ホームウィリアム・モリス

 私は先の二つの論文において、正当な秩序ある社会においては、人々は他人の利益のためではなく生活の糧のために働き、工場の環境は快適であるだけでなく、その建物も美しくなるということ、そして、工場で行なわれる大変だが必要な仕事でさえも、それ自身が労働者にとって重荷で長時間の労働を課すものにならないよう調節されるだろうということを述べた。しかしそれ以上に、そのような工場の組織化は、すなわち有用な目的のために協調して働く集団の組織化であるのだから、それ自身、人生の喜びを増す機会を与えてくれるものになるだろう。

 まず第一に、理想の工場は間違いなく教育の中心になる。特定の産業に対する才能を伸ばせそうな子供は誰であれ、本による学習の途中で、苦痛にならないよう徐々に技術的指導を受け、それによって最終的にはそれぞれの職種の徹底的な徒弟修業へと導かれる。従って、子供の指導と職業選択において彼らの適性を考慮に入れれば、そういう教育を受けた子供が、仕事に就くことを許されるや否や、本当に有用なものを熱心に作りはじめることが大いに期待できるのである。不当な強制によらず、知性の発展と並行して手先の器用さを発展させた子供なら、間違いなく、本当の職人のように織機やハンマーなどを使いこなすことに熱中し、製作を始めることだろう。ちょうど、今の若い紳士たちが銃を手に取り、人殺しに熱中し始めるように。

 子供に対するこのような教育は、彼らが成長した後にも続く。もし彼らにその気があれば、自分の技能の細かい点を練習したり、それを完璧なものにするためのあらゆる機会を持つことになるだろう。その目的も、彼の余分な知識と技術を使って同僚の労働者に冷や汗をかかせるためではなく、良い芸術家としての自分の喜びと名誉のためである。彼の仕事の基礎となっている科学を可能な限り深く研究する機会も、同様に与えられる。さらに、その研究のための良い図書館と援助も、あらゆる生産者集団(または工場)によって与えられるだろう。それゆえ、労働者の他の自発的な仕事は、一般の科学や文学の研究によって変化していくであろう。

 しかも工場は、品物がどうやって作られているかを一般公衆に見せることによって、もう一つの教育的要求を満たすことができる。競争は廃れ、葬り去られるので、機械の様々な改良の詳細や新しい過程を探究者から隠すこともなくなる[1]。こうして伝達された知識は、仕事と実生活における一般的な関心を育てることになる。それによって労働は高揚し、製造業における高い基準が作られる。そして今度はそれが、労働者に一層の努力を促す強い動機を生むのである。

 現状と比べると、こういう状況は何と奇妙な対照をなしていることか! というのも、今日の公衆、特に手仕事に全く従事していない公衆は、自分の家の戸口でそれが行なわれるときでさえ、その技術や過程を全く知らないのである。そのため、大半の中流階級は、非常に明白な商品の粗悪化に対してさえ無防備であり、しかもさらに深刻な問題は、世間全体が必然的に仕事場の生活に対する共感とは縁遠い場所にいることである。

 このように運営された工場は、他の産業集団と協力することで、労働者のための教育を提供するとともに、外部の市民の教育にも参与するであろう。しかしそれ以上に、当然のことながら工場は図書室、教室、食堂など十分な建物を持つのだから、単なる休息のための娯楽も簡単に用意することができる。社会的な集会や音楽や劇のような催し物も、このような諸条件の下なら明らかに実現しやすいはずだ。

 そして、さらに重要なもう一つの喜びについて述べておかねばならない。それは現在の労働者には知られていない喜びであり、有閑階級にとってすら、腐敗堕落した形でしか存在しない喜びである。すなわちそれが、純粋芸術の実践に他ならない。上に挙げたような諸条件の下で生活し、高度な手技と技術的・一般的教育を持ち、それらの利点を利用するための余暇を有する人が、芸術への愛、すなわち美的感覚と人生への興味を発達させることは確かである。そして長期的に見れば、その愛が彼らを刺激して、芸術的創造の欲求を引き起こさせるに違いない。その欲求を満足させることこそ、最も大きな喜びである。

 私は、社会的労働者の集団が肉体的必需品の生産に打ち込むという仮定から話を始めたが、今やそのような仕事は労働者の時間のごく一部しか占めないということが分かった。彼らの余暇の時間は、単なる肉体的な休息と娯楽を超えて、技能の微妙な点の習得やその原理の研究のために使われるだろうと、私は考えた。ある人はそこで立ち止まり、またある人はさらに一般的知識を勉強したいと思うだろう。だがしかし、一部の人々――私が思うに、ほとんど大部分――は、美の創造へと駆り立てられであろう。彼らは、共通の利益のために必要な仕事の相応の割り当て分を達成するから、そのような機会がごく手近にあることに気付くだろう。彼らは、自らの作った物に装飾を施す作業を楽しむであろうし、そうした仕事の質と量が制限を受けるのは、どれぐらいの、どのような種類の装飾がその品物に適しているかという芸術的考慮によってのみである。あるいは、そのような装飾細工は、昨今の紳士淑女たちが退屈逃れのために作っては世間に迷惑をかけているたぐいの素人の駄作になってしまうのではないか、という反論があるかもしれない。だがその心配はない。なぜなら、私たちの労働者は、労働者としての徹底した教育を受けることで、良い仕事とは何か、本当の仕上げ(商業用の仕上げではない)とは何かをよく学ぶからである。そしてまた、公衆が労働者集団となることによって、その公衆の誰もが本当の仕事とは何かを理解するようになるからである。従って私たちの労働者は、彼ら自身や職場の仲間、および知的な労働者によって構成される公衆からの厳しい批評を受けながら、自身の芸術的仕事に従事するであろう。

 必要な日常の仕事に美を添えることは、多くの人の芸術的情熱にはけ口を与えるだろう。しかしそれだけではなく、美しい外観を持つ私たちの工場は、内部においても清潔な刑務所や救貧院[2]とは一線を画すであろう。その建築の内部は、その特殊な環境に適した装飾形式によって飾られる。最高級の最も知的な芸術、すなわち絵画や彫刻などが、なぜ産業の真の宮殿を飾ってはならないのか、私にはその理由が理解できない。人間的で理性的な生活を送る人間であれば、過剰な装飾を控えることは簡単である。ここにおいて、特に日々の必要な仕事が芸術的仕事に僅かな機会しか与えない場合には、労働者の特殊な才能を発揮する機会が与えられるだろう。

 従って、私たちの社会主義的工場は、共同体にとって有用な品物を作る以外に、そこの労働者には労働時間の短い抑圧的でない仕事を、子供と若者には教育を供給するだろう。真面目な職業、楽しい息抜き、労働者のための余暇、それに加えて、美しい環境および美を生み出す力も、余暇と教育と真剣な職業を持った人々によって要求されるだろう。

 こうした諸々のことが労働者にとって望ましくないなどと言うことは、誰にもできない。しかし私たち社会主義者は、それが望ましいと思われるだけでなく、必要であるとも思われるように努力しているのだ。そして私たちは、それが現在の社会体制の下では実現不可能であることを知っている。――なぜ不可能なのか? その理由は、それを獲得するために必要な時間も労力も思索も持つ余裕がないからである。繰り返し言うが、いま私たちにはその余裕がない――私たちは戦争中なのだ。階級対階級、人間対人間の。私たちは全ての時間をそれに費やしており、平和のための芸術(arts)ではなく戦争のための術策(arts)に忙殺されている。術策といっても、要するに詐欺と抑圧だが。こんな条件下では、労働は、労働者を堕落させ、その仕事に依存して生活する連中を一層堕落させる恐ろしい重荷にしかなりえない。

 これこそが、私たちが打倒したいと願い、もはや労働が重荷とはならない体制に取って代えようとしている体制なのである。


訳註
[1] モリスが知識の共有を理想社会の満たすべき条件の一つとして見なしていたこと、及びそれを実現するには競争原理の廃止と、それに代わる協力原理の樹立が必要であると考えていたことを明瞭に示す一文です。この段落の言葉は、現代のオープンソース運動の主導者が言ったとしてもおかしくない内容です。

[2] 救貧院は、救貧法に基づいて設立された貧民の収容施設です。イギリスでは古くからキリスト教団体などによる私設の救貧院がありましたが、19世紀には国家運営の救貧院が多く存在しました。しかし不十分な制度であったため多くの批判を招きました。

 

著:W.モリス 1884.6.28
訳:ミック
作成日:2005/08/27
最終更新日:2017/06/22 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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