ホームモーリッツ・シュリック

I  II  III  IV  V

I

 哲学的問題は、普通の科学的問題と比較すると、常に奇妙に逆説的である。中でも、命題の意味に関する問題が深刻な哲学的困難を構成するということは、特別に奇妙なパラドクスであると思われる。というのも、自身の意味を表現することこそ、あらゆる命題の本性であり目的であるのではないか? 事実、(馴染み深い言語の)命題を見るとき、私たちは大抵、即座にその意味を知る。意味が分からない場合、その意味を説明してもらうことができるが、その説明はまた新しい命題を含んでいる。そしてその新しい命題が意味を表現できるものであるならば、元の命題が意味を表現できないなどということがあるだろうか? それゆえ、ぶっきらぼうな人間が、ある言明によって何を意味しているのかと問われたとき、「私はまさに、言った通りのことを意味したのだ!」と答えることは完全に正当化されるであろう。

 命題の意味に関する質問に対して、より明確にして、あるいは、少し異なる言葉を使って、単にもう一度繰り返して答えるということは、日常生活や、あるいは科学においてさえ論理的に正当なことであり、実際普通に行なわれていることである。では、私たちが眼で見、耳で聞く言明の意味について問うことが何らかの意味を持ちうるのは、いかなる状況においてであろうか?

 唯一考えられる可能性は、明らかに、私たちがそれを理解しなかったときである。そしてその場合、私たちが眼で見、耳で聞くものは、扱うことのできない語の羅列でしかない。私たちはそれの使い方、それを「現実に適用する」[1]仕方を知らない。そのような語の羅列は、私たちにとっては単に「意味を欠いた」記号の複合物、つまり単なる音の列や紙上の記号列でしかない。私たちにそれを「命題」を呼ぶ権利は全くない。そこで、こうした記号列を「文(sentence)」と呼ぶことにしよう。

 この用語法を採用するなら、先のパラドクスは簡単に除去することができる。つまり、私たちは命題の意味を問うことはできないが、文の意味を問うことはできるのであり、その問いは要するに、「その文はどのような命題を表しているのか?」というものである。そしてこの問いに答えるには、二通りの方法がある。一つは、私たちが熟知している言語の命題を述べることであり、もう一つは、その文から命題を作り出す論理規則、つまり、その文がいかなる状況で用いられるべきかを正確に示す論理規則を述べることである。この二つの方法は、実際のところ、原則的には異なるものではない。どちらも、確定的な言語体系内に、いわば文を位置付けることによって、文に意味を与える(命題に変換する)ことである。前者は、既に私たちが手にしている言語を利用する方法であり、後者は、そのための言語を新しく作り上げる方法である。前者は、普通言われるところの「翻訳」の最も単純な種類のものを表現した方法であるが、後者は意味の本性についてより深い洞察を与えてくれるのであり、文の理解に関連する哲学的困難を克服するために用いられなければならない。

 こうした諸困難の源泉は、私たちが語の扱い方を知らない場合が非常に頻繁にあるという事実に見出すことができる。私たちは、用語の意味を構成する確定的な論理的文法について合意しないまま、話し始めたり書き始めたりする。私たちは、もし文中に現れる全ての語を知っているなら、文の意味を知っている(すなわち文を命題として理解している)と考える間違いを犯す。しかし困難の源泉はこれだけではない。私たちの言葉を形成し、またその言葉が適用される日常生活の範囲内である限り、混乱や誤りに陥ることはないであろうが、抽象的な問題を、日常生活で用いるのと同じ語を使って――新しい目的のために慎重に用語の意味を確定させずに――考えようとすれば、私たちはたちまち誤りを犯すことになる。なぜなら、いかなる語も、確定的な意味を持つのはそれがあてがわれた確定的な文脈においてのみだからである。他のどのような文脈においても、私たちがその語に、新しい事例における新しい使用規則を与えない限り、何の意味も持たない。そして新しい使用規則は、少なくとも原則的には、非常に場当たり的に与えられるものであろう。

 一つ実例を考えてみよう。ある友人が私に向って「イギリスの空の3倍青い空を持つ国を俺によこしてくれよ!」と言うとしよう。彼の望みをどうやったら叶えられるか、私が知るはずがない。私にとって彼の句は無意味であると思われよう。なぜなら、「青い」という語が、私たちの言語の規則とは異なる使われ方をしているからである。色の名前と数詞の組み合わせは、私たちの言語には現れない。それゆえ、この友人の文は、見かけこそ命令や願望の言語形式をしているものの、無意味である。だがもちろん、彼はこの文に意味を与えることができる。私が「君は『3倍青い』ということで何を意味しているのか?」と訊ねたなら、彼はその時その時で、この句によって記述したいと思った空の清澄さに関する特定の物理的状況を示すことができる。その後なら、恐らく私は彼の指示に従うことができるようになるだろう。つまり、彼の願望は私にとって有意味となるであろう。

 従って、ある文について「それは何を意味しているのか?」と問うとき、私たちは常に、その文が使われるべき状況についての指示を答えとして期待しているのであり、その文が真な命題を形成する諸条件、および偽な命題を形成する諸条件の記述を欲しているのである。語、または語の結合の意味は、このようにして、文の使用を制限する規則の集合として決定される。ウィトゲンシュタインに倣ってこの規則を、文法という語の最も広義の意味における、文の文法規則と呼ぶことができよう。

 (上述した意味についての考えが、私が確信しているほど正しいものであるなら、私はその成果の大部分をウィトゲンシュタインとの会話に負っている。彼はこれらの問題についての私の見解に多大な影響を与えた。この哲学者から私が得た恩恵は、どれほど強調してもしすぎることはない。この論文の内容について彼にいかなる責任も負わすつもりはないが、主要な点については、彼も賛同してくれると期待するだけの根拠は持ち合わせている。)

 文の意味を述べることは、文がそれに従って使われるべき規則を述べることに帰着する。そしてそれは、その文が検証されうる(あるいは反証されうる)仕方を述べることと同じである。命題の意味とは、その検証方法である[2]

 この「文法的」規則は、部分的には普通の定義、つまり語を別の語によって説明する定義 [=言語的定義] から構成されるが、いわゆる「直示的(ostensive)」定義、つまり語を現実の使用に当てはめる定義からも構成される。直示的定義の最も単純な形態は、子供に「青い」という響きの意味を青い対象を示すことによって教えるときに、語を発音しながら対象を指す身振りをすることである。しかし多くの場合、直示的定義の形態はもっと複雑である。私たちは「なぜなら」、「直接的」、「機会」、「再び」などの語に対応する対象を指すことができない。その場合、私たちは特定の複合的な状況の存在を要求し、そうした様々な状況における語の使い方によって語の意味を定義する。

 私たちが言語的定義を理解するためには、説明に使われる語の意味を事前に知っている必要があるが、直示的定義は、いかなる事前の知識も必要とせずに機能する唯一の説明である[3]。私たちは、究極的に直示的定義を参照するのでなければ、いかなる意味の理解の仕方もないという結論をくだす。そして直示的定義を参照するということは、明白な意味において、「経験」または「検証可能性」を参照するということである。

 直示的定義とは状況であり、これより単純な、または疑問の余地のないものはないと思われる。命題の意味は経験における検証の規則を与えることでのみ与えることができると主張するとき、私たちが記述するのはこの状況以外の何ものでもない。(「経験における」という限定は本当は不要である。経験によらない検証など認められないからである。)

 この見解は「意味の検証理論」と呼ばれている。しかしこれは全く理論ではない。なぜなら、「理論」とは、ある特定の主題についての仮説の集合に対して使われる用語であり、私たちの見解には何の仮説も含まれないからである。含まれるのは、日常生活と科学において、意味を実際に命題に割り当てる方法についての単純な言明だけである。 [命題に意味を割り当てる] 他の方法など決して存在しなかったのであり、仮に、常識に反する新しい意味の概念を発見したと信じ込み、それを哲学に持ち込もうとするなら、重大な誤りを犯すことになるだろう。反対に、私たちの [意味の] 概念は常識および科学的手続きと調和するだけでなく、それらから導き出されさえするのである。意味についての私たちの規準は、常に現実に用いられてきた。過去、この規準が定式化されたことは滅多にないが、おそらくそれだけが、非常に多くの哲学者が [この規準の] 実現可能性を否定しようとする唯一の理由である。

 この規準を明確に定式化した最も有名な例は、「離れた二地点において同時に起こる二つの出来事について語るとき、私たちは何を意味しているのか?」という問いに対するアインシュタインの答えである。その答えは、二つの出来事の同時性を実際に確かめる検証方法を記述することにおいて成り立つ。アインシュタインの哲学的な論敵は、上の質問の意味はいかなる検証方法とも独立に知られると主張した――何人かは未だに主張している。私が試みようとしていることは、ただ、アインシュタインの立場に一貫して忠実であること、そしていかなる例外も認めないことである。(ブリッジマン教授[4]の著書『現代物理学の論理』は、このプログラムを物理学の全ての概念について実行しようという賞賛すべき試みである。)私は、アインシュタインの論敵が正しいと考える人に向けて書くつもりはない。


* * *


II

 C.I.ルイス教授は、「経験と意味」(本誌1934年3月に掲載)における注目すべき発言において、正当にも、前節で展開された見解が(彼はこれを「経験的意味の要件(empirical-meaning requirement)」と呼んでいる) いわゆる「ウィーン学団の論理実証主義」と呼ばれてきた哲学全体の基礎を形成すると述べている。彼はこの基礎を不適切なものであると批判しているが、その主な理由は、この基礎を受け入れると「有意味な哲学的議論」に特定の制限が課され、ある点ではそうした議論は完全に不可能になり、またある点では耐えがたいほどに制限されるだろう、というものである。

 ウィーン学団の哲学(むしろ整合的経験主義(Consistent Empiricism)と呼ぶのが相応しい)の主要な論点の幾つかについては、私も責任を負う者だが、実際のところ、それが有意義な哲学的営為に制限を課すことなど全くないと思われる。そこで私は、ルイス教授の主要な反論について検討し、それらが私たちの立場を危くすることはないと考える理由を――少なくとも私自身が答えうる範囲において――示すことにしよう。私の議論の全ては、第I節で述べたことから導かれる。

 ルイス教授は、経験的意味の要件を「提示された任意の概念または主張された任意の命題が確定的な表示対象(denotation)を持つということ、すなわち言語的・論理的に理解可能であるだけでなく、それ以上の意味において、概念の適用可能性を決定する、あるいは命題の検証を構成する経験的事項を特定できるということ」(p.125)であると記述する。だが「それ以上の意味において・・・」という言葉には何の正当化もない、言い換えれば、理解可能性の二つ(三つ?)の意味の間に違いはないと思われる。第I節の議論が示すように、私たちの見解に従えば「言語的かつ論理的な」理解は、当該の命題がいかにして検証されうるかを知っていることにおいて成立する。なぜなら、「言語的理解」という言葉で私たちが意味していることが、その言葉の現実の使われ方を知っていることでないとすれば、この用語はその言葉を見知っているという漠然とした感情以外のほとんど何も意味しえない。そして哲学的議論において、そのような感情を「理解」と呼ぶことが望ましいとは思われない。同様に、私たちが単に、文の外面的形式が適正な命題の形式をしていると確信しているだけのときに(例えば、主語-繁辞-形容詞という形式をしていれば、物の性質を述べる文であるように見える)、その文を「論理的に理解可能」なものとして語ることも推奨できない。というのも、この句によって私たちが言おうとしていることは、それ以上のことだと思われるからである。私たちは、ある文が「論理的に理解可能」と言うことで、その文の全文法を完全に承知しているということ、すなわち、その文があてがわれる諸状況を正確に知っているということを意味しようとしているのである。従って、命題の検証方法の知識とは、命題の言語的・論理的理解以外のものではなく、それと同一である。それゆえ、ある命題が検証可能であることを要求するとき、私たちは新しい必要条件を付け加えているのではなく、意味と理解可能性の必要条件として常に実際に承認されてきた諸条件を定式化しているだけなのである。

 「私たちが文の真偽をテストする方法を示すことができなければその文は意味を持たない」と述べるだけでは、「テストの方法」や「検証可能性」といった句の意味を慎重に説明しない限り、あまり役に立たない。ルイス教授がそのような説明を要求するとき、彼は全く正しい。彼自身、説明を与えられそうな幾つかの道を示唆しており、嬉しいことにその示唆は私自身と私の僚友たちの見解と完全に一致すると思われる。ルイス教授が認める意味でのプラグマティストとウィーン学団の経験主義者の間には、見解上に何ら重大な差異がないことは容易に示せるであろう。そしてもし特殊な問題において両者が異なる結論に達することがあれば、その溝を架橋するために慎重な検討を行うことが望まれるであろう。

 さて、私たちは検証可能性をどのようにして定義するか?

 まず最初に指摘しなければならないが、「命題はそれが検証可能であるときに限り、意味を持つ」ということは、「命題はそれが検証されれば、意味を持つ」ということと同じではない。この簡単な指摘によって、主要な反論のうちの一つが片付けられる。それはルイス教授が「いまここの困難」と呼ぶものであるが、それはもはや存在しない。私たちがこの困難に陥るのは、意味の規準として「検証可能性」ではなく検証そのものを使う場合だけである。この困難に嵌ると確かに [ルイス教授の言うように] 「意味を馬鹿げたものへと還元すること」につながるであろう。これが、検証と検証可能性という二つの概念を混同する間違いから生じるものであることは明白である。ラッセルの言明「経験的知識は私たちが実際に観察するものに限られる」(ルイス教授はこれをp.130で引用している)がこの間違いを含むと解釈するべきかどうか、私には分からない。だがその見解の起源を探ることは確かに有益であろう。

 ルイス教授がp.131で行っている議論(ただし彼は誰かを論破しようとしているわけではない)について考察してみよう。
いかなる文(issue)も、それが決定的な検証のテストを受けられない限り意味を持たないと主張されていると想定しよう。そしていかなる検証も、まさに主体の現在の経験においてしか起こりえない。そのため、意味をその中に保持する経験において実際に存在するもの以外の何物も、意味ではありえない。
 この議論は、二つの前提から一つの結論を導く形式を持つ。とりあえず、第二の前提は有意味かつ真であると仮定しよう。それでも、ルイス教授が導いたような結論は出てこないことが分かる。なぜなら、最初の前提が保証することは、文は検証可能であれば有意味であるということであり、検証が実際に行われる必要はないからである。だから、検証が未来において実施可能なのか、それとも現在のみにおいて実施可能なのかは [文の有意味性の規準とは] 全く無関係なのである。それに加えて、第二の前提も当然ナンセンスである。なぜなら、「検証は現在の経験においてしか起こりえない」という文によって一体いかなる事実を記述できるというのか? 検証とは行為、あるいは聞いたり退屈に感じたりするのと同様の過程ではないのか? 私は現在の瞬間にのみ聞いたり退屈に感じたりすることができる、などとは言えないのではないか? そう言うことで何を意味しえるというのか? こうした句に含まれる特有のナンセンスは、後に「自己中心的な困難」について述べるとき、より明らかになるだろう。今は、経験的意味の要件は、現在にまつわる困難とは無関係であったことを確認することで満足しよう。「検証可能」とは「今ここで検証可能」であることさえ意味しないのだから、まして「今まさに検証されている」を意味するわけがない。

 恐らく、命題の検証可能性を確認する唯一の方法は、実際に検証を行うことにあると思われよう。だがこれが正しくないことを、私たちはすぐに見ることになる。

 意味を「直接に与えられるもの」と結びつけようとする強い誘惑は、誤った道へ私たちを誘うものだと思われる。ウィーン学団の実証主義者にさえ、この誘惑に負けて、この間違いへ近づく危険を犯した者がいたかもしれない。例えばカルナップの『世界の論理的構築』の一部には、未来の出来事についての命題は、実は全く未来について言及しているのではなく、現存する特定の期待を主張しているだけだと示唆していると解釈できそうな記述がある。(同様に、過去について語ることも、実は現在の記憶について語ることを意味するということになろう。) しかし、今はカルナップもこの見解を持っていないことは確かであり、これを新しい実証主義の教えとみなすこともできない。反対に、私たちは当初から、意味の定義はそんな馬鹿げたことを含意しないと指摘してきた。そして「しかし君はどうすれば未来の出来事についての命題を検証できるのか?」と訊ねられたとき、私たちはこう答えたのである。「例えば検証が行われるまで待ってはどうか! 『待つ』というのも完全に正当な検証方法の一つだよ。」


* * *

 従って私の考えでは、「私たちは直接的に与えられたもの以外を意味しえない」と言うことはナンセンスであろうという点には、全員が ―― 整合的経験主義者も含めて ―― 同意する。この文の「意味する」を「知る」で置き換えると、先に引いたラッセルの言明に似た文が得られる。この種の句を定式化したいという誘惑の源泉は、私の信じるところでは、「知る」という動詞の曖昧さにある。これは多くの形而上学的困難の源泉であり、それゆえ私は、他の箇所(例えば『一般認識論』第2版 1025, 第12節を参照)でもしばしば注意を促さねばならなかったのである。まず第一の意味では、この語は単純に「与件を意識している」ということを表す。つまり、感情、色、音などが単に現前していることを表す。そしてもし「知識」という語がこの意味で解されるなら、「経験的知識は私たちが実際に観察するものに限られる」という主張は全く何も語らず、単なるトートロジーである[5]。(私の考えでは、この場合はルイス教授が「知識関係」の「同一性理論」と呼ぶものに一致するであろう。こうした理論はこの種のトートロジーに基づいており、意味を欠いた空虚な言葉の反復であろう。)

 第二の意味では、「知識」という語は、科学や日常生活において重要な意味を持つ使われ方をする。この場合、ラッセルの主張は(ルイス教授が述べたように)明らかに偽であろう。ラッセル自身は、周知のように、「直知による知識」と「記述による知識」を区別する。だが恐らくこの区別は、たった今私たちが主張した区別とは完全には整合しないと言わねばなるまい。


III

 検証可能性とは検証の可能性である。ルイス教授の「『可能な検証』に帰属しうる広範な意味について全く検討することを怠れば、この概念全体がかなり曖昧なまま放置されてしまうだろう」(p.137)というコメントは正当である。私たちの目的のためには、「可能性」という語の多様な使われ方のうち二種類を区別すれば十分である。私たちはそれを「経験的可能性」と「論理的可能性」と呼ぼう。ルイス教授はこの区別と正確に一致する二種類の「検証可能性」の意味を述べてくれている。教授はこの区別を十分承知しており、私が付け加えるべきことは、この区別を慎重に行い、それが私たちの問題にもたらす影響を示すこと以外にはほとんどない。

 私は「経験的に可能」という言葉を、自然法則に矛盾しないという意味で使うことを提案する。これは、私が思うに、経験的可能性ということで意味しうる最も広義の意味合いである。私たちはこの用語を、自然法則に従って生起する出来事だけでなく、現実の宇宙の状態も含めて使う。(ここで「現実の」とは、私たちが生きている今この瞬間、または地球上における人類の状況などを指す。) 私たちが後者の定義(これがルイス教授が「現実によって条件づけられた可能な経験」(p.141)というときに思い描いているものだと思うが)を選ぶなら、今の目的のために必要な明確な境界づけはできないに違いない。それゆえ、「経験的可能性」は「自然法則との適合性」を意味するのでなくてはならない。

 ところで、お世辞にも私たちは自然法則について完全かつ確実な知識を有しているとは言えない。ゆえに、いかなる事実についてもその経験的可能性を確実に主張できないことは明白である。だから、私たちに許されるのは可能性の逓減(degress)について語ることである。私がこの本を持ち上げることは可能か? もちろん可能だ! ――このテーブルは? 可能だと思う! ――このビリヤード台は? 不可能だと思う! ――この車は? 絶対に不可能だ! ――こうした事例においては、答えは過去に行われた実験の結果として、経験によって与えられる。経験的可能性についての全ての判断は経験に基づいており、かなり不確実である場合が多いだろう。その場合、可能性と不可能性の間に明確な境界はない。

 私たちが主張する検証可能性も、この種の経験的なものであろうか? もしそうなら、検証可能性には程度の違いが存在することになり、意味についての問いは「持つ/持たない」の問題ではなく「多い/少ない」の問題になるだろう。私たちの問題に対する多くの反論で議論の的になっているのは、この経験的可能性である。例えばルイス教授が挙げる検証可能性の様々な実例は、検証が実行されたり実行できなかったりする様々な経験的状況の例である。私たちの意味の規準を受け入れることを拒否する論者の多くは、特定の事例に検証を適用する手続きを次のようなものだと想像している。まず命題が完成品として私たちに提示される。そしてその意味を発見するために、種々の検証方法を試みる。そのうちの一つが成功すれば、命題の意味を発見し、一つも成功しなければ、その命題は意味を持たないということになる。本当にこんな手続きを踏む必要があるとすれば、意味を決定することは完全に経験の問題となり、多くの場合、明確で最終的な判断は得られないだろう。検証方法が一つも成功しなかった場合、もうそれで十分検証を尽くしたと、どうして分かるのか? もっと粘って頑張れば、今まで見つけられなかった意味が明らかになることもあるのではないか?

 こうした考え全体が、もちろん誤りである。これはまるで、殻の中に実が入っているように、意味を命題の中に内在するある種の実体であるかのように考えることである。この意味観を前提すると、哲学者は殻(文)を割って実(意味)を取り出さなくてはならない。 [だが] 私たちは、第I節の考察から、命題が「完成品として」与えられることはありえないこと、意味は文の中に内在するものではなく、従って発見されるものではなく文に与えられるものであることを知っている。そして文に意味を与えるには、第I節で説明したように、文に私たちの言語の論理的文法の諸規則を適用することである。こうした規則は「発見」されるような自然の事実ではなく、定義によって規定される処方(prescription)である[6]。こうした定義は、問題の文を発する人間と見聞きする人間が知っていなければならない。さもなければ、彼らはいかなる命題も見ておらず、検証を試みるべき何物もないことになる。なぜなら、単なる語の羅列を検証したり反証することは不可能だからである。意味を知る――つまり検証可能性を明確にする――以前に、検証を始めることさえできないのである。

 換言すると、意味に関する検証可能性は、経験的可能性ではありえない。つまり、事後的に確立されるものではありえない。経験的状況について考え、その状況が検証を許すか否か、あるいはいかなる条件下なら許されるのかを調べることができる以前に、知られていなければならないものである。経験的状況は、命題の真偽(それが科学者の関心事である)を知りたい場合には極めて重要である。しかし状況は命題の意味(これが哲学者の関心事である)には影響を及ぼしえない。ルイス教授はこのことを良く理解し、明確に表現している(p.142の最初の6行を参照)。私が答えうる限りで言うなら、この論点については、ウィーン学団の実証主義も教授と完全に意見を同じくする。強調しなければならないことは、私たちが検証可能性について語る場合、それは検証の論理的可能性を意味しているのであって、それ以外の何ものも意味しているのではない、ということである。


* * *

 私は記述可能な事実や過程を「論理的に可能」と言う。つまり、それらを記述する文が、私たちが自分たちの言語に対して規定した文法規則に従う場合である。(これは少し不正確な言い方である。記述しえないような事実は、当たり前だが、そもそも事実ではないからである。事実はすべからく論理的に可能である。だが言わんとするところは理解してもらえると思う。) 幾つか例を挙げよう。次の文を見てほしい。

     「私の友人は明後日に死んだ」
     「その女性は明るい緑色をした暗い赤のドレスを着ていた」
     「その鐘楼の高さは100フィートであり、かつ150フィートである」
     「その子供は裸だったが、白くて長いナイトガウンを着ていた」

 明らかに、これらの文は、普通の日本語に現れる語の用法を支配する規則を破っている。これらは全く何の事実も記述しない。論理的不可能性を表しているがゆえに無意味なのである。

 私たちが論理的不可能性について語るときは常に、用語の定義と実際の使われ方の間の不一致に言及しているのだということを理解することが、(現在の目的のためだけでなく、哲学の問題全般に取り組むときにも)最も重要である。私たちは、論理的原理(つまり矛盾律)を、思考の心理的過程を支配する自然法則として解釈した昔の経験主義者(例えばミルやスペンサー)が犯したのと同じ酷い間違いを犯してはならない。上に挙げたナンセンスな文は、ある種の心理学的な実験によって私たちが考えられないと判明した思考と一致するのではない。これらはいかなる思考とも全く一致しない。私たちが「この塔の高さは100フィートであり、かつ150フィートである」という言葉を聞くとき、異なる高さの二つの塔の心像が心の中に現れることはあるかもしれない。そしてその二つの像を一つに統合することが心理学的に(経験的に)不可能であることを発見することもありえよう。だがそれは、「論理的不可能性」という言葉で言われるところの事実ではない。一つの塔の高さは同時に100フィートであり、150フィートであることはできないし、子供は同時に裸で、かつ服を着ていることはできない――しかしその理由は、私たちがその様子を想像できないからではなく、「高さ」、数詞、「裸の」、「服を着ている」といった語の定義が、特定の組み合わせと適合不可能だからである。「定義が特定の組み合わせと適合可能ではない」ということは、私たちの言語の規則がそのような組み合わせの用法を与えていない、ということを意味する。つまり、そうした語の結合はいかなる事実も記述しない。もちろん、私たちは規則を変更して「赤く、かつ緑である」とか「裸であり、かつ服を着ている」といった言葉に意味を用意することができる。しかし普通の定義(それは私たちの実際の語の使い方において現れる)に忠実であろうとするなら、私たちはそうした語の組み合わせを無意味であると、すなわち、そうした言葉はいかなる事実も記述しないものであると決定するのである。私たちがいかなる事実を想像できて、いかなる事実を想像できなかったとしても、「裸の」(あるいは「赤い」)という語がその事実の記述において現れるなら、私たちは、同じ記述のその箇所に「服を着た」(あるいは「緑の」)という語を置くことができないと決めたのである。このルールに従わない場合、それが意味するのは、私たちがこれらの語に新しい定義を導入しようと望んでいるということ、あるいは、それらの語を、ナンセンスに対してそうするように、意味を欠いたまま使うことを気にしないということである。(私はこうした態度を無条件に非難するわけではない。ある場合には――例えば不思議の国でのアリスのような立場に置かれたなら――意味のない言葉を使うことだけが賢明な態度であり、かつ、どんな論理学の論文よりもはるかに面白いこともありうる。だが論理学の論文においては、異なる態度を期待する権利がある。)

 私たちの考察の結論は次の通りである。検証可能性は有意味性の必要十分条件であり、それは論理的秩序の可能性である。それは、語を定義する諸規則に従って文を構成することによって作られる。検証が(論理的に)不可能な唯一の場合とは、私たちが検証のための規則を全く用意しなかった場合である。文法的規則は自然界のいたることろに見いだされるものではなく、人間によって作られるものであり、原則的に恣意的である。そのため、文に意味を与えることは、文の検証方法を発見することによってではなく、ただ検証の行い方を規定することによってのみ可能なのである。従って、検証の論理的可能性または不可能性は、常に検証自身にかかっている。もし私たちが意味を欠いた文を発すれば、それは常に私たち自身の間違いなのである。

 前段の最後の見解が持つ大きな哲学的重要性に気づくのは、私たちが言明の意味について語ったことが、問いの意味についても当てはまることを考えるときである。もちろん、この世には人間が答えることのできない問いが数多く存在する。しかし答えを見つけることの不可能性は二種類に分類されるだろう。もしそれが上で定義した意味での経験的不可能性に過ぎないのであれば、つまりそれが人間という存在がたまたま閉じ込められている状況のせいで不可能なのであれば、自分たちの運命を嘆き、人間の肉体的・精神的な能力の弱さを悔やむだけの理由があるかもしれない。だがその場合、問題は絶対に解決不可能だと言い切ることはできないし、少なくとも未来の世代には、常に希望があるであろう。なぜなら、経験的な状況は変わりうるし、人間の能力も発達するかもしれない、それに自然法則でさえ変化しうるのだから(多分その変化は全く突然に起こるため、宇宙はずっと発展的な研究の対象となるであろう)。この種類の問題は実際的に解答不可能とか技術的に解答不可能と言うことができよう。これらは科学者を非常に悩ませるだろうが、一般原則にしか関心のない哲学者は大して興奮することはないだろう。

 しかし、答えを見つけることが論理的に不可能な問いについてはどうだろう? そうした問題は想像可能な全ての状況下において解決不可能である。その問題は私たちを完全に絶望的な無知(Ignorabimus)に直面させるだろう[7]。そして哲学者にとって、こうした問いがあるか否かを知ることは極めて重要なことである。ところで、この不幸な事態が生じるのは問いそのものが無意味な場合に限られるということを理解するのは、これまでに述べてきたことを振り返れば容易なことだ。そうした問いは全く本物の問いではなく、文末に?マークを付けた単なる語の羅列であろう。問いが有意味なのは、私たちがそれを理解できるとき、すなわち、与えられた任意の命題に対して、もしそれが真であるなら、問いの答えになるか否かを判断できるときだけであると言わねばならない。そしてもしそうなら、現実に判断を下すことを妨げるのは経験的状況だけであり、つまり判断は論理的に不可能なのではないということになるだろう。従って、有意味な命題は全て、原理的に解決不可能ではありえない。もし任意の場合について、答えを見つけることが論理的に不可能である場合、私たちは本当は何も質問されておらず、問いのように聞こえた言葉が、実は語のナンセンスな組み合わせであったことを知っているのである。本物の問いとは、答えることが論理的に可能な問いである。これは私たちの経験主義の最も特徴的な結果の一つである。この結果が意味することは、原理的に私たちの知識に限界はないということである。認識されるべき境界は経験的なものであり、従ってそれは最終的な限界ではない。この境界は先へ先へと遠ざけていくことが可能である。ゆえに世界に不可思議な謎は存在しない。


* * *

 検証の論理的な可能性と不可能性を分かつ一線は、完全に明確で確定的である。意味と無意味の間に段階的遷移など存在しない。というのも、 [両者の違いは] 私たちが検証のための文法的な規則を与えたか、与えなかったの違いだからである。排中律である。

 経験的可能性は自然法則によって決定されるが、意味と検証可能性は自然法則から完全に独立である。私が記述あるいは定義できることは、全て論理的に可能である――そして定義はいかなる形でも自然法則とは関係していない。「川が丘を流れている」という命題は有意味であるが、それが記述する事実が物理的に不可能であれば偽になることもある。 [しかし] 私がその命題の検証のために規定した諸条件が自然法則と適合不可能だったとしても、それによって命題が無意味になることはない。例えば私は、光の速度が実際よりも速くなったときに限り、あるいはエネルギー保存の法則が無効になったときに限り満たされるような諸条件を用意することができる。

 私たちの見解に反対する論者は、上述の説明の中に危険なパラドクスや、あるいは矛盾さえ発見するかもしれない。というのも、私たちは一方では、これまで「経験的意味の要件」と呼ばれてきたものを強く主張しながら、他方では、意味と検証はいかなる経験的状況にも依存せず、純粋に論理的可能性によって決定されることを最も強調しているからである。反対者はこう反論するだろう。もし意味が経験的なものであるなら、どうしてそれが定義と論理によって決定されるものでありえようか?

 実際のところ、矛盾も困難もない。ただ「経験」という語が曖昧なのだ。第一に、これはいわゆる「直接与件(immidiate data)」の名前である――これは「経験」という語の比較的新しい使い方である――そして第二に、私たちはこれを「経験豊富な旅行者」というときと同じ意味で使うことができる。つまり、単にたくさん旅行しているだけでなく、自らの行動に役立つ利益を経験から引き出す方法を知っている旅行者という意味である。検証可能性は経験から独立であると宣言されるのはこの第二の意味においてである(余談だがヒュームとカントの哲学においても「経験」はこの意味で用いられる)。検証可能性は、いかなる「経験的真理」にも、「自然法則」にも、その他いかなる一般命題にも依存しない。それはただ、私たちの定義によってのみ、すなわち、私たちの言語のために規定された――あるいは私たちがその場その場で恣意的に決めることのできる――規則によってのみ、決定される。既に説明した通り、こうした規則は全て、最終的には直示的定義を参照する。そして直示的定義を通して検証可能性は第一の意味における経験と関係している。いかなる表現規則も、世界における法則や制限(ヒュームとカントが言うように、これが「経験」の条件である)を前提しない。それが前提するのは、 [直示的定義によって] 名前を付与できる与件と状況である。言語の規則は言語の適用規則であり、それゆえ、言語を適用できる何かが存在しなければならない。表現可能性と検証可能性は一つにして同一のものである。論理と経験は敵対関係にあるのではない。論理学者は同時に経験主義者であることができるだけでなく、自分が何をやっているのか知りたければ、経験主義者でなくてはならないのである。


IV

 伝統的哲学の諸問題に対する私たちの見解がどのような結果をもたらすかを示すために、幾つかの例を概観してみよう。まず、有名な月の裏側についての例を取り上げよう。(これはルイス教授も挙げる例の一つだ。) 私たちの誰一人として、月の裏側について語ることがナンセンスであるという見解を受け入れたりはしないと思う。私たちの説明によるなら、この場合、意味条件は十分に満たされているということに、僅かでも疑念の余地がありうるだろうか?

 私は、疑念の余地は全くありえないと考える。なぜなら、「月の裏側はどんな様子だろう?」 という質問に対しては、例えば、月の裏側のどこかに居る人間が見たり触ったりしたことの記述によって答えることが可能であろうから。月面旅行が人間――あるいは別の生物でもいいが――にとって物理的に可能か否か、という問いは、ここでは提起する必要さえない。それは全く無関係である。たとえ地球外の天体への旅行が、既知の自然法則と完全に適合不可能であると分かったとしても、月の裏側についての命題は依然として有意味である。月の裏側についての文は、物質で満たされた空間内の特定の場所(それが「月の裏側」という言葉が表すものである)について語っているのだから、私たちが、「この場所は物質で満たされている」という形式の命題がいかなる状況下で真または偽になるかを示せば、この命題は意味を持つのである。「ある特定の場所における物理的実体」という概念は、物理学と幾何学の言語によって定義される。幾何学自身が、「空間的関係」についての私たちの命題の文法であり、物理的性質と空間的関係についての言明が、どのように直示定義による「感覚与件」と関係しているかを知るのは、さほど難しいことではない。ところでこの関係は、物理的実体が「感覚与件に基づいて作られた単なる構成物」であることや、物理的対象が「感覚与件の複合物」であることを保証するものではない――私たちがこれらの句を、「物理的対象」という語を含む全ての命題は、その検証のために感覚与件の存在を必要とするという言明のかなり不適切な省略形であると解釈しない限りは。そしてこれは確かに極めてくだらない言明である。

 月の例の場合、私たちは恐らく、命題を検証する状況を私たちが「想像」することができるなら意味要件は満たされる、と言うであろう。しかし一般的に、言明の検証可能性が、主張された事実の「想像」可能性を含意すると言うべきならば、命題は限られた意味においてのみ真になるであろう。想像可能性が経験的な種類のものである限り、すなわち、特定の人間の能力を含意するものである限り、これは正しくないだろう。例えば、10次元の宇宙とか、感覚器官を備えているが私たちとは全く異なる知覚を持つ生物について語ったとしても、 [それらが想像不可能だからといって] ナンセンスとして非難することはできないと、私は考える。確かに、そうした生物や知覚、10次元の世界を「想像」できると言う権利もまた、私たちにはないだろう。だが私たちは、どのような観察可能な状況であれば、いま言及した生物や器官の実在を主張するべきであるかを述べることができなくてはならない。明らかに、私は友人の声の響きについて、それを想像の中に実際に呼び起こさずとも、有意味に語ることができる。――この論文は「想像する」という語の論理的文法を議論する場所ではない。上に述べたことだけでも、検証可能性の心理学的な説明をあまりに安易に受け入れてしまうことへの警告にはなるだろう。

 私たちは、意味をいかなる心理学的与件とも同一視すべきではない。発音された音が話された文の原料を構成し、紙の上の黒い染みが書かれた文の原料を構成するのと同じ意味で、心理学的与件は心的な文(あるいは心的思考)の原料を構成する。しかし、算術の計算をしているとき、心の前に黒や赤の数字の像を持っているか、そうした視覚像を全く持っていないかは、 [計算式の意味の理解とは] 全く関係のないことである。仮に、あなたが経験的に、計算中に黒い数字を想像しなければ全く計算ができなかったとしても、その数字の心像は、当然、意味を構成するものとして見なすことは全くできないし、意味の一部分や計算を構成するものとしても見なせない。

 カルナップが、意味の問題は、思考という活動を構成する心的過程についての心理学的問題と何の関係も持たないという事実を強調するのは正しい。(これは「心理主義」の批判者たちによって常に強調されてきた事実である。)しかし、直示的定義への参照(これが私たちが意味のために規定するものである)はこの二つの問題の混同を含むものではない、ということを、彼が同じだけの明晰さをもって理解しているか、私には自信がない。例えば、私が「赤い旗」という言葉を含む文を理解するためには、私が「旗」と呼び、しかも他の色と区別して認識される「赤」という色を持った対象を指差すことのできる状況を指示できることが不可欠である。しかし、わざわざ赤い旗の像を想像する必要はない。対象を指すことと、対象を想像することの間には何の共通点もないということを理解することは、極めて重要である。ちょうど今、私は German という活字の大文字の G の形を想像しようとしたが、できなかった。だがそれでも、私は G について [有意味に] 語ることができる。それはナンセンスにはならない。そして私は、この文字を見れば、それを認識できるはずだということを知っている。赤い点を想像することは、「赤」の直示的定義を参照することとは全く別物である。検証可能性は、当該の文中の語と結びつきうるいかなる像とも関係を持たないのである。


* * *

 他の重要な例として、「不死性」について論じる場合も――ルイス教授はこれを形而上学的問題だと言うし、また多くの場合そう言われる――月の裏側の例より難しい点は見出されない。「不死性」とは永遠の生のことではない(これは無限を含むため、恐らく無意味であろう)。そうではなく、私たちが関心を持つ問題は、「死」後の生である。ルイス教授がこの仮説について「死後の生を検証する存在についての私たちの理解は、完全に明晰である」と言うとき、私たちは彼に同意することができると思う。実際、私が自分の葬式を目撃し、肉体なしに実在し続ける様子は、容易に想像することができる。なぜなら、いわゆる自分の体の諸部分とされる全与件が存在しないという一点においてのみ、私たちの日常世界と異なるような世界を記述することは、とても簡単だからである。

 この意味での不死性は、形而上学的問題とみなすべきではなく、経験的仮説であると結論せねばならない。というのも、この仮説は論理的に検証可能だからである。これは次のような処方によって検証できるであろう。すなわち、「君が死ぬまで待て!」 ルイス教授は、科学的観点からこの方法は不満足なものであると言う。彼はp.143で次のように言う。
 不死性の仮説は明らかに検証不可能である。……もし、科学的に検証可能なものだけが意味を持つ、ということが主張されているのなら、この概念は検証不可能性の格好の例である。これを科学的に検証することはまず無理であろう。そして、この仮説を反証するような否定的な結果をもたらす観察や実験を、科学は行うことができない。
 この引用において、私的な検証方法が非科学的であるとして拒否されている理由は、この方法は経験している人間自身の個人的な事例にしか適用されないが、一方、科学的言明は一般的証明が可能であり、注意深い観察者なら誰にでもその証明が開かれているものであるからだと、私は想像する。しかしなぜこの仮説が検証不可能とまで宣告されねばならないのか、その理由が分からない。逆に、死後も不可視の実在となって生き続けるという仮説が、観察される諸現象についての最も受け入れやすい説明であるような経験を記述することは簡単である。もちろん、そうした現象は、オカルティストの会合で起こるという馬鹿げた出来事よりも、はるかに信憑性が高い必要があるだろうが――しかし私の考えでは、「死後の生」仮説の科学的正当化を構成し、そのような生のあり方を科学的方法によって探究することを許すような諸現象の(論理的)可能性については、いささかの疑念もない。確かに、この仮説が完全に真であると立証されることはありえないだろうが、それは他の全ての仮説も同様の運命である。死者の魂は、私たちの知覚の及ばないどこか天上のさらに上の空間に住んでおり、従ってこの言明の真偽は絶対にテストできないと主張されるなら、返答はこうなるだろう。「天上のさらに上の空間」という語が、仮にも何らかの意味を持つのであれば、その空間は「到達が不可能な場所」または「そこで何かを知覚することが全て経験的な知覚に過ぎない場所」と定義されなければならず、従って、 [到達を阻む] 諸困難を克服するための手段は――たとえそれが、人間の力では実行不可能な手段だったとしても――最低限、記述できるであろう、と。

 従って、私たちの結論は次のとおりである。不死性の仮説は経験的言明であり、これが意味を持つか否かは、その検証可能性しだいである。この言明は、検証可能性を超えては、いかなる意味も持たない。この仮説を反証するような否定的な結果をもたらす実験を、科学が行うことができないことが認められねばならないとすれば、この言明は、類似の構造を持つその他多くの言明――とりわけ、この仮説に高い蓋然性を与えると見なされるべき多くの経験的事実についての知識以外の原因から生じた言明――が真であるのと同じ意味においてのみ、真である。


* * *

 次節では「外的世界の実在」に関する問題が論じられる。


V

 ではここで、基礎的な重要性を持ち、最も深い哲学的関心の向けられる論点を取り上げよう。ルイス教授はそれを「自己中心的な困難」と呼び、これを真剣に取上げようとすることが、論理実証主義の最も特徴的な側面であると述べている。この困難はp.128の一文において「実際に与えられる経験は、一人称において与えられる」と定式化されており、論理実証主義の教義におけるその重要性は、カルナップが『世界の論理的構築』において「この本の方法は『方法論的独我論』[8]と呼ぶことができる」と述べていることからも明らかである。ルイス教授が、自己中心的あるいは独我論的な原理は私たちの検証可能性の一般原理によって導かれるものではない、と考えているのは正しい。彼はこれを、検証可能性と並んでウィーン学団の哲学の主要な帰結を導く第二原理としてみなしている。

 ここで一般的なコメントが許されるなら、私は、真の実証主義の最も重要な利点と魅力は、それを当初から特徴付ける反独我論的態度であろうと言いたい。いかなる「実在論」にもほとんど危険がないように、独我論にもほとんど危険はない。そして、観念論と実証主義の主な違いは、後者が自己中心的な困難を完全に明確に保つ点にあると、私には思われる。実証主義者の考えの中に、独我論への傾向や主観的観念論への親近性を見出すことは、甚だしい誤解である(自ら実証主義者を標榜する思想家でさえ、この誤解を頻繁にやっている)。ファイヒンガー[9]の『かのようにの哲学』は、この手の間違いの典型例としてみなせるだろうし(彼は自分の本を「観念的実証主義の体系」と呼んでいる)、マッハとアヴェナリウス[10]の哲学は、最も整合的に間違いを回避しようと努めた哲学の一つである。カルナップが、彼の言うところの「方法論的独我論」を提唱して、基本的与件から全ての概念を構築する際に、「自己の心における対象」(自分にとっての実体)を第一与件とし、物理的対象の構築のための基礎に据え、最終的にはそこから他人の心の概念を導いていることは、少々残念である。しかし、間違いがあるとしても、それは主に用語上のものであって、思想上のものではない。「方法論的独我論」は独我論の一種ではなく、概念を構築するための方法である。そして忘れてはならないが、カルナップが薦める構築の順序――「私にとっての実体」から始めるもの――だけが、唯一可能な順序であることが主張されているのではない。別の順序で構築する方が良いということもあるだろうが、カルナップも原理的には、基礎経験は「主観なし」のものであるという事実をよく承知している(ルイス教授のp.145の記述を参照)。

 最も強調すべき点は、基礎経験は完全に中立的であるということ、あるいはウィトゲンシュタインも時として言うように、直接与件は「所有者を持たない」ということである。本物の実証主義者(例えばマッハなど)は、基礎経験が「『一人称的』という形容詞によって指示される、与えられた全ての経験が持つ性質や状態を持つこと」(p.145)を否定するがゆえに、「自己中心的な困難」を真剣に受け取ることができない。本物の実証主義者には、この困難は存在しないのである。基礎経験が一人称的な経験ではないことを理解することは、私が思うに、哲学がその最も深い諸問題を解明するための、極めて重要な前進の一つである。

 「自己」の特異な立場は、全ての経験の基礎的性質ではなく、それ自身が経験という(他の事実同様)一つの事実である。観念論(バークリーの「存在するとは知覚されることである」やショーペンハウアーの「世界とは私の表象である」によって表現されるような)および自己中心的な傾向を持つ他の諸々の教義は、経験的な一事実である自我の特異な立場を、論理的真理またはア・プリオリな真理と取り違えたり、自我をそうした真理の代わりに用いるという重大な誤りを犯している。この問題を探究し、自己中心的な困難を表現すると思われる文を分析することは、価値ある仕事である。これは退行ではない。なぜなら、この点を解明しなくては、私たちの経験主義の基礎的な立場を理解することもできないであろうから。

 観念論者や独我論者は、いかにして、私が知る限りの世界は「私の観念」であり、究極的に私が知っていることは「私の意識の内容」以外のものではない、という言明へ到達するのだろう?

 経験は私たちに、全ての直接与件は何らかの仕方で、私が「私の体」と呼ぶものを構成する与件に依存しているということを教える。この体の眼が閉じられれば、全ての視覚的与件が消失する。耳が塞がれれば、全ての音が止む、といった具合だ。この体は、それが常に特異な視点において見えるという事実によって、「他の生物の体」から区別される(例えば、鏡を見るのでなければ、背中や眼球は決して見えない)。しかしこのことは、もう一つの事実、つまり全ての与件はこの特異な体の器官の状態によって条件付けられているという事実ほど重要ではない。この体が「私の体」と呼ばれる唯一の理由を形成するのが、この二つの事実――それも恐らく大元は前者の事実であろう――であることは明らかである。 [「私の」という] 所有格名詞が、この体を他の体から区別する。この語は、今述べたような唯一性を表示する形容詞なのである。

 全ての与件が「私の」体(特に「感覚器官」と呼ばれる一部分)に依存しているという事実は、「知覚」という概念を形成することへ私たちを導く。この概念は、洗練されていない、未開人の言語には見出されない。彼らは「私は木を知覚する」とは言わず、単に「木がある」と言う。「知覚」という語は、知覚する主体と知覚される対象の違いを含意する。元々、知覚者は感覚器官またはそれが属する体であるが、体自身もまた――神経系統を含む――知覚対象の一つであるから、知覚者を「自我」、「心」、「意識」と呼ばれる新しい主体で置き換えることによって、元々の視点はすぐに「修正」される。こうした主体は、たいてい何らかの形で体の中に宿るものとして考えられているが、その理由は、感覚器官が体の表面にあるものだからである。意識や心を体の内部(「頭の中」)に位置付けることの誤りは、R.アヴェナリウスによって「投入作用(introjection)」の名で呼ばれている。これがいわゆる「心身問題」の諸困難の主要な源泉である。投入作用の誤りを避けることによって、同時に、独我論へと通じる観念論的な誤りも避けることができる。投入作用が誤りであることを示すのは容易い。私が緑の草地を見るとき、「緑」は私の意識の内容であることが言明されている。しかし、それは間違いなく私の頭の中にあるものではない。私の頭蓋骨の中には、脳以外は何もない。もし私の脳に緑色の点が現れたとしても、それは明らかに草地の緑ではなく脳の緑である。

 しかし私たちの目的のためには、こうした一連の思考を追う必要はない。事実を明確に述べ直すだけで十分である。全ての与件が何らかの形で、(鏡を使わない限り)その眼や背中を見ることができないという特異性を持つ特定の体の状態に依存するということは、経験的事実である。この体が通常「私の体」と呼ばれる。しかしここで、間違いを避けるために、私はこの身体を「M」と呼ぶことにしたい。今さっき述べた、与件がMに依存するということの個別的な事例は、「体Mが作用を受けない限り、私は何も知覚しない」という文によって表現される。あるいはもっと特殊な事例の場合、私は下のような言明を行なうことができる。

体Mが傷ついた場合に限り、私は痛みを感じる。 (P)

 私はこの言明を「命題P」と呼ぼう。
 さて、次に別の命題(Q)を考えてみたい。

私は私の痛みだけを感じることができる。 (Q)

 文Qは様々な仕方で解釈できる。第一に、Pと同値であり、PとQは同一の経験的事実の異なる二つの表現方法に過ぎないと見なすことができる。 [その場合] Qに現れる「できる」という語は、私たちが「経験的可能性」と呼ぶものを表示するだろうし、「私は」と「私の」という語は、体Mを指示するだろう。最も重要なことは、この第一の解釈では、Qは経験的事実、すなわち、私たちがそうではない事態を想像できる事実の記述であるという点を認識することである。

 私たちは、友人の体が傷つく度に私が痛みを感じ、彼が喜びの表情をすると私が陽気になり、彼が長く歩くと私が疲れを感じ、彼が目を閉じると私は何も見えなくなる、などといった事態を、容易に想像することができる(私はここで、ほぼウィトゲンシュタイン氏が述べた考えに従っている[11])。(Pと同値であると解釈された場合の)命題Qは、これらの事態が起こりうるということを否定する。もし仮にこれらの事態が起こったなら、Qは偽となるだろう。従って私たちは、Qを真にする諸事実、およびQを偽にする諸事実を記述することによって、Q(またはP)の意味を指示する。もし後者の種類の事実が起こったなら、私たちの世界は、私たちが実際に生きている世界と少し異なるものになるだろう。その世界では、「与件」の性質は、体Mだけでなく他人(恐らくはその中の一人)の体にも依存することになるだろう。

 この作り話は、現実の自然法則と適合しないため――そのことについて私たちは完全には確信できないとはいえ――経験的には不可能である。しかし、論理的には可能である。なぜなら、私たちはそれを記述することができるから。そこでしばらくの間、この作り話の世界が現実であると仮定してみよう。すると、私たちの言語はいかにしてこの世界に適用されるだろうか? そこには、私たちの問題にとって興味深い二つの異なる適用の仕方がある。

 命題Pは偽になるだろうが、Qに関しては、二つの可能性がある。第一の可能性は、Qの意味はやはりPと同じであると主張するものである。この場合、Qは偽となり、代わりに次の真な命題によって置き換えられるだろう。

私は自分の痛みだけなく、他人の痛みも感じることができる。 (R)

 Rが述べるのは、「痛み」という与件は、Mが傷ついたときだけではなく、他の体、例えばQが傷ついたときにも生じるという経験的事実である(当面の間、この言明を真とみなそう)。

 私たちがこのような仮定の事態を命題Rによって表現する場合、「独我論的な」言明を行ないたくなる誘惑や理屈が存在しないことは明白である。私の体は――今の場合、それが意味しうるのは「体M」以外のものではないだろう――それが特異な視点(背中が見えないなど)において現れるという点において、確かに他の体と区別される特有のものである。しかし、それが特有である理由はもはや、他の全ての与件の性質が依存する体がMだけだからではない。そして、自己中心的な見解を生み出す唯一の源泉が、この特徴だったのである。「外的世界の実在」に関する哲学的懐疑の源泉は、私が知覚、すなわち私の体の感覚器官による以外に、この世界の知識を持っていないという考えであった。もしこれがもはや真ではないのであれば、つまり、与件が他の体O(Mとは特定の経験的視点において異なるが、原理的には異ならない)にも依存するのであれば、その与件を「私自身の」与件と呼ぶ正当な理由は、もはやなくなるであろう。他の個人Oが、Mと同様、与件の所有者として認められる権利を持つことになるであろう。懐疑論者はかつて、次のような心配を抱いた。他の体Oとは、体Mに属する「心」によって所有される像でしかないのではないか、なぜなら、全ては体Mの状態に依存すると思われるから。しかし上で記述した状況下では、OとMの間には完全な対称性が存在する。すなわち、自己中心的な困難は消滅したのである。

 恐らく、上で記述したような状況は作り話であり、現実の世界では起こらないのだから、残念ながらこの世界では相変わらず自己中心的な困難が幅を利かせている、という指摘を受けるだろう。これに対して私は、私の議論は、PとRの相違は単に経験的なものであるという事実、すなわち、命題Pは私たちの経験の限りで、たまたま現実世界において真であるという事実にだけ基づいているのだと答えたい。命題Pが既知の自然法則と適合不可能であるとは到底思われないが、これらの法則がPを偽にする可能性もゼロではない。

 さて、私たちが依然として、命題QはPと同一と見なされる(つまり「私の」という語はMを指示すると定義される)ということを認めるなら、Qにおける「できる」は、経験的可能性を意味する。結果として、哲学者がQをある種の独我論の基礎として用いようとするなら、彼は自らの構築物全体が、未来の経験によって反証されることを覚悟しなければならないであろう。だがこれこそ、本物の独我論者が拒むことである。独我論者はいかなる経験も彼と相反しえないことを断固として主張する。その理由は、経験が常に特異な「私にとっての」性格を持つからである。これが、自己中心的な困難と言うことによって述べられる事態である。換言すると、独我論者は、QがPの別の表現でしかないと定義される限り、独我論をQに基礎付けられないことを十分承知しているのである。実際、独我論者がQを述べるとき、彼は同じ言葉に異なる意味を付与している。彼は単純にPを主張したいのではなく、全く別のことを言おうとしているのである。違いは「私の」という語にある。独我論者は体Mを指示することによって人称代名詞を定義したいのではなく、もっと一般的な使い方をする。彼は文Qにいかなる意味を与えているのだろうか?

 ではQに与えることのできる第二の解釈を検討しよう。

 観念論者や独我論者は、「私は私自身の痛みだけを感じることができる」とか、もっと一般的に「私は私自身の意識の与件だけを感じることができる」と言うことによって、自分が必然的で自明な真理、いかなる経験によっても傷つけられない真理を述べているのだと信じている。もちろん彼は、私たちが記述した架空の世界のような状況がありうることを認めなければならない。しかしそれでもなお、彼はこう言うだろう。たとえ別の体Oが傷つくたびに私が痛みを感じるとしても、私は決して「私はOの痛みを感じる」とは言わない――常に「私の痛みがOの体の中にある」と言うであろう、と。

 観念論者のこの言明がであると決め付けることはできない。これはただ、私たちの言語を想像上の新しい状況に適用する異なる仕方であるに過ぎない。そして言語の規則は、原則として恣意的である。だがもちろん、使用方法のあるものは実際的でうまく適用されるものとして推奨できるし、あるものは誤解を招きやすいものとして批判できる。この観点から観念論者の見解を検討してみよう。

 彼は私たちの命題Rを拒否し、代わりに次の命題で置き換える。

私は自分の体の中だけでなく、他の体の中にも痛みを感じることができる。 (S)

 彼は、自分が感じるいかなる痛みも「私の痛み」と呼ばれなければならず、痛みが感じられる場所は関係ないと主張しようとする。そしてこのことを主張するために、彼はさらに次のように言う。

私は私の痛みだけを感じることができる (T)

 文Tは、文面だけ見ればQと同じである。ただし、「私の」と「できる」を斜体で表記することで、Qとは少し異なる記号を使った。その理由は、独我論者が使うときは、この二つの語は、私たちがPと同義だと解釈するときのQにおける意味とは異なることを示すためである。Tにおいては、「私の痛み」は、もはや「体Mにおける痛み」を意味しない。なぜなら、独我論者の説明によれば、「私の痛み」は別の体Oの中にもありうるからである。そこで私たちはこう問わなければならない。この場合、「私の」という代名詞は何を意味するのか?

 これが何も意味しないことは容易に理解できる。「私の」は、省略可能な余計な語なのである。独我論者の定義によれば、「私は痛みを感じる」と「私は私の痛みを感じる」は同一の意味を持つ。従って、「私の」という語は文中で何の役割も果たしていない。独我論者が「私が感じる痛みは私の痛みである」と言うとき、それはただのトートロジーである。なぜなら、彼が述べたのは、経験的状況がどうであれ、「私は痛みを感じる」という文との関係では常に「私の」という代名詞を使うということであり、「あなたの」や「彼の」を使うことは許さない、ということだからである。この規約は経験的事実から独立の論理的規則であり、それに従えばTはトートロジーとなる。Tにおける「できる」という語は(「だけ(only)」も同様だが)、経験的不可能性ではなく論理的不可能性を表示する。言い換えると、「私は他人の痛みを感じることができる」と言うことは、偽ではなくナンセンス(文法的に禁止されている)である。トートロジーはナンセンスの否定であり、何も主張しないという意味において、それ自身は意味を欠いている[12]。それはただ、語の使用についての規則を示すだけである。

 私たちの推論によれば、独我論者が採用するのはQの第二解釈としてのTであり、これが独我論の基礎を成すわけだが、Tは厳密には無意味である。Tは全く何も語らず、世界についてのいかなる解釈も、いかなる見解も表現しない。ただ、「私の」(あるいは「私の意識内容」)という指標詞を、例外なく全てのものに付与するための奇妙な語り方、不器用な種類の言語を導入するだけである。独我論は、その核心である自己中心的な困難が無意味であるがゆえに、ナンセンスである。

 「私は」とか「私の」という語は、独我論者の規約に従えば、完全に空虚で、ただの言葉の装飾である。「私は私の痛みを感じる」、「私は痛みを感じる」、「痛みがある」という三つの表現の間に意味の違いはないことになる。18世紀の偉大な物理学者にして哲学者であるリヒテンベルクは、デカルトは「われ思う」という命題から哲学を始める権利などなく、代わりに「考えがある(it thinks)」から始めるべきである、と主張した。ちょうど、馬が白いことが論理的に可能でなければ、白い馬について語ることがナンセンスであるように、「私は」や「私の」という語を含むいかなる文も、文をナンセンスにすることなく「彼は」や「彼の」で置き換えることができなければ、有意味ではないだろう。しかし、自己中心的な困難や独我論的哲学を表現すると思われる文においては、こうした置換は不可能である。

 RとSは、私たちが記述したような特定の事態についての異なる説明や解釈ではなく、その記述を単に言葉を変えて定式化したものである。RとSが二つの命題ではなく、異なる二つの言語における同一の命題であることを理解することは、基礎的な重要性を持つ。独我論者は、Rの言語を拒否しSの言語を主張することによって、QをトートロジーとしてTに変換するような用語法を採用した。それによって彼は、自分の命題を検証することも反証することも不可能にしたのである。命題から意味を奪ったのは、独我論者自身である。「私は他人の痛みを感じることができる」という言明を有意味にする機会を(先ほど示したように)拒否したことによって、彼は同時に、「私は私自身の痛みだけを感じることができる」という文に意味を与える機会をも逸してしまったのである。

 「私の」という代名詞は所有を意味する。私たちは、痛みの――それどころか他のいかなる与件についても――「所有者」について語ることはできない――「私の」という語が有意味に使われているのでなければ、すなわち、「私の」を「彼の」や「あなたの」で置き換えることで可能な事態の記述が得られるのでなければ。この条件は、「私の」が体Mを指示すると定義される場合や、痛みを感じる体ならどれでも「私の体」と呼ぶことに同意する場合に満たされる。現実世界では、この二つの定義はただ一つだけの体に適用されるが、しかしそれは経験的事実であるから、異なる事態も可能である。もし二つの定義が一致せず、かつ、私たちが第二の定義を採用するなら、体Mを、私が感覚を持ちうる別の体から区別するための新しい語が必要になるだろう。「私の」という語は、「Aは複数ある私の体の一つだが、Bはそうではない」という形式の文において意味を持つようになるだろう。だが「私は複数ある私の体の中だけに痛みを感じることができる」という文は、ただのトートロジーとなるため、無意味であろう。

 「所有者」という語の文法は、「私の」という語の文法と似ている。この語が意味を持つのは、ある物の所有者が変わることが論理的に可能な場合に限られる。それはすなわち、所有者と所有物との関係が経験的関係であり、論理的関係ではない場合(「外的」であり、「内的」ではない場合)である。従って人は、「体Mはこの痛みの所有者である」とか「あの痛みは体MとOによって所有されている」と言うことができよう。二番目の命題は、(これが自然法則と適合不可能であるとは、私は思わないが)現実世界では決して真な命題として主張することはできないが、どちらも有意味ではある。両者の意味は、痛みと体の状態の間の特定の依存関係を表現することであり、そのような関係が実在するかどうかは、簡単にテストできよう。

 独我論者は、「所有者」という語を、この実際的な用法で使うことを拒否する。彼は、与件の多くの性質が完全には人間の体の状態には依存しないこと、すなわち、与件の振る舞いを制限するものは「物理法則」と表現できることを知っている。それゆえ彼は、「私の体は全てのものの所有者である」と言うことが誤りであることを知っており、ゆえに彼は「自己」とか「自我」とか「意識」について語り、それが全ての所有者であると主張するのである。(ところで観念論者も、私たちは「現象」以外の何も知らないと主張するときに、同じ間違いを犯している。) これは誤りである。なぜなら、「所有者」という語は、このように使われる場合、その意味を失うからである。独我論的言明は検証も反証もできない。事実がどうあろうと、この言明は定義によって真になる。この言明は単に、「私によって所有される」という句を全対象の名前に付加するといった言語的規約において成立する言明に過ぎない。

 それゆえ私たちは、私たちが自らの体を与件の所有者または担い手と呼ばない限り――これは若干誤解を招きやすい表現ではあるが――与件は一切の所有者も担い手も持たないということを見てきた。経験のこうした中立性は――観念論者が経験について主張する主観性に反して――本物の実証主義の最も基礎的な論点の一つである。「全ての経験は一人称の経験である」という文は、全ての与件は私の体Mの神経組織の状態に、ある特定の点で依存するという単純な事実を意味するか、さもなくば無意味である。この生理学的事実が発見されるまでは、経験は全く「私の」経験ではなく、自己充足的であり「誰にも属さない」ものである。「自我が世界の中心である」という命題も、同じ事実の表現とみなせよう。この命題が意味を持つのは、「自我」という語が体を指示する場合だけである。「自我」の概念も、同様の事実の上に構成されるものであり、私の内部にあるものと外部にあるものを遮断する絶壁という観念が存在せず、ゆえに「自我」の概念が形成されないような世界を想像することは容易であろう。そのような世界では、命題Rやそれに類似の命題に対応するような出来事が規則であり、「記憶」という事実も、現実世界とは異なるかたちで表明されるだろう。そうした状況下では、私たちが「自己中心的な困難」へ陥る誘惑を受けることはまずない。だがいかなる状況下でも、この困難を表現しようとする文は無意味であろう。


* * *

 最後の考察を終えた今、いわゆる外的世界の実在についての問題を処理することは容易である。ルイス教授に従って(p.143)、「実在論的」仮説を「仮に宇宙から全ての心が消え去っても、星々は運行を変えないだろう」という主張によって定式化するなら、私たちはそれが検証不可能であることを認めなければならない。だがその不可能性は単に経験的なものである。そしてこの仮説が述べるのが経験的状況である以上、この仮説が真であると信じる十分な理由がある。私たちはこの仮説の正しさを、科学が発見した物理法則の上に立てられた最良の仮説と同じぐらい確信している。

 実際、世界には、地球上の人間に起こることから完全に独立な特定の規則性が存在することは、既に指摘した通りである。 [例えば] 天体の運行法則を定式化するために人間の体を指示する必要はない。そしてこの理由によって、私たちが天体は人類の滅亡後も運行を続けると主張することが正当化される。経験は、この二種類の事実の間の何の関係も明らかにしない。私たちは、火山の噴火や中国における政権交代が天体の運行に変化をもたらさないのと同様、人間の死も天体の運行に変化をもたらさないと言う。地球上の全ての生物や、あるいはもっと大胆に、宇宙内のあらゆる生物が消滅したと仮定した場合でも、僅かでも異なる点があるだろうか? 経験的証拠をもとにした生物の実在は、世界の他の部分が実在することの必要条件ではないという点に、全く疑念はありえない。

 「私の死後も世界は存続するか?」という問いは、「星々の実在は人間の生存または死に依存するか?」と解釈するのでない限り、無意味である。そしてこの問いは経験によって否定的に答えられる。独我論者や観念論者の誤りは、この問いを経験的に解釈することを拒否し、その背後に形而上学的問題を探そうとすることにある。しかしこの問いに新しい意味を与えようとする彼らの努力は、結局、最初の問いから意味を奪う結果に終わるだけである。

 お気づきだろうが、私は「仮に宇宙から全てのが消えたなら」という句を「仮に宇宙から全ての生物が消えたなら」という句で勝手に置き換えていた。この置換によって私が問題の意味を変えてしまった、とは取られないことを期待する。「心」という語を避けたのは、私がそれを「自我」や「意識」など、私たちが曖昧で危険だとみなした語と同義であると考えたからである。生物という語で私が意味するのは、知覚能力を持つ生き物であり、知覚の概念は生物の、つまり身体的器官を指示するだけで定義できる。それゆえ、私が「心の消滅」を「生物の死」で置き換えたことは正当化される。しかしこの議論は、「心」という語を定義するために採用しうる任意の経験的定義に対して通用する。私が指摘すべき点はただ、経験によれば天体の運行はあらゆる「心的」現象 ―― 喜びや悲しみを感じる、瞑想する、夢を見る、等々 ―― から独立である、ということだけである。こうして私たちは、これらの心的現象が存在しなくなったとしても、星々の運行に影響はないと推論することができる。

 しかし、この推論が経験によって検証できるというのは正しいのだろうか? 経験的には、これは不可能だと思われる。しかし周知のように、求められているのは論理的可能性だけである。そして「心」がなくともこの検証は論理的に可能である。なぜなら、私たちが主張してきたように、経験は「中立」であり、特定の人間に依存しない性格を持っているからである。原始的経験、つまり順序づけられた与件が単に実在することは、「主観」、「自我」、「私」、「心」などの存在を前提としない。原始的与件の生起には、これらの概念を形成することに通じるいかなる事実も必要としない。原始的与件は誰の経験でもない。植物も動物も人間(体 M も含む)も上述の心的現象も存在しない宇宙は、容易に想像できる。それはまさに「心のない世界」であろう(他にどんな名前がふさわしいというのか?)。しかしその世界でも、自然法則は現実世界と全く同じであろう。私たちはその宇宙を、現実の経験の用語を使って記述することができる。(ただ、人間の体と感情を指示する全ての用語を除外すればいいのだ。) そうすれば、その世界を可能な経験の世界として語ることは十分できる。

 この最後の考察は、本物の実証主義の主要なテーゼの一例を提供してくれる。それはすなわち、街角で見られる世界の素朴な表象は完全に正当であり、重大な哲学的問題の解決は、厄介な問題は全て誤った言語による世界の不適切な記述だけから生じたものであることを示した後に、原点の世界観へ返ることにある、というテーゼである。

訳註
[1] 後半の章で明確に述べられますが、この「命題を現実に適用する」ことが「検証」という行為です。他にも「命題と現実を比較する」、「命題を現実にあてがう」などの表現も全て同じことを表しています。
 ところで、ここでシュリックが「現実に適用する」というように括弧つきでこの表現を使っているのはなぜでしょう。それは、このアイデアが他の人物から借用したものだからです。その人物こそ、当時シュリックが頻繁に接触を持ち、深く傾倒していたウィトゲンシュタインです。検証主義者としてのウィトゲンシュタインの思想は、主に『考察』や『学団』から知ることができますが、既に『論考』においてもその萌芽はあります。以下を参照。
像は物差のように現実に対してあてがわれる。
(『論考』2・1512)

像の真偽を認識するためには、我々は像を現実と比較せねばならない。
(『論考』2・223)

論理の適用がいかなる要素命題が存在するかを決定する。
(『論考』5・557)

 適用ということで私が理解しているのは、音の結合や種々の線を言語とするもののことである。即ち、適用が線の刻まれている棒を物差しとする、と言われる意味で、言語を現実にあてがうこと。
 そしてこの言語をあてがうことが命題の検証である。
(『考察』第54節)

[2] これが「意味の検証理論」のテーゼです。細かい話をすると、「検証」の概念は論理実証主義者の間で二通りの使われ方をします。一つが、「命題の意味はその検証方法である」という強いテーゼ(S)としての使われ方。(シュリックが触れているのがこれです。) もう一つが「命題が有意味であるためには、検証可能でなくてはならない」という弱いテーゼ(W)としての使われ方です。前者は一般に「検証原理」または「意味の検証理論」、後者は「検証可能性のテーゼ」と呼ばれます。(もっとも、シュリックも断るように、前者を「理論」と呼ぶことは厳密にはふさわしくありません。)
 前者が強く後者が弱い、というのは、前者は後者の十分条件であるのに対し、後者は前者の必要条件に過ぎないので、前者から後者は帰結しますが、後者から前者は導けないという意味です。命題の意味が検証方法なら、命題が有意味であることの必要十分条件は、命題を認識する人がその検証方法を知っていることです。ということは、有意味性の必要条件として、そもそも検証可能であることが要請されます。(検証可能でない命題について検証方法も何もあったものではありません。) ゆえに(S) → (W)が成立します。これに対し、(W) → (S) は必ずしも成り立ちません。命題が有意味であるためには検証可能でなければならないとしても、命題の意味そのものは検証方法である必要はないからです。

[3] 「直示的定義はいかなる前提知識も必要としない」という見解には多くの批判が存在します。皮肉にも、ウィトゲンシュタインからも厳しい批判が寄せられました。この論文の2年前から前年にかけて口述された『青色本』や、『探究』第28節にその批判を見出すことができます。
 実際、ウィトゲンシュタインが言うように、「直示的定義は一意的に語の意味を定義する」とか「直示的定義を理解する上で前提知識は必要ない」という考えは誤りです。鉛筆を見せて「これはタブ」だと言うとき、説明された側が「これは赤い」とか「これは丸い」のように様々に解釈することはありえます。定義が一義的に伝わるためには、問題となっている性質が形なのか色なのか、それとも別の性質なのか、事前に相手が了解している必要が ―― つまり前提知識を持っている必要が ―― あります。
 従って、シュリックの「ウィトゲンシュタインも主要な論点については賛同してくれるだろう」という希望的観測は、裏切られてしまうでしょう。

[4] ブリッジマン(Percy Williams Bridgman, 1882-1961)はアメリカの物理学者。高圧物理学の実験研究を専門とし、1946年にノーベル賞を受賞しました。哲学においてはしばしば、初期の反実在論の一分岐である「操作主義(operationism)」の提唱者とみなされます。主著『現代物理学の論理』は、科学上の全ての概念を、対応する操作によって定義しようとする構想に基づいています。

[5] この場合のトートロジーは、今の命題論理でいうトートロジー(恒真関数を表現する論理式)と同義ではなく、同語反復的な論理的真理を漠然と意味する言葉です。そのため、「同語反復」という古めかしい訳語が、この場合は適切です。

[6] この一文には、論理の基礎を規約に求めようとする規約主義が現れています。論理実証主義は、『論考』のプラトニズム批判を継承して、論理的真理の必然性を保証する方法に規約主義を採用します。この立場は、1920年代を通して大きな勢力を持ちましたが、後にクワインの「規約による真理」(1936)において、こうした「純粋な規約主義」は原理的に保持できないものであることが示されます。(クワイン自身も、一時は規約主義を支持した一人でしたが。)
 しかし、これで規約主義というアイデアが完全に破綻したわけではありません。ウィトゲンシュタインの「根元的規約主義」はともかくとして、まだ「純粋ではない」規約主義に存続の可能性は閉ざされていません。

[7] Ignorabimus は人間の認識の限界性を表現するスローガンで、1872年ライプツィヒで開催されたドイツ自然研究者医学者大会(GDNÄ)において、デュ・ポワ=レーモンが講演「自然認識の限界について」を締めくくる言葉として述べた言葉「Ignoramus, Ignorabimus(我々は無知である、我々は無知のままであろう)」に由来します。有名な「ラプラスの魔」の喩えを用いて機械論的還元論の原理が批判されたのもこの講演で、この後、賛否両論が飛び交う「イグノラビムス論争」が展開されました。
 科学に対して楽観的な期待を寄せるシュリック(およびウィーン学団の面々)は、否定派です。またヒルベルトも「我々は知るであろう」と述べて否定派にまわりました。

[8] カルナップの「方法論的独我論(methodological solipsism)」は、全ての概念を自己の体験的所与によって基礎付けられるという還元主義的な現象主義を表すもので、ラッセルの論理的原子論の展開と呼べます。
 この用語は、1980年にアメリカの哲学者J.A.フォーダーが提唱した、認知科学の方法論上の立場を指すものとしても使われるので、(共通点はあるものの)カルナップのものと混同しないよう注意が必要です。フォーダーの立場は、心を外界から切り離して単独で研究対象とすることが可能であるというもので、心の計算主義と結びついて認知科学では主流をなす考えです。

[9] ファイヒンガー(Hans Vaihinger, 1852-1933)はドイツの哲学者。ストラスブール大学とハレ大学で教授。雑誌『カント研究』およびカント協会を設立したカント学者として知られます。新カント学派隆盛期に、独自の「虚構主義」を提唱し、科学や哲学の真理は全て真理そのものではなく、真理である「かのような」虚構であり、生きる上での有用性によってその存在が要請されていると主張しました。シュリックが批判するのがこの虚構主義です。その思想は、そのものずばりのタイトルを持つ『かのようにの哲学』(1911)に収められています。

[10] アヴェナリウス(Richard Avenarius, 1843-96)はドイツの哲学者。チューリヒ大学教授。マッハとともに経験論批判を主張し、哲学とは所与に含まれていない全ての観念を知識から取り除く科学的努力であるという考えを展開しました。

[11] シュリックの情報源とは違うでしょうが、『青色本』で、「他人の痛みを私が感じられることは論理的に不可能ではない」という例を使った議論が述べられています。

[12] 『論考』の以下の節も参照。

トートロジーと矛盾は、それが何も語らない、ということを示す。トートロジーと矛盾は真理条件を何一つ持たない、それは無条件に真であるからである。そして矛盾はいかなる条件の下でも真でない。トートロジーと矛盾は意義を欠いている。
(『論考』4・461)

 シュリックはトートロジーについて「ナンセンスの否定」と述べていますが、実際は『論考』では、トートロジーは矛盾の否定です。そしてトートロジーと矛盾は「意義を欠く」(4・461)が、「ナンセンスではない」(4・4611)とされています。これだけなら、シュリックがナンセンスと矛盾を混同する誤りを犯した、というだけで済むのですが、『論考』における「トートロジー・矛盾・ナンセンス」の三者には少し複雑な関係があります。
 まず、4・461で述べられているように、トートロジーと矛盾は意義を持ちません。このことから、両者がナンセンスであるとシュリックが推論したのも無理からぬことです。しかし他方、トートロジーも矛盾も要素命題の真理関数として得られるものですから、それらも命題です。そして命題は真偽両方の可能性を持つことが要請されています。ところが、トートロジーは絶対に偽にならないし、矛盾は絶対に真になりません。すると両者とも『論考』が認める命題の資格を持たないナンセンスになってしまいます。このジレンマから逃れるために、ウィトゲンシュタインは「トートロジーと矛盾は意義を欠くが、ナンセンスではない」という苦しい説明をせざるを得なかったのでしょう。

 

著:M.シュリック 1935
訳:ミック
作成日:2004/05/17
最終更新日:2017/06/22 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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