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 私たちは社会主義者は、時に労資協調という偽りのお題目によって権威付けされる、この浪費と戦争の体制を破壊した後、いかなる事態が到来するのか全く詳細を述べていないという批判をしばしば受ける。立派な方々はみなこう言う。「現在の体制が不満足な結果をもたらしていることは認めよう。しかしそれは曲がりなりにも一つの体制であって、あなたがたは、みずから社会主義と呼ぶ再建の結果について、明確な観念を示さなくてはならない。」

 これに対し社会主義者は正当にも次のように答える。「私たちは自らの嗜好を満足させるために体制を作り上げようとしているのではないし、その体制を機械的なやり方で世界に押し付けようとしているわけでもない。そうではなく、私たちは、私たちの助けがなくとも [最終的には] 起きたであろう歴史の発展が起こるのを助けているのである。しかしそれでも、私たちはこの発展を助けざるをえないのだ。現在のような状況下では、私たちが現に生まれ育ったのとは異なる生活条件について詳述しても無駄であろう。」 そういう詳細は、いずれ、私たちを押し潰している圧制から解き放たれた社会に生まれる幸運な人々が、慎重に取り扱うだろう。彼らはきっと、私たち以上に賢明で理性的な人間であるに違いない。しかしながら、現在進行中の経済的変化が、それに対応する人間の熱意の発展を伴わねばならないことは明らかであろう。そしてその変化が進行しているという認識が私たちの想像力を喚起することで、私たちは、周知のように、社会革命が万人の手にもたらす幸福で人間的な生活を独力で思い描けるようになるに違いない

 もちろん、このような青写真の内容は、描く人によって様々であるが、私は既に、『ジャスティス』誌上で、社会主義が健康で謙虚な人格を育成することはあっても、押し潰すことはないということを示そうとした。そこで私は、1884年4月12日付けの同誌に掲載した[1]、もはや「利益」のためではなく生活の糧と喜びのために働く時代の楽しい仕事の条件についての多少のヒントを、芸術家兼手職人の立場から発展させてみたい。

 理想の工場は快適な場所に設置される。これは、以前に述べたように、もはや利益のために人々をかき集めて、惨めで汗まみれの動物群にする必要がなくなれば、それほど難しいことではない。というのも、国中は本来それ自身が快適であるか、あるいはわずかの手間と配慮で快適にできるからである。次に、工場は(気候は別として)アルキノオス[2]もかくやという美しさの庭園に設置される。なぜなら、地代は既に過去のものとなっているので、土地を切り詰める必要がなくなるからである。そして100人中75人があらゆる職務の中で最も快く最も潔白な職務を喜ばない時代というのは想像しがたいから、そのような庭園における労働が純粋に自発的に行なわれるということも、十分考えられることである。そして働く人々はきっと、戸外での休憩を欲するだろう。人から聞いたのだが、現在でも、大工業都市としてのあらゆる欠陥にも関わらず、ノッテインガム工場の職工たちは職業的庭師に多くのヒントを与えることができそうだ。人の想像力は、美のための巧みで協同的な造園が与える美と喜びを、かなり自由奔放に描く傾向を持つものである。その美が生活の糧を生む有用な生産を妨げることは、決してないだろう。

 そんなことは不可能だ! 反社会主義者はそう言う。友よ、どうか憶えておいてほしい。今日では大抵の工場は広くて綺麗な庭園を維持しており、何エーカーもの広さの庭園と森林を持つ工場さえ稀ではない。その庭園全体は、高給のスコットランド人の職業的庭師、森林官、土地管理人、狩猟番、等々の然るべき付属装置でもって、考えうる最大限の浪費的方法で管理されている。例えば、このような庭園だけが、工場から20マイル離れた煤煙の届かぬ場所にあり、そしてそれは工場のただ一人だけのために、すなわち惰眠を貪る経営者のために維持されている。彼は、労働を(自分の利益のために)組織化することで一人二役をこなすことができ、それによって馬鹿馬鹿しいほど不釣合いな追加収入を得ている。

 さて、この庭仕事において、私たちの工場はゴミを散らかすべきでないし、水も大気も汚染するべきでないことになる。「利益」を考慮しなければ、これは十分容易なことであるから、この点についてこれ以上言うべきことはない。

 次に、建物自身について、少し言わせてもらいたい。一般に、建物が醜いのは必然的なことだと考えられている。そして実際、今ではほとんどの建物は悪夢のごとく醜いものばかりである。しかし、私は断固として主張せねばならない。それらが醜いのは必然でもなんでもないのだ。それどころか、建物がその目的を正当に果たし、材料を惜しまず使って、設計者と建築者が楽しみながら建設したなら、その建物を美しくすることに何ら深刻な困難はないのである。事実、現状では前述の悪夢のごとき建物は、その建てられ方を十分に象徴している。それがどんなものが見てほしい。過密と粗悪と過労の、一言で言えば不安の殿堂である。それゆえ、 [逆に] 私たちの工場が、あらゆる工程が希望と喜びによって祝福される理性的で生き生きした仕事の象徴を、その外面において示すことは想像に難くない。それゆえ、私たちの工場は、作業場としての簡素な美を持つことによって美しくなる。ただしそれは、今ある工場の幾つかのように、つまらぬもので派手に飾り立てながら、その飾りが全くその不快さを隠すのに役立っていないような工場とは違う。私たちの工場はさらに、作業場そのもののほかに、もっと華やかに装飾された建物も持つことになるだろう。例えば、食堂、図書館、学校、様々な種類の研究施設、こうしたものを必要とするだろう。私たちがその気になれば、建物の装飾において中世の修道僧や職人と張り合えないはずがないし、いま現に耐え忍ばねばならない惨めな生活を確保するために惨めなことをしているからといって、休息と喜びと知識の探究を確保するために惨めなことをせねばならない理由があるだろうか?

 そしてまた、費用の点でこうした美しい建物を実現する可能性を疑うのなら、今日の素晴らしい工場はみな、前述のような煤煙から逃れた豪奢な庭園の中に豪奢な宮殿を(しばしば二つ以上)有しているが、それは工場のただ一人の人員、あの惰眠を貪る経営者――実に有用な人材である――のためのものだという事実に、再度注意を促したい。大概、そうした宮殿は、その豪華な装飾にも関わらず野蛮なまでに醜いのだが、この醜悪さは、利益追求に血道をあげる体制全体の、けだものじみた浪費のごく一部に過ぎない。この体制は労働者が教養や洗練を持つことを拒む。だから労働者は、全財産と引き換えにしても芸術を持つことができないのである。

 以上において、私たちは未来の工場の外見について語り、それが世界の美しさを何ら損なうものではなく、むしろそれに貢献するものであることを見てきたわけだが、今度は、そこでの仕事がどのように行なわれるか、その様子を描写してよう。


訳註
[1]

[2] アルキノオスはホメロスの『オデュッセイア』に登場する王。オデュッセウスを自分の美しい庭園に招いてもてなしました。彼の娘が日本で大人気のナウシカです。

 

著:W.モリス 1884.5.17
訳:ミック
作成日:2005/10/22
最終更新日:2017/06/22 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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