ホームウィリアム・モリス

 先の論文において、私たちは現在から未来を見通し、理想の工場がどのようなものかを見ようとして、その環境と外観にまで話が及んだところだった。だがそういう外面は、そこで行なわれる仕事が人間にとってあらゆる点で理性的に適合するこによって初めて、自然でわざとらしくなく実現できるのである。それはつまり、どこかの金持ちで慈善精神に富む製造業者がちょっと気まぐれでも起こせば、彼の工場は労働者にとって永久に快適な場所になるだろう、という意味ではない。そんな気まぐれを起こせば、彼は死ぬか破産するかであり、彼の後継者はもっと貧しくなるか、利益追求に専念するかのどちらかになるだろう。そうなれば、全ての美と秩序は短い夢として消え去るのがおちである。だから、産業的な関心における外面美でさえも、個人ではなく社会の仕事にならなければいけないのだ。

 工場での仕事に関して言えば、それはまず第一に有用なものである。従ってそれは名誉なものであり、実際名誉を受けるべきものである。なぜなら、無駄金を使うために頭を絞る金持ちなどいないのだから、無用の玩具を作ろうとする誘惑もなくなるからである。従って、利益のために堕落した愚か者に迎合したり、彼ら自身が心から軽蔑するがらくたの形をした、現金を獲るための罠作りに知性と精力を傾けるような「労働の組織者」もいなくなる。仕事ががらくたを生産することはなくなる。強制されなければ誰も進んで使おうとはしない品々を市場で売りに出している、何百万という貧民もいなくなるだろう。誰もが良質の商品を供給することができるようになり、後で示すように、品質の良くない物を拒否できるほどの商品の知識を持つようにもなるだろう。粗悪で一時的な目的のために、粗悪品が作られるかもしれないが、そうした商品は、その内容について公然と表示することになる。商品の粗悪化は、もう誰も知らない現象になるだろう。

 それだけでなく、最も創造的で最良のものとして公認された機械も、必要に応じて利用される。ただしその目的は、人間の労働を省くためだけに限られる。実際、いま私たちが考察しているような良く秩序だった仕事においては、機械をそれ以外の目的で使うことはできないであろう。利益は消滅するから、見かけだけの価値を持つ商品を蓄積しようする誘惑もなくなる。使用品の価値、すなわちその慣習的な価値は、人間がそれを求める必要性や理性的な欲求に基づいているのではなく、常に新しい利益を追求する資本家の渇望によって公衆に押し付けられた人工的習慣に基づいているからである。そういう商品は、使用品としての本当の価値など持っておらず、その慣習的(偽のということだが)効用価値は、利益追求に基づいて建設された社会においては、利益と交換される商品としての、作られた価値だったのである。

 富者のための有害な贅沢品であれ、貧者のための不名誉な一時しのぎであれ、無用の商品の生産は終焉を向かえる。それでも私たちは、かつてはただ利益産出のためだけに使われていた機械をまだ持っているであろうから、今度はそれを人間の労働を省くためだけに使うのである。そうすれば、一人一人の労働者が行なわねばならない労働量はずっと減らせるだろう。しかも私たちは、全ての非労働者と惰眠を貪る人を追放するのだから、工場での労働時間はとても短くなることが期待できる。例えば、1日4時間労働も十分狙える目標だ。

 さて次に、奴隷的ではない日常の仕事を楽しんで行なう芸術家には、いかなる工場における仕事も、たとえそれが必要な4時間労働だったとしても、単なる機械の番にはならないことを期待してよいだろう[1]。上述のように、機械は人間の労働を省くために使われるのだから、いかなる仕事も人間を単なる機械に変えてしまうことはない。従って、少なくとも仕事のある部分は、それをすること自体が楽しいものになるだろう。機械の番はそれほど長い訓練期間を必要とするものではないのだから、決して毎日の労働時間――たとえそれがどれほど短くなろうとも――の大半を機械の後を追いか回ることに終始するべきではない。ところで、私たちの工場における仕事が為すこと自体が楽しい魅力的なものであれば、それは芸術的本性を持つことになろう。それゆえ、私たちの体制下ではあらゆる奴隷的仕事がなくなる。なぜなら、工場において重荷であるものは何であれ、交替制で分配して行なうため、重荷ではなくなり、より刺激的で芸術的な仕事からの息抜きの役割を担うようになるからである。

 このようにして、私たちの工場体制からの苦痛は取り除かれる。ところが現状はどうかというと、共同体への祝福となるべき労働の社会化は、特別に贅沢な生活や大抵の場合単なる怠惰な生活の怪しげな利得を増やすために、労働の生産品を個人が私有することによって、呪いへと貶められている。それが大多数の労働者にもたらした結果こそ、あの恐ろしい奴隷制であり、長時間労働とその間つねに増加しつづける疲労、そして労働そのものに対する心底からの嫌悪という数々の最大級の害悪であったのだ。

 次の論文では、正しく秩序だてられた理想の工場のような社会的団体に人々を集めることは、生活全般の喜びを増大させ、生活の物質的・知的水準を上昇させるために利用できる方法になるかもしれないという、私の希望を述べることから始める。その目的は、要するに、人生に豊富な出来事と多様性をもたらし、人生をただの下劣な苦労の緊張から解放することである。個人主義者もこういう生活について意味のない無駄口を叩いてはいるが、社会主義者はそれを直接の目標としてしているのであり、そしていつの日かそれを実現するであろう。


訳註
[1] モリスがここで最低限必要な1日の労働時間を「4時間」としたことについて、おそらく数字の根拠はないのですが、面白いことに、これ以降イギリスの知識人には「労働時間は3~4時間で十分」と主張する「働きたくないでござるの精神擁護」の系譜が受け継がれていきます。哲学者ラッセルの「怠惰への賛歌」(1932)、経済学者ケインズの「孫たちの経済的可能性」(1930)など参照。

 

著:W.モリス 1884.5.31
訳:ミック
作成日:2005/11/12
最終更新日:2017/06/22 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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