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草稿 1914-1916
言語は自分で自分の面倒を見なければならない。[5・473を見よ]
もし、関数に対する構文論的規則を打ち立てることがそもそも可能なら、事物やその性質などについての全ての理論は不必要になる。この理論が、『基本法則』においても『プリンキピア・マテマティカ』においてもテーマとなっていないことは余りに明らかである[1]。なぜなら、繰り返しになるが、言語は自分の面倒を見なければならないからだ。もし記号 [を作ること] が可能なら、[記号が] 何かを指し示すこともまた可能でなくてはならない。可能なものは全て規則にも適う(許可されている)。「ソクラテスはプラトンである」が無意義である理由を思い出そう。つまり、恣意的に決められる定義を私たちが決めなかったからであり、記号それ自体が規則に適さないからではないのだ! [5・473を参照]
私たちは、ある意味において、論理において誤まることはできない。このことは部分的には「論理は自分で自分の面倒を見なければならない」という文の中に表現されている。これは非常に深く、重要な認識である。[5・473を参照]
フレーゲは「規則に適うよう作られた命題は全て、意義を持たねばならない」と言った。私は次のように言おう。いかなる可能な命題も規則に適うよう作られる、そしてその命題が意義を持たないなら、原因はただ、私たちが [命題の] 構成要素に意味を与えなかったことである(たとえ私たちは与えたつもりになっていても)。[5・4733を参照]
論理は自分で自分の面倒を見なければならないということは、どのようにして哲学の問題と結びつくのだろう? 例えば、しかじかの事実は「主語-述語形式」のものか、と問うなら、「主語-述語形式」という句のもとで何を理解しているかを知っていなければならない[2]。[それ以前に] そもそもそのような形式が存在するかしないかを知らなければならない。どうすれば知ることができるのか? 「記号から!」 しかしどうやって? 私たちはこの形式の記号を全く持っていないのに。確かに、主語-述語形式のように振舞う記号を持っていると言うことはできる。しかしこのことは、主語-述語形式の事実が本当に必ず存在することの証明になるだろうか。つまり、もしこれらの記号を完全に分析すれば [主語-述語形式の存在を証明できるのか]。ではここで再び問おう。そのような完全な分析はあるのか? もしないとすれば、哲学の仕事とは一体何なのか!?
従ってこう問うことができる。主語-述語形式は存在するのか? 関係の形式は存在するのか? いやそもそも、ラッセルと私がよく語り合った諸形式のうち、一つでも存在するのか? (ラッセルならこういうだろう。「存在するにきまってる! なぜならそれは自明だから」。やれやれ!)
従って、示されることが必要なものが全て、主語-述語命題等の存在をとおして示されるのなら、哲学の仕事は、私が最初に想定していたものとは違うことになる。だがもしそうでないとすれば、足りないものは一種の経験によって示されるものでなくてはならない。そして、そんなものは [哲学の] 領域外のことである。
記号と記号によって指示されたものとの間の本来的な論理的同一性はどこに存するのか、という問いには、明らかに不明瞭なものがある! そしてこの問いこそが、(繰り返すが)哲学の全問題の中核なのである。
以下のような哲学の問い、例えば、「Aはよい」は主語-述語命題であるか否か、あるいは、「AはBより明るい」は関係命題であるか否か、などが与えられたとしよう。[だが] そもそもこのような問いにどうしたら答えられるだろうか?! 例えば、最初の問いに対して肯定的に答えなくてはならないと私を納得させることが、一体どのような明証によって可能だろうか? (これは非常に重要な問いだ。)この場合もまた、唯一の証拠は、あの胡散臭いことこの上ない「自明」というやつではないか?? これとよく似た、しかしもっと簡単で基礎的な問題を取上げよう。つまり、「私たちの視覚像の点は、単純な対象、物であるか?」というものだ。こういう問題を、私は今までずっと本来的に哲学の問題であると見なしてきた。そしてある意味では確かにそのとおりである。しかし何度も繰り返すが、この問題に決着を着けられる明証とは一体どのようなものか? この場合、むしろ問いの立て方に間違いがあるのではないか? というのも、この問いについては、何一つ自明ではないし、そもそもこの問いに決着をつけることはできないと、自信を持って断言できると思われるからだ。
主語-述語命題の存在が、全ての必要な全てのことを示すのではないとすれば、それを示せるのは、主語-述語形式を持つ何らかの特別な事実の存在のみである。だがこの種の事実を認識することは、論理にとって本質的なことではありえない。
仮に、本当に主語-述語形式を備えた記号を、私たちが持っているとするなら、この記号は、私たちが現在持っている主語-述語命題よりも、主語-述語命題を表現するためにより適切だろうか? そうとは思えない! このことの本質は、指示関係にあるのだろうか?
もし論理がある種の問いに回答を与えることなく完結できるなら、論理はその回答なしに完結しなければならない。
記号と記号によって指示されたものとの論理的同一性は、記号と指示されたものの両方において、全く同等に再認識が可能であるということに存している。
もし記号と指示されたものとが、論理的内容の点でわずかでも同じでないとすれば、論理よりも基本的な何かが必要になるだろう [だが実際にはそんなものは必要ない] 。
φa.φb.aRb = Def φ[aRb]
「関数」、「変項」、「命題」などの語は論理学に現れてはならない、ということを思い出せ!
二つのクラスについて、それらが同一であると語ることは、何かを語っている。二つの物について、それらが同一であると語ることは、何も語らない。既にこのことが、ラッセルの定義が許されないことを示している。
実のところ、すぐ上の命題は、数学における同一性に対する昔ながらの反論に他ならない。すなわち、2 × 2 が本当に4に等しいなら、この命題はもはや a = a 以上のことは語らないであろう、という反論である。
論理学は関数を使って仕事をするが、その関数の分析可能性には関与しないと言うことができよう。
未分析の主語-述語命題もまた、全く確定的なことを明確に表明する、ということを良く考えよ。次のように言うことはできないだろうか。「私たちが分析不可能な命題と関わりを持つことが問題なのではない。そうではなく、私たちの主語-述語命題はあらゆる関係においても分析可能な命題と同じように振舞うということ、すなわち、私たちの主語-述語命題の論理は、分析可能な命題の論理と同じであるということが問題なのである。」 私たちにとって問題なのはただ、論理を完結させることであり、未分析の主語-述語命題に対する私たちの反論の眼目は、命題の分析を知らない限り、その構文論を構築できないという点だった。しかし、見かけ上の主語-述語命題の論理は、本当の主語-述語命題の論理と同じでなくてはならないのか? とにかく、命題に主語-述語形式を与える定義が可能だとしたら、どうであろうか・・・?
ラッセルがよく口にしていた「自明」は、言語それ自身が論理的誤りを阻止しさえすれば、論理学には必要なくなる。そしてこの「自明」が全く欺瞞的であること、またこれまでもそうだったことは明らかである。 [5・4731を参照]
「この椅子は茶色である」のような命題は、非常に複雑なことを語っているように思われる。というのも、命題の多義性から異論が生じないように表明しようとすれば、この命題は際限なく長くなるに違いないであろうから。
命題がその意味の論理的写像であることは、偏見の無い眼で見れば自明である。
例えば「それが事実であることは、あれが事実であるよりも良いことだ」のような事実の関数は存在するか?
「pが事実であることは、良いことだ」という命題において、記号pと残りの記号との結合は、一体何に存するのか? この結合は何において成立するのか??
偏見を持たない人は言うであろう。それは明らかに、文字pとそれに隣り合う二つの記号 [「事実である」と「良いことだ」] の空間的関係においてである、と。しかし、事実「p」に物が全く現れないとしたらどうであろうか??
「pであることは良いことだ」は、確かに「p.もしpならば良い」という形に分析できる[3]。
pが事実ではないと仮定しよう。その場合、「pであることは良いことだ」と語るのはどういうことか? 実に明白なことだが、私たちは「p」の真偽を知らなくとも、事態pが良いと語りうる。
ここにおいて、「語は別の語と関係する」という文法の表現が問題になる。上の事例では、命題同士がいかにして関連しあうのか、命題-結合がいかにして生じるのかを述べることが重要である。 [4.221を参照]
関数はいかにして命題と関係しうるか???? これは常に昔から繰り返されてきた問いだ! 問いに押し潰されないよう、気楽にいこう!
「φ(yx)」:これによって主語-述語命題の関数が与えられたと仮定しよう。そして命題に対して関数がどのように関係しているかを、次のように説明しよう。「この関数は直接には主語-述語命題の主語とのみ関係しうる。そして命題が指示することは、この関係と主語-述語命題記号からなる論理積である。」 さて、私たちがこのように言うと、人は次のように問うことができよう。もし君が命題をそのように説明できるなら、命題の意味(Bedeutung)[4]も同様の仕方で説明できるのではないか? すなわち「それは主語-述語 [の命題記号という] 事実の関数ではなく、主語-述語命題記号と主語の関数の論理積ではないか?」 上の説明に対するこの反論は、前の説明に対する反論でもあってはならないか?
事態の性質は常に内的でなくてはならないということは、ある意味で明らかであると、突然だが、今やそう思われる。
φa、yb、aRb。最初の二つの命題が真であれば、事態aRbは常にある種の性質を持つと言うことができよう。
私が「pが事実であることは良いことだ」と言うとき、pはそれ自身において良いのでなくてはならない。
事実の関数は存在しえないということは、今や私には明らかだと思われる。
次のように問うことができよう。結局のところ、事態pが全く事実ではない場合に、いかにしてpは性質を持ちうるのか?
関係同士の割り当てが可能かという問いは、真理問題と同一である。
なぜならこれは、事態を事態に割り当てることは可能かという問題と同一だからである。(指示するものと指示されるもの)。
事態の割り当てはその構成要素を割り当てることによってのみ可能である。一つ例を挙げることで、名前とそれによって名指されるものの割り当てを示せる。(そしてまた、何らかの仕方で関係の割り当てが行なわれることも、明らかである。)
| aRb | ; | ab | ; p=aRb Def
この場合、単純な記号が事態に割り当てられている。
私たちは、二次元の文字によって任意の意義を表現できることを確信している[5]。確かにこの確信には十分な根拠がある――だが一体、何において根拠付けられているのか?!
ある命題がその意義を表現できるのは、それが当の意義の論理的写像であるからに他ならない!
記号「aRb」と「arR.Rrb」の類似性は目立ちやすいものだ。
命題の一般概念はまた、命題と事態の割り当てについての全く一般的な概念と表裏一体である。私の問題の解決は極めて単純でなくてはならない!
命題において世界は実験的に構成される。(パリの法廷で交通事故が人形などを使って描写されるように[6]。) [4.031を参照]
それゆえ、(私が盲目でなければ)真理の本質は即座に明らかになるはずだ。
一語一語が意味を表す象形文字を考えてみよう! 諸事態の現実の像は [現実と] 一致することも一致しないことも可能である、ということについても考えよう。 [4.016を参照]
»«
この像において、右の人間が人物Aを表象し、左の人間が人物Bを指示するとすれば、この像が全体として表明することは、例えば「AはBと戦っている」ということである。この象形文字による命題は真でも偽でもありうる。この命題は、真偽とは独立に、ある意義を有する。本質的なことは全て、このことに明瞭に示されていなくてはならない。
次のように言うことができる――私たちは確かに、紙の上の像に全ての事態を持ち込むことができるという確信はもっていない。しかし、事態の全ての論理的性質を二次元の文字で写像できるという確信は持っている。
今のところ、私たちは表層をうろついているだけだ。だが、おそらくいい線をいっている。
この像において、右側の要素は何かを描写し、左側も同様に何かを描写すると言うことができる。しかしこれが事実ではなくても、両者の現在の配置は何かを描写しうるだろう。(すなわちある関係を。)
像は存在しない関係を描写しうる!!! いかにしてそれは可能か?
今や再び、記号の存在によって関係の存在が保証されるには、全ての関係は論理的でなくてはならないと思われる。
「aRb.bSc」においてaとcを結び付けているのは、記号「.」ではなく、二つの単純な命題の双方に「b」という同一の文字が現れていることである。
この命題はこれこれの意義を持つ、と言う代わりに、直截に、この命題はこれこれの事態を描写している、と言うことができる。! [4.031を見よ]
命題は事態を論理的に写像する。
専らそれゆえに、命題は真または偽でありうる。命題は、事態の像であることによってのみ、現実と一致したり一致しなかったりすることができる。
命題は、論理的に分節化されている限りにおいて事態の像である!(単純な――分節化されていない――記号は真でも偽でもありえない。) [4.032を参照]
名前は名指されるものの像ではない!
命題は、それが像である限りにおいて何かを表明する。
トートロジーは何も表明しない。事態の像ではないからだ。トートロジー自身は論理的に完全に中立である。(トートロジーとある命題の論理積は、後者だけの場合と全く同じだけのことを語る。) [4.462と4.46を参照]
「xRy」において「x」と「y」が何も指示しなくても、そこに関係を指示する要素が含まれうることは明らかである。その場合、その関係は、記号によって指示される唯一のものになる。
しかし前節の場合、ある記号体系において「キロ」 [という単純な記号] が「私は良い気分だ」を意味することはいかにして可能か? この記号体系では、単純な記号が何かを表明し、他人に何かを伝えるために使われている!! ―
前節の意味において、そもそも「キロ」という語は真または偽でありえないか?
だがとにかく、単純な記号を命題の意義に割り当てることは可能なのだ。―
論理学が関心を持つのは現実だけである。それゆえ論理学は、命題が現実の像である限りにおいて命題に関心を持つ。
しかしどうすればある語が真または偽でありうるのか? いずれにせよ、語は、現実と一致したりしなかったりする思想を表現することはできない。思想は分節化されていなければならない!
語は、現実と一致しうるとかしえないという意味では、真や偽ではありえない。
片方がもう一方の論理像でありうるような、従ってある意味で実際に論理像であるような二つの複合物についての一般的な概念。
二つの複合物の一致は明らかに内的であり、それゆえ、それは表現しうるものではなく、ただ示されうるだけである。
「p」は真である、はp以外のことを表明しない。
「『p』は真である」は――上の見解に従えば――示されうるだけのことを語っているように見せかける全ての記号結合と同じく、ただの擬似命題に過ぎない。
命題φaが与えられるなら、それと共にその全ての論理的関数(〜φaなど)も既に与えられている! [5.442を参照]
事態の完全な写像と不完全な写像。(関数と変項は関数と変項によって写像される。)
「これ以上は分解できない」という表現もまた、「関数」、「物」などの表現と同様、指標を指す表現である。だが、私たちがそれで表現しようとすることは、いかにして示されるのか?
(人はもちろん、物についても複合物についても、これ以上分解できないと語ることはできない。)
関係同士の直接的な割り当てが仮にあったとしたら、その場合、当の関係内の物はいかにして相互に割り当てられるか、という問題が生じるであろう。関係同士は、その意義を考慮することなく、直接割り当てられることがあるのか?
「物の間の関係」
「関係の間の関係」
という表現が見かけ上類似しているために、「関係の間の関係」 [の存在] を仮定する過ちを犯してしまっただけではないのか?
これほど熟考を重ねているというのに、私はどこかで根本的な間違いを犯している。
存在命題の可能性についての問いは、論理学の途中ではなく出発点に位置している。
「無限公理」に伴う全ての問題は、「(∃x) x = x 」という命題において、既に解決されなければならない。 [5.535を参照]
ある見解を述べたが、それがいかにして真であるかは後になって初めて分かる、ということがしばしばある。
私たちの困難は今や、外見上、言語には分析可能性も不可能性も反映されていないという点にある。これはつまり、例えば本当に主語-述語命題が存在するか否か、恐らく言語だけからでは判断できないということである。しかし、どうすればこの事実、またはその反対を表現できるというのか? それは示されねばならないことなのに!
だが、もし分析可能性の問題を全く気にかけないとすればどうか? (その場合、私たちは、何も指示せず、その論理的性質を通してのみ表現を助ける記号でやっていくことになるだろう。) というのも、未分解の命題もまた、命題の意味の論理的性質を反映しているからである。すると次のように語る場合はどうであろう。つまり、ある命題がさらに分解可能である場合、そのことは、その命題が定義により分解可能である場合に示されるのであり、いかなる場合でも私たちは、その命題をまさに分析不可能な命題であるかのように見なしてやっていくのである、と。
「無限基数についての命題」は全て有限な記号によって描写されるということについて考えよ!
しかし私たちは――少なくともフレーゲの方法によるなら――数 100,000,000 を定義するためには1億個の記号を必要とするのではないか? (その場合、数がクラスに適用されるか物に適用されるかは問題ではないのか?)
無限数を扱う命題は、論理学の全ての命題と同様、記号自身を計算することによって得られる。(なぜなら、計算のいずれの段階においても、根源的な原初記号に余計な要素が付加されることはないからである。) それゆえ、ここにおいても再び、記号は描写されるもの自身の全ての論理的性質を持たなくてはならない。
当たり前の事実だが、完全に分析された命題は、名前の意味である物とちょうど同数の名前を含んでいる。この事実は、世界が言語によって包括的に描写されることの一例である。
「無限公理」のような命題が本来いかなる意義を持つのかを理解するためには、今一度より精密に基数の定義を研究しなければなるまい。
論理は自分で自分の面倒を見る。私たちがすべきことはただ、論理がいかに働くかを見て取ることだけである。 [5.473を参照]
「一つだけの要素を持つクラスが存在する」という命題を考察しよう。あるいは同じことだが、
(∃φ):.(∃x):φx.φy.φz.⊃y,z.y = z
という命題を考察しよう。
「(∃x) x = x 」という命題がトートロジーであることは理解できよう。この命題が偽であれば、そもそも何物も記述しえないからである。だがちょっと待て! この命題は「無限公理」の代わりとして研究することができる!
物しか存在しないとき数について語ることが出来るか? 従って例えば、世界がただ一つの物から成り、それ以外は存在しないとき、一つの物が存在すると言うことができるだろうか――この種の命題が無意義であることを、私は知っている。ラッセルならきっと言うだろう。「もしひとつの物が存在するなら、関数(∃x) ξ = x もまた存在する。」 だがしかし!
訳註
[1]
『基本法則』は、フレーゲの『算術の基本法則』、『プリンキピア・マテマティカ』は、ラッセルとホワイトヘッドの共著です。どちらも論理主義のプログラムの集大成であり、ウィトゲンシュタインが熟読した書物です。
[2]
「主語-述語形式」とは、フレーゲが述語論理を創始する以前の、中世以来の伝統的論理学における命題の一般形式です。伝統的論理学における文の分析では、全ての命題を主語-述語形式という一つの形式に変形します。この分析に従えば、全ての命題は「主語」と呼ばれる項(term)と「述語」と呼ばれる項とを繋辞(copula)で結合することで形成されます。主語と述語がともに「項」と呼ばれていることからも分かるように、主語と述語の区別は、単に、それが繋辞の前に来るか後に来るかの違いでしかなく、文は語の一次元的な並びに過ぎません。
[3]
「命題の分析」とは、複合命題をより単純な命題の真理関数によって表現しなおすことです。この分析を究極まで推し進めた結果得られる命題が要素命題です。ウィトゲンシュタインは「分析」という語を後期でも同じように使います。『探究』第60節-第63節を参照。
[4]
この頃の草稿では、命題の「意味(Bedeutung)」と命題の「意義(Sinn)」というように用語法が一定していません。後に『論考』では、名前は意味を持つが意義を持たず、命題は意義を持つが意味を持たないとされることを考え合わせると、まだウィトゲンシュタインが手探りで模索していたことを窺わせます。
[5]
「任意の意義を表現できる」とは、「語られうることを全て表現できる」ということです。(「意義を表現すると言う代わりに、直截に、事態を描写すると言うことができる」と述べられていることから分かります。)これはつまり、語られうること全ての集合を A、人間の言語で語りうること全ての集合を B とすれば、A と B はぴったり重なる、ということです。『論考』の序文でも全く同じテーゼが断言されますが、この時点では、まだその根拠が疑問視されています。
[6]
写像理論の着想を得たきっかけとして、C.ライトらによって繰り返し語られた有名なエピソードです。
著:L. ウィトゲンシュタイン
訳:ミック Copyright (C)
作成日:2004/05/12
最終更新日:2006/07/17
この作品は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。