い込み、ついには物質の存在を自ら否定することこそ、殆ど常識に適うことであるかのように思わせるのである。フィロナウスの操る議論は玉石混交である。重要で健全な議論もあれば、混乱しているか詐欺まがいの詭弁もある。しかし、物質の存在を矛盾なしに否定できること、および、もし私たちと独立に存在する物があるなら、それらは私たちの感覚の直接的対象ではありえないということを示したのは、やはりバークリーの功績である。

 物質が存在するか否かを問うとき、そこには二つの異なる問いが考えられる。そしてこれら二つの問いを明確にしておくことは重要である。普通私たちは「物質」という語で「心」に対立する何か、すなわち、空間を占有し、思考も自意識も全く行なうことのできない何かを意味する。バークリーが物質を否定するのも、主にこの意味においてである。つまり彼は、私たちが普段机の存在を示す証拠として考える感覚与件が、私たちとは独立に存在する何かの記号であることを否定するのではない。そうではなく、彼が否定するのは、その何かが心的なものでないということ、つまり、それが心や心によって保持される観念ではない、ということである。 [つまりバークリーは、その何かは心的なものだと主張する。] 彼とて、私たちが部屋から出たり眼を閉じたりしても、存在しつづける何かがあるに違いないということ、そして、いわゆる机を見ることが、目を閉じても存続する何かの存在を信じる理由を私たちに与えるということは認める。しかし彼は、その何かは私たちが見るものと本性において全く異なるものではありえないし、それは私たちが見ることからは独立でなくてはならないが、しかし見ることから独立に存在するのではありえないと考えている[1]。それゆえ彼は、「本当の」机は神の心の中の観念であると考えるに至ったのである。そうした観念は、永続性と私たちからの独立性を要求するが、全く不可知――時に物質はそう言われるのだが――というわけではない。私たちはそれを直接に意識することは決してできないが、推定することだけはできるのである。

 バークリー以後の哲学者もまた、机は私たちから見られることには依存せず存在するが、とにかくある心によって――神の心である必要はなく、むしろ宇宙の全体的集合心というものの方がしばしば考えられてきた――見られること(あるいは感覚によって把握されること)には依存すると考えてきた。彼らがバークリーに倣ってこのように考えた主な理由は、心や思考、感情以外には何ものも存在しえない――少なくとも存在することが知られえないと考えたからである。彼らが自らの見解を擁護する論法は、次のように述べられるだろう。「考えうるものは全て、それを考えている人間の心の中の観念である。従って、心の中の観念以外に考えうるものは存在しえない。従って、それ以外のものは知覚不可能であり、知覚不可能なものは存在し得ない。」

 私の見解では、この手の議論は間違っている。もちろんこの主張をする人々は、これほど手短に露骨に論を展開しているわけではない。しかし妥当にせよそうでないにせよ、この議論は様々な形で広く蔓延してしまっている。そして非常に多くの哲学者、おそらくは大部分が、心と心の中の観念以外には何も存在しないと考えている。そうした哲学者は「観念論者(idealist)」と呼ばれる。彼らは物質について説明する際には、バークリー流に「それは実際のところ観念の集合である」と言うか、ライプニッツ(1646-1716)流に「物質のように見えるものは、実際は、多少なりとも根元的な心 [=モナド] の集合である」と言うかのどちらかである。

 しかしこうした哲学者たちは、心と対立する意味での物質を否定するが、別の意味での物質の存在は認めるのである。私が提示した二つの質問を思い出して欲しい。(1)そもそも本当の机は存在するのか? (2)もし存在するなら、それはどのような種類の対象でありうるのか? さてバークリーとライプニッツは共に、本当の机が存在することは認めるが、バークリーは、神の心の中の特定の諸観念であると言い、ライプニッツは、心の集まりであると言う。それゆえ、両者とも(1)の問いには [一般の人々と同様] 肯定的に答えており、一般の人々の見解と相違するのは(2)の問いに対する答えだけである。実際、ほぼ全ての哲学者は、本当の机が存在することには同意していると思われる。つまり彼らは、私たちの感覚与件――色、形、滑らかさなど――がどれほど私たちに依存しようとも、そうした感覚が生じるのは、私たちとは独立に存在する何かが――私たちが机と適切な関係を持てば必ず得られる感覚与件とは恐らく全く異なる何かが――あることの証拠であるという点に同意している。

 さて、多くの哲学者が一致して認めるこの論点、つまり、その本性が何であれ、本当の机は存在するという見解は、極めて重要であり、本当の机の本性に関する問題へと進む前に、この見解を受け入れるいかなる理由があるのかを検討することは、一考の価値がある。そこで次章では、そもそも本当の机が存在すると想定すべき理由について考える。

 先へ進む前に、少し足を止めて、これまでに明らかにしたことを要約しておこう。私たちが感覚によって知ると考えられている種類の普通の対象 [例えば机] について考えると、感覚が私たちに直接知らせることは、私たちとは独立の対象についての真理ではなく、私たちが知ることができる限りでは、私たちと対象との間の関係に依存した特定の感覚与件についての真理に過ぎないと思われた。従って、私たちが直接見て、感じるものは「現象」に過ぎず、私たちはそれを、背後に控える何らかの「現実」を表す記号だと信じている。だがもし現実が [私たちの感覚に] 現れないものだとしたら、そもそも何らかの現実が存在するか否かを知る手段があるだろうか? そしてもし手段があるなら、それがいかなるものであるかを発見する手段を私たちは持っているだろうか?

 こうした疑問は悩みの種であり、これらの奇妙な仮説が真か否かを知ることさえ困難である。それゆえ、これまでは私たちに少しの疑問も起こさせなかったこの見慣れた机も、驚嘆すべき様々な解釈を可能にする問題へと変身するのである。私たちがこの机について知っている唯一のことは、それが現にあるように見えるものではない、ということである。私たちには、この穏健な結論以上に、幾らでも推測を行なう自由があった。ライプニッツは心の集まりであると教え、バークリーは神の心の中の観念であると教える。そして冷静な科学は、前二者と同じぐらい驚くべきことだが、激しく運動している電荷の巨大な集まりであると言う。

 これら驚くほどの様々な可能性の中で、懐疑論は、そもそも机などないのではないかという疑問を提起する。哲学は、全ての疑問に対して答えることはできないとしても、少なくとも世界に対する興味を増大させる、あるいは、ありふれた日常生活のすぐ水面下には奇妙で不思議な世界が広がっていることを示す疑問を提起するぐらいの力は持っているのである。



II. 物質の実在

 本章では、いかなる意味においてであれ、物質のようなものがあるか否かを問わねばならない。内在的な本性を持ち、私が見ていない間も存在しつづける机はあるのだろうか? それとも、机は私の想像の産物に過ぎず、長い長い夢の中の幻なのだろうか? この問いは極めて重要である。というのも、対象が独立に存在することを確信できないならば、他人の体を観察する以外に他人の心の存在を信じる根拠はないのだから、他人の体や、ましてや他人の心の存在など確信できないからである。従って、もし対象が独立に存在することを確信できないならば、私たちは砂漠に一人とり残されることになるだろう。――外的世界は全て夢に過ぎず、存在するのは自分だけ、ということになるかもしれない。これは気味の悪い可能性である。厳密に偽であると証明することも不可能だが、真であると考えるいささかの理由もない。

 疑わしいことがらについて考察を始める前に、出発点として多少なりとも確固たる点を見つけ出してみよう。私たちは、机の物理的存在については疑っているが、私たちに机があると考えさせた感覚与件の存在については疑っていない。すなわち、自分が見ている間に、ある特定の色と形が私たちの前に現れていて、机を押している間は、ある特定の堅さの感覚が経験されている、ということは疑っていない。これら感覚与件は全て心理的なものであり、疑問の余地のないものである。実際、他の何が疑わしかろうとも、少なくとも私たちの直接経験のうち幾つかのものは、絶対的に確実であると思われる。

 デカルト(1596-1650)は、近代哲学の創始者の一人であり、今でも有用な方法を考え出した――それが体系的懐疑(systematic doubt)である。彼は、自分が明晰判明に真と分かるもの以外の何物も信じないと決意した。彼は、疑いを差し挟むことのできるものなら何でも、もはや疑う理由がないと分かるまで疑おうとした。この方法を適用することによって、彼は次第に、唯一その存在を確信できるのは自分だけであると確信するようになった。彼は、人を欺く悪魔が本当は実在しない物の幻影を彼に次々と知覚させているのでないかと想像した。そんな悪魔が実在することはまずありえないが、しかし可能性は捨てきれない。それゆえ、感覚の知覚する物について疑うことは可能である。しかし彼自身の実在を疑うことは、デカルトにはできなかった。なぜなら、彼が実在しなければ、そもそも悪魔が彼を欺くこともできないからである。もし彼が疑ったのなら、彼は実在なければならなかった。彼が何かしらの経験を持ったのなら、彼は実在しなければならなかった。ゆえに彼自身の実在は、彼にとって絶対に確実なことだったのである。「思う、ゆえにあり(Cogito, ergo sum)」、彼はそう言って、この確実性を基礎として、一度懐疑によって破壊した知識の世界を再構築しにかかったのである。この懐疑的方法の発明、および主観的事物が最も確実であることを示したことによって、デカルトは哲学に多大な貢献をした。そして哲学を学ぶ者にとって彼が未だに有用であるのは、そのためである。

 しかしデカルトの議論を使うときは、少し注意が必要である。「我思う、ゆえに我あり」という言葉は、厳密に確実なことよりもかなり多くのことを語っているからである。私たちは、自分が昨日の自分と同じ人間であることを完全に確信している。そしてそれは、ある意味で、間違いなく正しい。しかし本当の自我(Self)は本当の机と同じぐらい到達しがたいものであり、個々の経験が持つほどの絶対的で確信的な確実性を持つとは考えられない。私が机を見て、それに特定の茶色を見るとき、その時点で完全に確実に言えることは「が茶色を見ている」ではなく、むしろ「茶色が見られている」である。この表現はもちろん、茶色を見る何か(または誰か)を含意する。しかしその「誰か」が、多少なりとも持続的な「私」という人物だということまでは含意されない。直接的な確実性に関する限り、茶色を見ている何かは瞬間的な存在であり、次の瞬間に異なる経験を持つ何かと同じであるとは断言できない[2]

 従って、原初的確実性を持つのは、私たちの個々の思考や感覚なのである。これは、通常の知覚だけでなく、夢や幻覚についても当てはまる。夢や幽霊を見るとき、私たちは確かにそれらを見ているという感覚を持つ。しかし諸々の理由から、そうした感覚に対応する物理的対象はないと考えられる。従って、私たちの経験についての知識に例外はなく、制限を受ける必要もない。従って、ここにおいて、役に立つかどうかはともかく、知識を探究するための確固たる基盤が得られたのである。

 すると、私たちが考えるべき問題はこうである ―― 自らの感覚与件については確実だと認めるとして、それが何かほかのもの、物理的対象と呼びうるものの実在の証拠であると認める理由があるだろうか? 私たちが机と結びついていると当然のように認める感覚与件を全て列挙したら、それで机について全てを語ったことになるのか、それとも、まだ感覚与件とは異なる他のものが ―― 私たちが部屋の外へ出ても存続するような何かがあるのだろうか? 常識に従って答えれば、もちろん「ある」である。買ったり売ったり押したりテーブル・クロスを掛けたりできるのは、単に感覚与件を集めただけのものではありえない。もし布が机全体を覆ってしまったら、私たちは机について感覚与件から何も知ることができない。それゆえ、もし机がただの感覚与件だというなら、それは実在することをやめ、布は奇跡によって机のあった空間に浮いているということになる。この結論は、端的に言って非常識である。もっとも、哲学者になろうと志す者は、非常識に臆さないことを学ばねばならないのだが。

 私たちが、感覚与件のほかに物理的対象についても存在を確信する大きな理由が一つある。それは、私たちが異なる人間同士の間に同じ対象があってほしいと思うことである。10人の人間が円卓を囲んで座っているとき、各人が同じテーブルクロス、同じナイフとフォーク、同じスプーンとグラスを見ていないと主張することは、おかしなことであろう。しかし感覚与件は各人に私的なものである。一人の人間の視覚に直接的に現れるものが、別の人間の視覚に直接的に現れるわけではない。彼らはみな、微妙に異なる視点から物を見ているため、見え方も微妙に異なる。従って、ある意味で多くの異なる人々によって知られる公共的・中立的な対象があるのなら、様々な人に現れる私的・個別的な感覚与件を超えた何かが存在するに違いない。それなら、そのような公共的・中立的な対象が存在すると信じるいかなる理由があるだろうか?

 この問いに対して当然思いつく第一の答えは次のようなものである。「異なる人々は机を微妙に異なる見方をするが、それでも彼らが机を見るときは、多少なりとも似通った物を見ており、その差異は遠近法と光の反射則から導かれる。それゆえ感覚与件は人によって異なるが、そ全ての下に潜む永続的対象に到達することはたやすい。私はこの机を部屋の前の所有者から買った。私は彼の感覚与件を買うことはできなかった。それは前の所有者が部屋を退去した時点で消滅したからである。しかしそれと多少なりとも似通った感覚与件を持てるだろうという、かなり確信できる期待は買えるし、実際に私はそれを買ったのである。異なる人々が似通った感覚与件を持っていること、および、同じ人間が同じ場所を異なる時刻に訪れたときに似通った感覚与件を持つことは事実である。これらのことによって、私たちは感覚与件を超えた何か、すなわち永続する公共的対象が存在して、それが様々な人が様々な時刻に持つ感覚与件を支え、あるいはその原因となっているのだ。」

 上記の考察が自分自身以外の他人の存在を仮定している以上、まさにいま論点となっている問題を無視してしまっている。他人は、彼らの姿や声などいった感覚与件によって私に表象されるものである。そして物理的対象が私の感覚与件から独立であると信じる理由がないのなら、私の夢の一部ではない他人の実在を信じる理由もない。従って、感覚与件から独立した対象が存在するに違いないと示したいのなら、他人の証言をあてにすることはできない。なぜなら、その証言自体が感覚与件から構成されているのだから、私たちの感覚与件が自分と独立に実在するものの証拠でないかぎり、他人の経験 [の実在] を明らかにするものではない。以上のことより、私たちは、もしそれが可能ならばだが、自らの純粋に私的な経験において、世界には自分と自分の私的経験以外のものが存在することを示す(あるいは示す傾向のある)特徴を見出さなければならない。

 ある意味において、私たちが決して自分と自分の経験以外のものの実在を証明できないことは、認めなければならない。世界は私と私の思考と私の感情や感覚だけから構成されており、その他全てはただの空想でしかないと仮定しても、何ら論理的に不合理な結果は生じない。夢の中では非常に複雑な世界が現前することもありうるが、目が覚めるとそれが妄想だったことに気づく。つまり、夢の中の感覚与件は、私たちが自然に感覚与件からその存在を推論する物理的対象に対応していなかったことに気づく。(確かに、物理的世界の実在を仮定するなら、夢の中の感覚与件の物理的原因を見つけることは可能である。例えば、ドアがバタンバタン鳴っている音が、海戦の夢を引き起こすかもしれない。しかし、この場合は、感覚与件に対する物理的原因はあるが、現実の海戦と同じ仕方でこの感覚与件に対応する物理的対象は存在しない。) 人生全体が夢で、その中で私たちは自分の前に現れる全ての対象を作り出していると仮定することは、論理的に不可能ではない。だが、たとえ論理的に不可能でなくとも、その仮説が正しいとするいかなる理由もない。しかも、私たちの人生における事実を説明する手段として見たとき、この仮説は、私たちと独立の対象が本当に存在し、その活動が私たちの感覚の原因となるとする常識的な仮説に比べて、単純さに欠ける。

 物理的対象が本当に存在するという仮定がなぜ単純であるかは、容易にわかる。ある瞬間、部屋の一箇所に猫が現れ、別の瞬間に別の箇所に現れたとき、猫はある地点から別の地点まで、途中に一連の中間地点を通過して移動したと仮定することは自然である。しかし、もし猫が感覚与件の集合に過ぎないのなら、私が見ていなかったいかなる場所にも、猫は存在しえない。従って、猫は私が見ていなかった間は全く実在せず、新しい場所に突然現れたと考えざるをえない。もし猫が、私が見ている見ていないに関わらず実在するのなら、猫が食間にどのように腹を空かすかについて、私たちは自分の経験をもとに理解できる。しかし、見ていないときに猫が実在しないのなら、実在しない間にも実在している間と同じ速さで食欲が増進するというのは奇妙なことに思われる。さらに、もし猫が単なる感覚与件から構成されるのなら、それが腹を空かすことはありえない。なぜなら、私の空腹感以外の空腹感は私にとって感覚与件ではありえないからである。従って、私に猫を表象させる感覚与件の振舞いは、それを空腹の表現とみなすなら全く自然であるのだが、単なる色の斑点の移動とみなされることになり全く説明不可能となる。色の斑点が腹を空かすなど、三角形がサッカーをするぐらいありえないことである。

 しかし、猫の場合の難しさなど、人間の場合の難しさの比ではない。人間が話すとき ―― つまり、私たちが考えと結び付けている音を聞き、同時に、唇の動きと表情を見たなら ―― 私たちが聞いた音が、自分が同じ音を発したときにそうであると知るような思考の表現ではないと考えることは、極めて困難である。もちろん、同様のことは夢の中でも起こり、私たちは他人が実在すると間違うことがある。しかし、夢というのは、多少なりとも私たちが覚醒した生活と呼ぶものによって示されるものであり、物理的世界が本当にあるのなら、科学的原則によって説明可能なものである。従って、あらゆる単純性の原則により、私たちはごく自然な見解を採用することになる。つまり、自分とその感覚与件以外にも、自分の知覚に依存せずに実在する対象は本当に存在する、という見解である。

 もちろん、もともと私たちが独立の外的世界を信じるようになったのは、議論を通じてではない。私たちが考察を始めるとき、既にこの信念は私たちの中にある。いわばそれは、本能的信念と呼びうるものである。視覚の場合に、本能的には感覚与件それ自体が独立の対象と信じられているのに、議論によってこの対象が感覚与件と同一ではありえないことが判明するという事実がなければ、私たちがこの信念を疑問視することはなかったに違いない。しかしながら、この発見によっても ―― 味覚・嗅覚・聴覚の場合は全く逆説的ではないし、触覚の場合にもわずかにその気があるだけなのだが ―― 感覚与件に対応する対象が存在するという本能的信念が揺らぐことはない。この信念は何の困難も引き起こさないし、それどころか逆に、私たちの経験を単純化し体系化することに役立つのだから、これを拒否する適当な理由はないと思われる。従って私たちは ―― 夢についての議論から生じる多少の疑念を持ちつつも ―― 外的世界が本当に実在し、私たちが知覚し続けずともそれとは全く関係なく実在することを認めるのである。

 私たちをこの結論へ導く議論が期待したほど強力でないことは、明白である。だがこの議論は哲学的議論の一典型なので、その一般的性格と妥当性を簡単に考察しておく価値がある。私たちが得る全ての知識は、本能的信念に基づいて構築されなければならないため、もしこの信念が拒否されたら、後には何も残らない。しかし本能的諸信念の間にはその強固さにばらつきがある。しかも、多くの信念は、習慣と連想によって、誤って本能的信念の一部であると信じられているが、実は本能的ではない信念と絡み合っている

 哲学は、私たちが最も強く信じる信念を手始めに、各信念を可能な限り孤立させて、無関係な付属物を削ぎ落としながら、本能的信念の階層を示さなければならない。そしてその最終的な形式においては、私たちの本能的諸信念が互いに衝突するのではなく、調和した体系を形成することを示さなくてはならない。本能的信念を拒否する理由は、それが他の諸信念と衝突するということ以外にない。従って、もし諸信念が調和した体系を作ることが分かれば、その全体系も受け入れる価値のあるものになる。

 もちろん、私たちの信念の全部またはいずれかが間違っているという可能性はあるので、どんな信念を保持するにも、少なくとも多少の疑念は持つべきである[3]。しかし、ある信念を拒否する理由は、別の何らかの信念に基づくものでしかありえない。ゆえに、私たちは、本能的信念とそのもたらす帰結を組織化し、必要な場合にはどの信念が最も修正または破棄しやすいかを考えることによって、秩序ある体系的な知識の組織へ到達することができる。その組織は、私たちが本能的に信じる与件だけを認めることに基づくものだが、そこにおいてもなお誤りが残る可能性はある。だがその蓋然性は、個々の知識の相互関係と事前に行なわれる批判的吟味によって減らすことができる。

 哲学は、少なくともこの機能なら果たすことができる。多くの哲学者は、正誤は別として、哲学にはそれ以上のこと ―― 他の方法では到達できない、全体としての宇宙と究極的実在の本性に関する知識を与えること ―― ができると信じている。これが正しい見解か否かはともかく、いま述べたような最も控えめな役割ならば、哲学は確実に果たすことができる。そしてその役割は、一度常識の妥当性を疑い始めた人間に哲学的問題にまつわる困難な骨折り仕事を納得させるには、十分なものである。



III. 物質の本性

 前章では、私たちの感覚与件 ―― 例えば私の机と結びついていると見なせるもの ―― が、私たちと私たちの知覚とは独立に実在する何かがあることは、確たる論証的な理由は見出せないが、そのように信じることは合理的であるという点に同意した。すなわち、前述の色や固さ、音などの感覚は、私に対する机の現象を構成しているが、それだけでない他の何かも存在しており、色や音はその何かについての現象なのだと想定した。私が目を閉じれば、色は実在することを止め、手を机から話せば固さの感覚も実在しなくなり、机を指で弾くのをやめれば音も実在しなくなる。とはいえ、これら全てのことがなくなっても、机までがなくなるとは信じていない。反対に、机が継続的に実在するがゆえに、私が目を開け、手を再び置き、指で弾けば感覚与件が再出現するのだと信じている。そこで、本章で私たちが考えねばならない問いは次のようなものである。私の知覚とは独立に持続するという、この本当の机の本性は何か?

 この問いに対して、物理科学は一つの答えを与えている。かなり不完全で部分的にはなお仮説にとどまるが、しかしその点を考慮しても一考に価する。物理科学は、多少なりとも無意識的に、全ての自然現象は運動へ還元されるべきだという見解へ変化してきている。光、熱、音は全て波動によるものであり、波が物体を通るときに放出する運動によって、人間は光を見、熱を感じ、音を聞くというのである。この波動を持つものが、エーテルまたは「濃密な物質(gross matter)」だが、どちらにせよ、哲学者なら物質と呼ぶものだ。諸科学が物質に割り当てる性質はただ、空間における位置と動くときは運動法則に従うことだけである。科学は、物質が他の色々な性質を持つ可能性を否定するわけではない。しかし、他の性質は、あったとしても科学者には無用のもので、全く現象を説明する役に立たないだけである。

 ときどき「光はある種の波動である」と言われるが、この言い方は誤解を招きやすい。私たちが直接見る光、五感を通して直接知る光は、波動の一種ではなく、全く別物だからである ―― 私たちはみな、盲目でなければそれがどんなものかを知っている。だが、盲人に分かるようには記述できない。反対に、波動は盲人にも分かりやすく記述できるだろう。なぜなら、盲人も触覚を使って空間についての知識を得られるし、航海することで私たちとほぼ同じように波動を経験できるからである。しかし、この盲人にも理解できるものが、私たちがという語で意味するものではない。私たちがという言葉で意味するのは、まさに盲人が理解できない何かであり、それを彼に向かって記述してみせることは決してできない。

 さて、科学によれば、外界に実際に見出されるのは、盲人でない人間すべてが知っているこの何かではない。そういうものは、光を見る人間の眼と神経と脳に対して、特定の波の活動が引き起こすものである。光は波であると言うときの本当の意味は、波が光を知覚する物理的原因だということである。だが光そのものは、盲目でない人間が経験し、盲人が経験しないものであり、科学はそれが私たちと私たちの感覚と独立の世界の一部を成すとは考えない。そして、他の種類の感覚についても全く同様に当てはまる。

 科学が描く物質世界に無いのは、色や音だけではない。私たちが見たり触ったりして感じている空間もまたないのだ。物質が一つの空間の中にあることは、科学にとって本質的だが、その空間は私たちが見たり感じたりする空間と厳密に同じではありえない。まず第一に、私たちが見る空間は、私たち触覚によって感じる空間と同じではない。私たちはただ、幼児期に見える物の触り方や触る物の見方を経験によって学んだに過ぎない。だが科学における空間は、そういう触覚や視覚からは中立的である。すなわち、それは触覚的空間でも視覚的空間でもありえない。

 繰り返しになるが、同じ物でも見る人が異なれば、視点の違いによって異なって見える。例えば、丸いコインについて、私たちはいつでもそれは丸いと判断するに違いない。しかし上から垂直に見ない限り、コインは楕円に見える。コインは丸いと判断するとき、私たちはコインは本当の形を持っていて、それは見かけの形とは違うのだと判断している。本当の形は見かけの形とは異なり、コインに内在的に(intrinsically)帰属しているのだ、と。科学が関心を持つのは、この本当の形である。しかしそれは本当の空間の中にあるべきものである。本当の空間は、誰の見かけの空間とも一致しない。前者は公共的で、後者は知覚者にとって私的だ。異なる人々のそれぞれの私的空間においては、同じ対象も異なった形を持つだろう。それゆえ、本当の形をその中に持つ本当の空間は、どんな私的空間とも異なるものであるはずだ。従って、科学の空間は、私たちが見て感じる空間と結びついてはいるが、決して同一ではない。探究する必要があるのは、この両者の結びつき方である。

 私たちはさっき、物理的対象は感覚与件のたぐいではありえないが、感覚を引き起こす原因としては考えられるかもしれないという点に暫定的に同意した。そういう物理的対象は、私たちが「物理的」空間と呼ぶ科学の空間の中にある。重要なのは、もし私たちの感覚が物理的対象によって引き起こされるものなら、そうした対象および私たちの感官、神経、脳を含む物理的空間が存在せねばならない、という点に気づくことだ。私たちは、対象に触れたとき、つまり体の一部が、当該の対象が占める空間と至近の物理的空間内の一部を占めたとき、その対象から触覚という感覚を得る。私たちが対象を見るのは(大雑把に言えば)、物理的空間において対象と自分の目の間に障害物がないときである。

 同様に、私たちが対象を聞いたり嗅いだり味わったりするのは、私たちが十分に対象に近いか、それに舌が触れるか、または物理的空間において私たちの体に相対的に適切な位置を対象が占めたときに限られる。対象と自分の体がともに同じ物理的空間にあることを認めない限り、与えられた対象から、異なる様々な状況下でどのように異なる感覚を得られるかさえ、全く分からない。なぜなら、対象から得られる感覚を決めるのは、主に対象と私たちの体の相対的な位置関係によるからである。

 ところで、私たちの感覚与件は、私たちの私的空間の中に位置づけられる。その私的空間は、視覚空間かもしれないし、触覚空間かもしれない。あるいは、もっと別の感覚が与えるより曖昧な空間かもしれない。もし、科学や常識が想定するように、物理的対象を含む単一の包括的な物理空間が存在するのなら、その内部での物理的対象の相互の位置関係は、ある程度まで私たちの私的空間における感覚与件の相互の位置関係に対応するはずである。これを正しいと考えることに、何ら特別な困難はない。もし道端で、ある家が別の家より自分に近いところに見えるなら、視覚以外の感覚もまた、その見え方を裏付けるだろう。例えば、道なりに歩けば、近くに見えた家に先に到達するだろう。他の人々も、きっとそっちの家の方が近いと同意してくれるだろうし、測量図を見ても同じように描かれている。これら全てのことが、私たちが家を見たときの家の感覚与件同士の間に成立する関係に対応する、実際の家の間の空間的関係を指示している。従って私たちは、私たちの私的空間に存在する感覚与件に対応する物理的対象が存在し、それを含む物理的空間もまた存在するのだ、と仮定することができるのである。幾何学が扱うのはこの物理的空間であり、物理学や天文学も、この空間の存在を前提している。

 では、物理的空間が存在し、それが私的空間とも対応関係にある、ということを認めたとして、私たちはそれについて何を知りうるだろう? それは、私的空間との対応関係を保持するために必要とされるものだけだ。要するに、それ自体が実際のところどうであるか、ということは一切知りえないのだ。私たちが知りうるのは、物理的対象同士の空間的関係から導かれるそれらの配列である。例えば、日食のときに地球と月と太陽は一直線に並ぶ、ということは知りうる。だが、物理的な直線そのものが何であるかは知りえない。なぜなら、私たちが知っているのは、直線の視覚空間における見かけ(look)だからだ。そんなわけで、直線そのものよりも、物理的空間における直線同士の関係についての方が、より多くを知ることができる。例えば、この直線の方があの直線よりも長いとか、この直線は別の直線と平行だとか。しかし、私たちは物理的な直線について決して自分の私的空間における直線や、あるいは色や音といった他の感覚与件について持つような直知(immediate acquaintance)を持つことができない。私たちは、生まれつきの盲人が他の人からの説明を通して視覚空間について知ることができるのと同じだけのことを、物理的空間について知ることができる。しかし、盲人が視覚空間について絶対に知ることのできないものについては、私もまた物理的空間について知ることはできない。私たちは、感覚与件との対応を保存するために必要となる関係の性質を知ることはできるが、関係を成立させているものの本性を知ることはできないのである。

 今度は、時間について考えてみよう。周知のように、私たちが時間の持続や期間の間隔について持つ感覚は、実際に時計で計測した場合の時間とはおよそ一致しない。退屈しているときや苦痛を感じているときは、時間の流れはゆっくりであり、何かに熱中しているときはあっという間に過ぎさる。眠っているときなど、あたかも存在しなかったかのように時が経つ。従って、時間が持続によって構成されている限り、やはり公共的時間と私的時間を区別する必要がある。ちょうど、空間のときと同じだ。しかし時間が前と後という順序によって構成されているとすれば、そのような区別を設ける必要はない。色々の出来事が持つように見える時間の順序は、私たちに見える限りでは、実際にそれらの出来事が持つ時間の順序と同じだからである。どちらにせよ、公的な時間の順序と私的な時間の順序が異なっていると考える理由は無い。普通は空間についても同じことが言える。街路を連隊が後進しているとき、連隊の隊形は視点によって異なって見えるが、隊員の並び順は、視点によらず一定である。従って、順序は物理的空間においても変わらないが、形については、順序を保存するために必要とされる限りにおいて、物理的空間と対応すると考えられるにすぎない。

 出来事が持つように見える時間の順序は、それらが実際に持つ順序と同じであると言う場合、一つありがちな誤解をしないよう気をつける必要がある。というのも、異なる物理的対象の様々な状態が、それらの対象の知覚を構成する感覚与件と同じ順序を持っていると考えてはいけない。例えば、物理的対象として考えた場合、雷鳴と稲妻の発生は同時である。すなわち、その発生源において、稲妻は空気の振動と同時に起こる。しかし、私たちが「雷鳴が聞こえる」と呼ぶ感覚与件は、空気の振動が私たちのいるところまで届くまでは生じない。他の例を挙げよう。太陽の光は私たちに届くまで約8分かかる。従って、私たちが太陽を見るとき、それは8分前の太陽の姿を見ている。感覚与件を物理的な太陽の存在証拠と考える限りにおいて、感覚与件は8分前の物理的な太陽の存在証拠を与えている。もし物理的な太陽が存在しなくなってから8分経っていなければ、私たちが「太陽を見ること」と呼ぶ感覚与件には何の変化も生じないだろう。これは、感覚与件と物理的対象を区別する必要を示す鮮やかな実例だ。

 空間に関して分かったことは、感覚与件と物理的空間におけるその対応物との対応において見出すものとほぼ同じである。もしある対象が青く、別の対象が赤く見えるなら、その感覚与件に対応する物理的対象においても、同じような色の差異が存在すると考えることは、理にかなっている。もし二つの対象がともに青く見えるのなら、物理的対象にもそれに対応する類似性があるだろう。ただ、青や赤の感覚与件を作り出している物理的対象を直接知ることは望めないのだ。科学によれば、色のような性質は、一種の波動であるということになる。波動は私たちが見る空間内に思い浮かべることができるので、これは馴染みやすい説明だ。しかし、その波動が実際に存在するのは、私たちが直接知ることのできない物理的空間でなければならない。従って、本当の波動は、私たちが思っているほど親しみやすいものではない。このことは、他の感覚与件に対してもほぼ同じように当てはまる。それゆえ、物理的対象に関して私たちが知りうるのは、せいぜい、感覚与件同士の関係から導き出せる物理的対象同士の関係に過ぎない。感覚に頼ろうとする限り、物理的対象それ自身の内在的本性は、ついに知りえないままだ。すると、残る疑問は、その内在的本性を発見する方法が、感覚のほかに存在するか、ということである。

 これに対するもっとも自然な ―― しかし最終的には維持しえない ―― 仮説は、確かに上の考察から、物理的対象と感覚与件が厳密に似ているとはいえないにせよ、多少は似ているかもしれない、と考えることだ。この見解によると、物理的対象は、本当に色を持つことになり、運がよければその対象が持つ本来の色を見ることだってできるかもしれない。もし対象がそういう色を持つのなら、それはいつどんな角度から見ても、全く不変ということはないにせよ、ほぼ同じになると考えられる。とすれば、「本当の」色というのは、一種の中間色、視点を変えることで移ろっていく多彩なグラデーションの中間の色、と考えることができるかもしれない。

 この種の理論は、完全に論駁しさるのは難しいかもしれないが、無根拠であることは示せる。まず、私たちが見る色は、私たちの眼へ届く光の波動によって決まる。従って色は、対象から目へ向かう光の反射だけでなく、私たちと対象の間をさえぎる媒体によっても変化する。。私たちと対象を遮る空気は、全く不純物を含まない限り、色を変化させる。強い反射が起これば、色は完全に変わってしまうだろう。それゆえ、私たちが見る色というのは、あくまで眼に届いたときの光線の結果であって、光線を発している対象の性質であると簡単に言い切ることはできない。従ってまた、ある種の波が眼に届いたとすると、その波を発している対象が何らかの色を持っているか否かにかかわらず、ある種の色が見えるだろう。従って、物理的対象が色を持っているという想定は、まったく無根拠であり、何らの正当化も存在しない。他の感覚与件に対しても同様の議論が適用できる。

 すると残る疑問は、もし物質が実在するのなら、それが必ず持つ本性が存在すると言いうるような一般的な哲学的議論があるかどうか、ということである。上述のように、これまでの非常に多くの哲学者、おそらくはほとんどと言っていいと思うが、彼らは実在する全てのものは何らかの意味で心的である、あるいは少なくとも私たちがそれについて知りうる全ては何らかの意味で心的である、と考えてきた。こういう哲学者をまとめて「観念論者(idealist)」と呼ぶ。観念論者の説くところによれば、物質のように見えるものも、本当は心的なのだということになる。要するに、(ライプニッツの考えたように)程度に差はあれ原始的な心か、普通言うように「知覚する」心の中の観念である(バークリーはそう唱えた)。そのため、観念論者は、心と本性的に異なる物質の実在を否定する。ただし、私たちの感覚与件が、私的な感覚とは独立に実在する何かのしるしであるという点を否定するわけではない。次章では、観念論者たちが自説を擁護する論拠 ―― 私から見れば間違いなのだが ―― について簡単な考察を加えるとしよう。


訳註
[1] ラッセルもここで言うように、バークリーが否定したのは「物質」の外在的実在性であって、物質の存在そのものを否定したわけではありません。「物を観念にするのではなく、観念を物にするのが私の考えだ」という主張からも分かるように、バークリーは観念こそ物質であり、存在する唯一のものであると考えました。それゆえバークリーの哲学はしばしば「観念一元論」と呼ばれます。ただしバークリーの考える観念とは、心的イメージを指す普通の用法と違って、人間の感官に与えられる知覚(感覚与件)のことなので、むしろ「知覚一元論」と呼ぶのが適切でしょう。

[2] このラッセルのデカルト批判は論理的に正しい、と私は思います。「思惟が感じられる」ということから、この世界が空ではなく、少なくとも一つのものが存在することが導けます。しかしその「存在するあるもの」が、持続的に存在する「私」であると結論するのは、無根拠な断定です。
 デカルトがこのような勇み足をしてしまった理由は、恐らく、彼の使っていたラテン語またはフランス語の動詞が、人称に応じて語尾変化してしまうため、その表現に主体の同定が暗黙に含意されていたためです。ラッセルは、この間違いを避けるために注意深く受動態を使用します。(日本語の動詞は人称変化しないので、こういう心配は不要です。)
 かつてニーチェも「思惟という活動がある」ことを一語で表現するには、受動態の「cogitatur」を使って「思惟がなされる」とでもするほかない、と提案したそうですが、これもラッセルと同様の批判だと考えられます。

[3] この見解に対するラムゼイの論文「知識」における批判も参照。


著:B.ラッセル 1912
訳:ミック
最終更新日:2005/12/30
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